新(王朝)の歴史~15年間だけの短期王朝~

新

前漢王朝を簒奪した王莽によって建てられた政権です。周王朝に倣った制度改革などが失敗し、わずか15年で反乱軍に滅ぼされ、やがて漢王朝の血を引く劉秀によって後漢が建国されました。

新とは

(8~23)とは、前漢後漢の間に15年だけ存在した短命王朝のことです。王莽(おう もう…BC.45~23)が興し、一代で滅びました。王莽は前漢の11代皇帝の后である元后の外戚でした。儒教を学び、その教えを体得した人物に見せるパフォーマンスで出世街道をのし上がり、13代、14代と幼帝が続くと、14代平帝の時に摂政となり、やがて皇帝の命も奪った後、天意が下ったとして政権を簒奪しました。こうしてできた新しい王朝が「新」です。新は千年も昔の周王朝の制度にならって行政を混乱させ、貨幣の発行や専売制度などで経済は破綻、田畑の国有化で豪族の反発や流民を招きました。対外政策でも失敗して異民族の反乱が起きました。やがて各地で民衆や豪族が決起し、反乱軍が長安に押し寄せて、王莽は無残な最期を遂げ、新は滅びました。

年表
年表。新は前漢と後漢の間、15年程度の王朝です。

「新」と王莽

という国は、王莽という前漢末期の政治家がの帝位を簒奪して作った政権です。

王莽は前漢第11代皇帝の后・元后の外戚の一人でした。

外戚とは皇帝の妻の一族のことです。

中国の王朝では、皇帝に実力がなかったり幼なかったりした場合、皇帝の妻や母が権力を握り、その外戚はしばしば権勢をふるいました。

劉邦亡き後帝位を継いだ恵帝は軟弱な皇帝だったため、母の呂后とその実家・呂一族の天下となり、これを滅ぼすのに家臣たちは大変な苦労をしました。

これにこりて、前漢王朝では后の実家の人物を確認して皇帝を決めるようになり、第5代皇帝の文帝はそのようにして決まったのです。

後継ぎの母親の身分が低かったりした場合、その命を奪って後顧の憂いがないようにしたという話まであります。

これほどまでに外戚の横暴を防ごうとしていたのに、時代が下るとその危機感も薄れてしまうのでした。

前漢第11代元帝のもとで外戚の害が猛威を振るうのですが、この元帝も覇気のない帝王だったといいます。

王莽は元帝の后・元后の外戚の一人で、最初は元后の縁戚である父親が早世したために王家の中で最もふるわない人物でした。

そこで彼は一計を立て、儒教をしっかりと学び、それを体得した人物としてふるまおうとしたのです。

王一族の総帥たる人物が病気になると王莽は献身的な看護をし、それを恩に着たこの一族のおかげで王莽は朝廷に入り込むことができました。計算づくの行動でした。

王一族の権勢が高まり、その中で王莽の評判も上がって出世の階段を上るようになると、王莽はますます清貧に徹してイメージアップをはかりました。

儒教の教えを体得した人物としてふるまうパフォーマンス作戦は功を奏し、大衆的人気も博しました。

やがて王莽は帝位を狙うようになり、あの手この手を尽くしたあげく最後は第14代皇帝・平帝に毒を盛って命を奪いました。

こうしてAD.8年に前漢は滅亡し、王莽は「新」を建国してその皇帝となりました。

「新」の統治

王莽は皇帝になると、『周礼』や『礼記』など儒教の経典に合わせて官職名や地方の行政組織を変えたため、国中が大混乱となりました。

千年以上も前の周代の行政は、漢代とは全くかけ離れていたからです。

混乱が起こると王莽は更に行政機構に手を入れ、すると一層混乱し、そうこうするうちに各地で役人の不正が始まりました。

新貨幣を発行し、塩や鉄、酒を専売制度にしたことで経済もまた破綻しました。

全国の耕地を国有化し、それを平等に分配する井田法(せいでんほう)を強行した結果、地方の豪族の反発を招くとともに流民が急増しました。

前漢時代は異民族、特に匈奴に対して気を使い、慎重に外交を行っていましたが、王莽政権はこれとは逆に傲慢な態度を採ったために異民族の反乱を招きました。

このようにやることなすこと裏目に出て、王莽政権の政策はすべて失敗に終わってしまいました。

ただ、新政権がやった儀礼の制定だけは後世に残り、後漢の宮廷儀礼もこれに従いました。

「新」の滅亡

人々の人気を集めて発足した王莽政権でしたが、その政策が無残な失敗に終わると人気は急降下しました。

各地で民衆による反乱が起き、山東省の「赤眉の乱」(せきび の らん)は大反乱に拡大しました。地方の権力者である豪族も反乱を起こし、彼らは漢王朝の血筋を引く劉一族を旗頭にしていました。世の中に漢王朝復興の気分が膨れ上がっていたからです。

朝廷の中枢部分も離反し、AD.23に反乱軍が長安城になだれ込み、王莽は逃げまどったあげく膾(なます)切りという悲惨な最期を遂げました。

こうして「新」王朝はわずか15年で滅びました。

この反乱の中で登場したのが後の光武帝・劉秀です。前漢を建てた劉邦一族の血を引く劉秀によって中国では再び漢王朝が復活しました。日本ではこれを後漢(ごかん)と呼び、「新」前の漢王朝を前漢と呼びます。中国では一般に後漢を東漢と呼び、前漢を西漢と呼びます。後漢の都は洛陽で、前漢の都・長安の東にあったからです。