燕(古代中国・春秋戦国時代)の国の歴史【歴史地図付き】
燕(えん)は古代中国・春秋戦国時代の国で、今の北京あたりにありました。戦国時代に人材を集める策を採って楽毅など有能な人物を集め、国力が増しました。戦国末に燕の太子が秦にうらみを抱いて、荊軻という刺客に秦王暗殺を頼みましたが失敗。秦に攻め込まれて滅びました。
※上の画像は燕の首都・薊(現在の北京)。
燕とは
燕(BC.1100頃~BC.222)は周代に成立した諸侯国で、古く由緒ある国でしたが、弱小国で、春秋時代には活躍した記載は残されていません。戦国時代に入ると東の大国・斉に二度攻め込まれ、二度目の時は燕王も戦死しました。跡を継いだ燕王は、国の立て直しを図って賢者を招き、名将・楽毅も魏からやってきました。多くの人材を得た燕は、燕・趙・楚・韓・魏連合軍を組織し、楽毅にこれを率いさせて斉を滅亡一歩手前まで追い込みます。その後燕王がスパイの言葉を信じて楽毅を疑い、楽毅は趙に亡命。楽毅がいなくなると、斉は奪われた城を全部取り戻してしまいました。戦国末期になると燕の太子・丹が始皇帝暗殺を企んだことがきっかけで秦に攻め込まれ、燕は滅亡しました。
燕の成り立ち
燕は春秋戦国時代に現在の北京付近にあった国のことです。戦国七雄の一つで都は薊(けい…現北京)。
周(BC.1046~BC.256)の初代王・武王が殷の紂(ちゅう)王を滅ぼす際、功のあった召公を北燕に封じ、これが燕国の始まりといわれています。
燕という名前の由来ですがツバメとは無関係です。もともとは燕ではなく、匽または奄と書いていました。これらの漢字の発音は日本音では3つとも「エン」となります。
北京の地元ビールに「燕京ビール」がありますが、このネーミングは燕にちなんだものです。
春秋時代の燕
春秋時代(BC.770~BC.476)の燕の動向については記載がほとんどありません。
ただ燕・荘公の27年に山戎と呼ばれる北方の蛮族が燕に侵入してきたことがありました。
その時春秋五覇の一人・斉の桓公が燕を助け、これを討って帰還しました。
燕の君主が斉の桓公を見送ってくれた場所(斉の領土内)までを桓公はポンと燕に与えます。さすが春秋の覇者(はしゃ…春秋時代、実力も諸侯からの信頼もあって天下に名を知られた君主をこう呼ぶ)・桓公、太っ腹な君主でした。
戦国時代の燕
楽毅の活躍
戦国時代に入ると史書における燕のエピソードが増えてきます。
燕の易王が即位した時、斉の宣王が燕の喪中に乗じて燕に攻め込み10の城を奪いました。
この時は縦横家(じゅうおうか・しょうおうか…外交関係の策士として諸国を往来した人物たちのこと。蘇秦・張儀がその代表的存在)の蘇秦が斉を説得し、これを燕に返還させました。
燕王噲(かい)の3年、燕は楚や三晋とともに秦に攻め込みましたが勝利することなく帰還しました。
噲王の時代に王権をめぐって騒乱が起き、これをチャンスと斉が攻め込んできました。噲は戦死し斉は燕に大勝しました。
噲の次に立った昭王は身を低くして賢者を招きました。
郭隗(かくかい)という人物に「斉はわが国の内乱に乗じて攻め込んできた。我が燕は弱小国で斉に報復することもできない。もし賢者を得たならばその知恵によって先王の恥をすすぎたい。我が燕のために良い人物をさがしてもらえないだろうか」とこう尋ねました。
すると郭隗は「王が賢者を探したいというのであれば、まずこの隗からお始めください。そうすればより優れた賢者が必ず燕にやってくるでしょう」。
この話が成語「隗より始めよ」(ものごとは身近なところから始めよ・言い出した者から始めよ」の由来となりました。
そこで昭王は隗のために宮殿を改築し隗を師と仰ぎました。
すると隗が言ったとおり、魏からは楽毅(がくき)が、その他の場所からも優れた人物が次々と集まってきました。
人材を擁した燕は斉に対抗するため、燕・趙・楚・韓・魏による50万の連合軍を組織、BC.284に楽毅にこれを率いさせて進軍、斉の済西(せいせい)で斉軍を打ち破りました。
燕以外の連合軍はこれで兵を引きましたが、楽毅はさらに斉軍を追撃、斉の首都・臨淄(りんし)を落とし、斉王の逃亡先・莒(きょ)と斉の家臣・田単が籠城する即墨以外の全城をすべて占領しました。
こうして燕王は積年の怨みを果たし、当時の東の超大国・斉は存亡の危機に陥りました。
楽毅の活躍で弱小国から大国への階段を上りかけた燕ですが、昭王が亡くなり恵王が立つと、状況が一変。
恵王は楽毅をよく思わず、それを知った即墨の田単がスパイを使って「楽毅は斉を乗っ取ろうと思っている」という噂を流します。
この噂を信じた恵王は前線から楽毅を召喚します。楽毅は命の危険を感じ趙に亡命、趙はこれを丁重に迎えました。なにしろ歴戦の勇士、願ったりかなったりの人材です。
一方楽毅を失った燕軍は即墨に籠城していた田単軍の反撃を受け、楽毅がものにした斉の占領地はすべて奪還されてしまいました。
人材の力で大発展の入り口に立った燕は、それを失うことで元の弱小国に戻ってしまったのです。
太子・丹と荊軻
燕は戦国七雄の中で楽毅の活躍以外目立つことのない小国でしたが、滅亡直前のエピソードで中国史に彩りを添えています。そのエピソードとは燕の太子・丹と刺客・荊軻との出会いです。
戦国末期になると秦が勢力を拡大、各国を軍事的に圧迫するようになります。
燕は秦からはかなり離れた所に位置し、秦との間には趙が入っていますので他国よりは圧迫を感じる度合いは低かったのですが、その趙が長平の戦いをきっかけとしてBC.228に秦に滅ぼされると状況が一変しました。
そのころ燕の太子・丹が、人質として送られていた秦の待遇に屈辱を感じて燕に逃げ戻り、このうっぷんを晴らしたいと思うようになります。
そこで田光という人物を介して衛からの流れ者・荊軻(けいか)という人物に秦王暗殺を頼みこみます。
田光も荊軻も義侠の士で、自分という人間を見込んで頼まれたことには命を捨てても惜しまないという人物でした。
荊軻は準備万端整えると秦の都・咸陽の宮殿に乗り込み、手土産に潜めた短刀で秦王・のちの始皇帝に切りつけたのですが、手でつかんだ秦王の着物の袖がちぎれ、秦王を取り逃がしてしまいました。
この後荊軻は悲惨な死を遂げるのですが、このテロリストの短い物語は、中国史における多くの英雄譚と並んで今も人々の心をひきつけています。
「風は蕭蕭として易水寒し 壮士ひとたび去って復(また)還らず」
(風がヒューヒューと吹きすさぶ。易の川辺は寒い。壮志を抱く男がひとたびここを去れば二度と再び戻ってくることはない)
燕の国境にある易水のほとりで見送りの人々を前に荊軻が歌ったこの別れの歌は、悲劇をいっそう忘れがたいものにしています。
燕の滅亡
秦王暗殺未遂事件は燕滅亡の引き金となりました。
秦はこの事件を大義名分として燕に出兵し、BC.226燕都陥落。
丹もまたその過程で討ち取られました。
丹の死によって秦による対燕戦は一時中断し、秦は対楚戦に注力しました。楚を平定すると秦は再び燕に大軍を送り、燕王は捕虜となりBC.222に燕は滅びました。