孟嘗君の逸話と生涯~数千人の食客を抱えた名士~
孟嘗君とは、「戦国四君」の一人で、古代中国・戦国時代の有名な政治家です。斉や魏の宰相として活躍しました。孟嘗君はまたおおぜいの食客を養っていたことでも有名です。中には元泥棒や鶏の物まねが得意な食客もいて、面白いエピソードが残っています。
目次
- 1. 孟嘗君とは
- 2. 孟嘗君の生い立ち
- 3. 数千人の食客
- 4. 「鶏鳴狗盗」の故事
- 5. 斉や魏の宰相として活躍
孟嘗君とは
孟嘗君(もうしょうくん…?~BC:279)とは戦国時代(BC.475~BC.221)の斉の政治家です。姓は田、名は文。孟嘗君という名は死後の諡(おくりな)です。
孟嘗君と同時代を生きた秦の昭襄王が、賢人であるとの孟嘗君の評判を聞いて、秦の宰相にしようと招きます。ところがその家臣の讒言によって孟嘗君は命を奪われそうになり、引き連れていった食客を使って無事斉に戻ったというエピソードが残っています。斉では宰相として活躍し、斉を秦と並ぶ当時の二大強国に押し上げました。宰相として仕えた成王が亡くなると、跡継ぎの王に煙たがられて孟嘗君は魏に亡命し、ここでも宰相として活躍しました。こうして孟嘗君は戦国時代の優れた政治家「戦国四君」の一人に名前を残しています。
孟嘗君の生い立ち
孟嘗君の父・田嬰は斉の威王の末子で、子供が40人以上いました。そのうち身分の低い妾の子供が孟嘗君・文です。
5月5日に生まれたため、田嬰はその妾に「この子供は育ててはならない」と命じました。けれども妾は文を密かに育て、長じてのちは兄弟が父・田嬰に引き合わせてくれました。
すると父は怒りました。「この子供は捨てるように言ったのになぜ育てた!」
それを聞いた文は「なぜ5月5日に生まれた子供は育ててはならないのですか」と父に尋ねました。
田嬰は「5月5日生まれの子供は背丈が戸と同じ高さになると親を殺すと昔から言われているからだ」と答えました。
文は父に「人の命が天から与えられたものならば父上は案ずる必要はありません。戸から与えられたものなら戸を誰も越えられないほどの高さにすればいいのです」と説きました。
また文は父を諫めて「父上の家はこんなに豊かなのに国は貧しく人は飢えております。それなのに父上がまだ家の富を増そうとするのはなぜですか」と言いました。
息子の言葉を聞いた父・田嬰は文に家を任せることにしました。食客も文に接待させますと、食客がどんどん増え、諸侯の間でも文の名声は高まっていきました。
諸侯の勧めもあって田嬰は文を後継ぎにしました。
数千人の食客
父・田嬰が亡くなってその後継ぎとなった文・孟嘗君は大勢の食客を招き、自分の財産を投げうって彼らを手厚くもてなしました。
また相手の貴賤がどうあれ対等に接したので、食客たちは皆孟嘗君が自分にだけよくしてくれると思い込んだほどでした。
こうしてますます食客は集まり、その数数千に上ったといいます。その中には犯罪者までいました。
「鶏鳴狗盗」の故事
秦の昭襄王は孟嘗君が賢人であるとの評判を聞き、自国の宰相にしようと孟嘗君を秦に招きました。孟嘗君が秦を訪れると、秦の家臣が昭襄王に「孟嘗君は斉の王族です。彼が秦の宰相となれば必ず斉の利益を先にし、秦の利益を後にするでしょう」と讒言したため、昭襄王はそれもそうだと思い、孟嘗君を捕らえて命を奪おうとしました。
この動きを察知した孟嘗君は、昭襄王の寵愛を受けている妃に近づき自分へのとりなしを頼みました。妃は「狐白裘」(こはくきゅう…狐の白い腋毛を集めて作った皮の衣で、1着作るのに千匹の狐が必要だったといわれる)をくれるならとりなしてやろうと言います。
「狐白裘」は孟嘗君がすでに昭襄王に土産物として献上してしまっていました。そこで食客の一人で元泥棒を使い、これを盗んでこさせます。狐白裘をプレゼントされた妃は孟嘗君を釈放するよう昭襄王に頼み、こうして孟嘗君一行は無事釈放されて斉に帰れることになりました。
帰国の途についたものの、途中で昭襄君の気が変わらないとも限りません。一行は急ぎ、真夜中に秦の国境・函谷関の関所に着きました。果たしてこの時には昭襄王の気が変わっていて、まもなく追っ手がやってくるという情報が入りました。すぐさま関所を抜けなくてはなりません。
ところが関所の門は明け方、鶏が「コケコッコー」とときを告げて初めて開けることになっているのです。
そこで動物の鳴きまねがうまいというので食客になった者に「コケッコッコー」とやらせますと、周囲の人家で飼われている鶏が一斉に鳴き始めました。
関所の門番は夜が明けたものと勘違いして門を開け、こうして孟嘗君の一行は無事秦を脱出することができました。
以前孟嘗君の食客たちは、元泥棒や動物の鳴きまねを売りものにした二人の食客と席を同じくすることを恥じましたが、この出来事のあとは彼らに一目置くようになりました。
この話が「鶏鳴狗盗」(けいめい くとう…つまらない技術)という成語のいわれになっていますが、あまりに面白いのでこれはおそらく作り話だろうといわれています。けれども孟嘗君の食客がバラエティーに富んでいたということは事実だったのかもしれません。
斉や魏の宰相として活躍
秦から脱出した孟嘗君は、出身国である斉に帰り宰相に迎えられました。
孟嘗君は斉の宣王とともに国力を充実させ、当時斉は西の秦と並んで二大超大国となりました。
ところが宣王の次に斉王となった湣(びん)王は、高い名声を誇る孟嘗君を煙たがり、身の危険を感じた孟嘗君は魏に亡命し、ここでも宰相となって活躍しました。
斉は後に燕の楽毅(がくき)によって滅亡の危機にさらされますが、孟嘗君は中立の立場に立って静観。
湣王が横死し襄王が立つと、孟嘗君は自分の所領・薛(せつ)で独立しました。
孟嘗君が亡くなった後は息子たちの間で後継ぎをめぐって争いが起き、孟嘗君の一族は絶えたといわれます。
司馬遷は『史記』孟嘗君列伝で、自分が薛(孟嘗君の出身地)を訪れた時(孟嘗君が活躍した時代から200年ほど後)、ここの人間の風紀が悪かった。これは孟嘗君が侠客など荒くれものを食客に招いた影響が今も残っているのだろうと書いています。