邑・城郭都市【古代中国における集落と都市の防壁の仕組み】

邑・城郭都市

」(ゆう)とは古代中国における「集落」のことです。

城郭都市」(じょうかくとし)は古代中国において、内と外、二重の壁でぐるりと取り囲んだ都市のことです。

ここでは古代中国における「邑」と「城郭都市」について紹介します。

邑・城郭都市とは

(ゆう)とは、古代中国において、同じ血族の人々が集まって暮らす場所のことです。人々は邑の周囲の「田」を耕して暮らし、侵入者と戦う軍隊も持っていました。王族が暮らす血族集落は「大邑」と呼ばれました。農民は「鄙」(ひ)と呼ばれる農耕地域に住み、王族は「都」(と)と呼ばれる場所に住んでいました。殷王朝は、「都」と「鄙」から成る国家で、こうした国は都市国家とも呼ばれます。中国の都市国家は、周りを壁で囲んで外敵から守り、この壁を「城」と呼びました。やがて城内には王族が住み、一般人はその外に住んで、そこも壁で囲み、この壁を「郭」と呼びました。このように内と外、二重になった壁を「城郭」と呼び、そのような造りの都市を城郭都市と呼びます。

「邑」という文字は、上の口の形で四方の壁を表し、その下で人々が暮らしているさまを表しています。

古代中国において支配階級に支配される農民は、同じ血族ごとに集まって集落に暮らし、周囲の田畑を耕していました。この田畑を「田」(でん)と呼び、集落を「邑」と呼びました。

「邑」と「田」と「人」は一体化しており、邑の名前は田の名、人の名でもありました。彼らは農耕地域を意味する「鄙」(ひ)に住んでいました。

またこの血族は非常時には侵略者と戦える軍隊も持っていました。

一方、支配者である王族の暮らす場所もまた「邑」でしたが、こちらは「大邑」と呼ばれていました。彼らは「都」(まち)という地域に暮らしていました。

以上は、殷墟から発掘された甲骨文字を解読することでわかったことです。

殷王朝は都鄙から成る多くの小国家を同盟という形で従属させていましたが、殷王朝自体もまた都と鄙からなる国家でした。

このような古代国家のありかたは中国に独特のものではなく、古代オリエント国家(古代エジプト、古代メソポタミア、古代ペルシア)も同じで、これらの国々はいわば都市国家というべきものでした。

城郭都市

城郭都市

当初都市国家の規模は小さく、やがて戦争による併呑やいくさに備えた合併などで規模が大きくなっていきました。

こうした都市国家は、周りを壁で囲んで、外敵の襲来や洪水などから中の人々や財産を守りました。この壁を「城」と呼びました。城という字は「土」と「盛る」からできています。集落を守る壁、すなわち「城」は文字通り、土を盛って作ったものです。

城という壁で守られた場所に住む人々が増えてくると、一般人はこの壁の外に出て、壁の中には君主たちが住むようになりました。城の外に住む一般人の経済力が上がると、やがて自分たちの住む地域にも壁を作るようになり、これを「郭」と呼びました。これが城郭の始まりで、城郭とは内側と外側、二重になった壁をいい、城郭のある都市を城郭都市といいます。

「郭」はあまり丈夫には作っていなかったので、外敵の襲来をやすやすと受け、破壊されることが多くなりました。そこで郭をしっかりと作るようになり、郭がしっかりとすれば城はないがしろになり、やがて郭が城と呼ばれるようになりました。

こうした城郭の中には道路ができ、大通りを「街」、街から枝分かれした通路を「衢」(く)と呼びました。街衢によって囲まれた場所を「里」(り)と呼び、里の周りにもまた土塀が作られて、これを「牆」(しょう)と呼びました。里の入り口には門があり、この門から住民の家までの通りを「巷」(こう)と呼びました。各民家も自分の家を「牆」で囲いました。

農民(当時の庶民の大半が農民)はこうした城郭の外にある農地で耕作にいそしみ、夕暮れに里にある我が家に帰ってきます。城郭の門も里の門も、朝開門して、夕方に閉じ、この門を通らずに中に入り込む者は厳しく罰されました。

里の門の周囲の空き地は「塾」と呼ばれ、子供たちの遊び場でした。都市の規模が大きくなると「市」と呼ばれる商業エリアが生まれ、ここが大人たちの社交場になりました。

城壁と都市
城壁の残る都市。

中国文化のシンボルとしての城壁

城壁

かつて中国には至るところに上記したような城壁がありました。異国からの旅人にとって、たとえば何が北京の記憶かといえば、故宮を中心に町をぐるりと囲む城壁と城門だったのです。そのくらい印象の深いものでした。

奥野信太郎著の『随筆北京』は戦前の1936年から1938年にかけての北京を描いています。

その中で「北京は静かな美しい町である。槐樹と柳と楡がうっそうと茂った町である。夏の頃は合歓の花が淡紅く牆壁のところどころを彩り、空には白い鳩の群が銀粉を撒らしたように輝きわたる。大きな城壁に囲まれたそのなかに、宮殿や並木路や彫像が、整然と左右相対に配置された、すばらしい構想をもった図案だといえば間違いない」と書いています。

今の北京でかつての城門は、ごく一部を除いて地下鉄の名前だけに残っています。

北京の地下鉄環状線にはたとえば崇文門、前門、和平門、宣武門など「〇〇門」という名の駅名が数多くありますが、これらは明朝や清朝時代の城門の名前で、つまり北京の地下鉄環状線はこうした明清時代の城壁の地下を走っているのです。

かつて青春時代を新聞記者として北京で過ごした作家が、戦後40年以上経って初めて再訪するという内容の本があります。『北京飯店旧館にて』(中薗英助著)ですが、北京の戦前と戦後(といっても80年代)の姿を対比させ、抑えてもこみあげてくるような深いノスタルジーで北京を描いたノンフィクションです。

北京の首都空港から車を走らせて城内に入った時、筆者は思わず呟くのです。「これは北京じゃない」と。城壁や城門のなくなった北京は北京とは思えないくらいに、城壁と城門は中国の町から切り離せない景観だったのでしょう。

21世紀に入る前までの北京はそれでも古い中国文化の香りを残していました。胡同と呼ばれる路地は明、清、中華民国3代の歴史をそのままに、歩けばその時代の人々が交錯して目に映ってもおかしくないような不思議な情緒をたたえていました。

日本とはまったく異なるそのたたずまいに感動していた時、知り合いの中国人が「こんな汚いところをいつまでも残して…」と吐き捨てるように言ったことが忘れられません。

戦後の中国人にとって城壁も城門も胡同も、時代に取り残された「遅れた中国」のシンボルであり、取り壊してもなんら痛痒を感じないガラクタだったのかもしれません。今のピカピカの超高層ビルこそ誇らしい中国のシンボルなのでしょう。

思えば明治維新後の日本もまた似たような道を歩んできました。

いつか中国人も「せめて城門だけでも残しておけばよかった…」と後悔する日が来るような気がしますが、復元した日本のお城(ちなみに現代中国語の「城」は「町」という意味で、いわゆる「お城」という意味はありません)がどんなに頑張ってもやはりレプリカはレプリカにしか見えないように、本物は一度壊してしまったら二度と元には戻りません。