陳平の生涯と伝説【呂一族を滅ぼし劉氏に政権を戻した名軍師】

陳平

陳平は、さまざまな智謀で前漢の高祖・劉邦を助けました。劉邦死後は専横をきわめる呂后の元で丞相として耐え、呂后が死ぬと呂一族を滅ぼしました。

陳平とは

陳平は、若い頃農業をやる兄に守られて好きな読書にふけることができました。末に陳勝呉広の乱が起き、魏王が立つとこれに身を投じ、次に項羽の元に走り、その後劉邦の配下となりました。劉邦の信頼を得ると、謀臣としてさまざまな奇計を進言しました。項羽攻略では君臣離反の策を献じ、これにかかった項羽は、忠実で優れた軍師であった范増を疑い、これに怒った范増は項羽の元を離れました。劉邦が匈奴軍に包囲された時は、陳平の進言で賄賂を贈って脱出することができました。

劉邦亡き後は漢の丞相として呂后や呂の一族の専横に耐え、呂后が亡くなると呂一族を滅ぼしました。前漢第5代の文帝の時も丞相として漢の行方を見守りました。

年表
年表。陳平は秦末~前漢初期に活躍しました。
陳平
陳平は若いころ祭りの料理人となった際に肉を公平に分け、「自分が宰相となったなら天下をこのように公平に治める」と言ったと伝わっています。

劉邦の家臣となるまでの陳平

陳平は陽武(河南省原陽県)の人で、美丈夫で読書好きでした。兄の陳伯と暮らし、兄には田畑がわずかにあるばかりで貧しかったのですが、兄は陳平に仕事を強要せず、好きに本を読ませていました。

兄嫁はこの義弟が気にいらず、人から「お宅は貧乏なのに陳平さんはなぜ太っているんですか」と聞かれると、「糠や米くずを食べてるだけですよ。あんな弟はいない方がましです」と言いました。兄はこれを聞いて嫁を追い出してしまいました。

陳平は嫁をもらう年ごろになっても、金持ちからは相手にされず、貧乏な家の娘では恥ずかしいのでなかなか決まりませんでした。

その中で一人金持ちの孫娘がいて、5度も結婚したのに夫は次々に亡くなり、誰も相手がいなくなってしまいました。陳平はこの娘と結婚したいと思いました。

陳平は町で葬儀があるといつも助けに行き、最後まで世話をしていました。その様子を見ていた金持ちが「立派な男だ」と思って孫娘を陳平に嫁がせました。

その後陳平の暮らし向きは良くなり、いろいろな人と交際するようになりました。

土地の氏神の祭りで、陳平が供え物の世話をすると公平なので、土地の重鎮たちにほめられました。すると陳平は「国の宰相にしてもらえたらうまくやれるのに…」と言ったといいます。

秦末に陳勝呉広の乱が起き、魏王が立つと、陳平は兄に別れを告げ魏王に身を投じました。

魏王が自分の策を受け入れてくれなかったので、次に項羽に帰属し、項羽軍とともに関中に入りました。戦いぶりが認められて「都尉」(とい…郡の軍事を司る)になりましたが、その後劉邦軍に負けると項羽から命を奪われそうになりました。そこで陳平は項羽のもとを離れました。

項羽から逃げる際、黄河を渡ろうとすると、その美丈夫ぶりに財宝を持って逃亡中の将軍だろうと疑われ、殺されそうになりました。そこで陳平は裸になって船頭の仕事を助け、一文なしであることを見せて命を奪われずに済みました。

こうして陳平は漢の劉邦に身を投じました。

陳平の謀臣としての活躍

劉邦は、項羽のもとでの陳平の身分が都尉であることを知ると、彼を同じく都尉とし、周囲から陳平を誹謗中傷する声を聞いても、陳平の弁明を受け入れました。

劉邦の信頼のもと、陳平は謀臣としてさまざまな奇計を進言しました。

劉邦が滎陽(けいよう…河南省鄭州市の西)の戦いで項羽に包囲されると、項羽軍に金をばらまき、スパイを放って君臣を離反させるよう進言しました。

劉邦は大金を陳平に与え、使い道は自由にせよと言いました。

陳平はこの金を使って、項羽軍の君臣離反に成功しました。

項羽を支え続けた軍師・范増は、この策に引っかかった項羽の疑いを受け、憤然として項羽の元を去りました。

劉邦を滎陽から脱出させる時は、劉邦の替え玉を用意し、女子2000人に甲冑を着せ、兵士を装わせて夜中に東門から出して項羽軍をおびき寄せ、このスキに劉邦は西門から脱出しました。

韓信が謀反を起こしたと告発する者が出たとき、陳平は劉邦からその処置を問われ、劉邦が沢地に出かけ、そこに韓信がやってきたところをつかまえるよう進言しました。

劉邦はその進言に従い、沢地で韓信を捕らえ、その後釈放して韓信を王から侯に格下げしました。

その後劉邦が平城(山西省)で匈奴軍に包囲された時、陳平は単于(ぜんう…匈奴の王称)の閼氏(えんし…歴代単于の妻や母のこと。ここでは妻の意味)に賄賂を贈るよう進言し、劉邦はこれに従って無事脱出することができました。

この後も陳平は何度も劉邦に奇計を進言し、策が当たって褒美を得ました。

呂后以後の陳平

劉邦が亡くなり、息子の恵帝が立ち呂后が権力を握る中、陳平は丞相として呂一族の専横に耐えました。

呂后が亡くなると周勃と謀って呂一族を滅ぼしました。陳平がいったんは呂一族に従ったのは、最終的にこれを滅ぼすための計略でした。

呂后が立てた3代目、4代目の幼帝ののち文帝が立つと、陳平はその丞相となり、その2年目に病気で亡くなりました。

司馬遷は『史記』の中で陳平の生涯について、「陳平はその智謀で常に国家の危機を救い、これを安定させた」とほめています。

劉邦はその臨終に当たって、呂后から今後の国家のかじ取りについて聞かれると「蕭何が亡くなったら曹参に、曹参が亡くなったら王陵に任せよ。王陵は愚直なのでそのときは陳平にこれを助けさせよ。陳平は智慧者だが、あれ一人に国を任せるのは危うい」と答えました。

陳平自身は自分について「わしは陰謀の多い人生を生きてきた。人の知らないところで多くの禍を作ってきた。わが子孫が将来廃絶の憂き目に遭うとしたら、それは仕方のないことだ」と言ったことがあります。

この言葉のとおり、陳平の曽孫が罪を犯し、陳平の一族はお家断絶となりました。

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