中国の伝統音楽・楽器 【図説】

中国には豊かな伝統音楽文化、多種多様な伝統楽器があります。
ここでは殷から明代までの各時代の音楽の特徴と、さまざまな伝統楽器について絵や写真を見ながら説明していきたいと思います。
目次
- 1. 「音楽」の「楽」という漢字は打楽器から
- 2. 殷代の音楽
- 3. 西周から春秋時代の音楽
- 4. 漢代の音楽
- 5. 三国・魏・晋・南北朝時代の音楽
- 6. 隋・唐の音楽
- 7. 宋代の詞と音楽
- 8. 明代の世俗的な音楽
- 9. 多種多様な中国の伝統楽器
「音楽」の「楽」という漢字は打楽器から
音楽の「楽」という漢字はどういう意味を持っているのでしょうか?「楽」は戦後日本で作られた常用漢字ですので、旧字体の漢字を見てみると「樂」です。
この漢字の甲骨文字(B.C.1600~B.C.1000頃の中国の文字。亀の甲羅や動物の骨に書かれたものが残っている)では「木と二つの糸の束」からできているものや、ここに「白」が加わったものもあります。
許慎(後漢の儒学者・文字学者 『説文解字』…中国最古の部首別漢字字典の作者)はこの文字について「振り太鼓」の形としています。振り太鼓とは子供のおもちゃの「でんでん太鼓」のようなものでしょう。
古代漢字の研究者・白川静は「木の柄がある鈴で糸飾りがついた楽器」だと言います。どちらの解釈もこの漢字を打楽器のような楽器に見立てています。
中国の周代になるとこの字は「音楽」の意味で使われ、後に「楽しい」という意味にもなりました。
つまり中国では実に古い時代から「音楽」というものが存在し、それが意識化されていたのです。
では中国の音楽と楽器の歴史を見ていくうえで、まずは年表を紹介します。
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殷代の音楽
実在が確認されている中国最古の王朝「殷」(B.C.1600頃~B.C.1050頃…商とも呼ばれる)代にはすでに陶製、青銅製、石製の楽器がありました。このうち陶製の楽器は壎と言って、今でいうオカリナです。当時の遺跡からは平底の卵型のオカリナが出土しています。

宮廷音楽としては「楽舞」(音楽が主で舞踊が従)があり、「桑林」という曲目などが伝えられています。この曲は祭祀の音楽だったようですが、不気味なエピソードが残っています。
春秋時代に宋の平公が晋侯を招待してこの楽舞を披露すると、晋侯は驚いて部屋に逃げ込み、後に謎の病気にかかってしまったというのです。かなりミステリアスな響きの音楽だったようで、春秋戦国時代には国を亡ぼす音楽と言われていたそうです。
どんな曲だったのか、この当時すでに半音が多用されていたと言いますから、人の心に不安をかき立てる音楽だったのかもしれません。

西周から春秋時代の音楽
殷(商)の次に始まる西周(B.C.1100頃~B.C.771)時代の音楽は礼法制度と結びつき、「礼楽」と呼ばれる整った制度が作られました。
春秋時代(B.C.770~B.C.403)になるとこの礼楽制度は衰退し、多くの諸侯国では「新楽」という新しい音楽が人気を集めるようになりました。これは真情を吐き出す情熱的な音楽で、これまでの正統な雅楽とは全く異なります。
当時の雅楽は、朝廷の威厳を示すのが目的で、楽器としては青銅製の打楽器のみの単調なものでした。それに対して「新楽」は、「八音」と呼ばれる「金・石・土・皮・生糸・木・匏・竹」の8つの素材を用いた楽器による演奏、打楽器も含めた多彩な管弦楽になったのです。
「八音」の例








中国の音律と「中和」の思想
また西周時代には音律学の体系が作られ、春秋戦国時代になると、これが更に発展しました。当時すでに「ド・レ・ミ・ソ・ラ」の五音階があり、さらにこの時代に「ファ#・シ」を加えた七音階も生まれました。
中国の五音階は「宮・商・角・徽・羽」(現在のドレミソラ)と呼ばれます。この名称は星の名前に基づいており、「天人合一」という思想と深い関係がありました。(※天人合一……天と人は一つと考える思想のこと)
当時の人々は音楽を介して天と関わることを願ったのです。
この思想は儒家によってさらに発展し、音楽においては「中和」が重んじられ、人間関係を調和させるためのものとして音楽が果たす役割が強調されました。中国の古代雅楽には多くの楽器が出てきますが、これは「中和」を行うために多くの楽器が必要だったためと考えられています。
北と南の歌謡と「礼楽思想」
古代における詩や文学の最初の形はどこの国でも「歌謡」、つまり民間で歌い継がれてきた歌です。中国最古の歌集『詩経』も黄河流域の北方の歌を集めた歌謡集で、西周から東周(B.C.11世紀~B.C.7世紀)にかけての詩…民謡や儀式の歌、神楽歌(神事の歌)などが350篇が収録されています。
孔子の編とされるこの詩集は後に「五経」(儒教における五つの経典)の一つとなり、政治的な役割をにないます。つまり音楽を単なる楽しみとするのではなく、正しい倫理や道徳を民衆に教えこむためのものとしたのです。これを「礼楽思想」と言います。
ずいぶん古い時代から中国においては「歌は楽しいから歌う、歌うから楽しい」という単純なものではなく、精神を整えて安定した国造りをするための手段でもあったわけです。
黄河流域の歌謡を集めたものが『詩経』であるならば、南の長江流域の歌を集めたものが『楚辞』です。『楚辞』とは、戦国時代の楚の国の祭祀で歌われた神楽歌のことで、屈原(B.C.343~B.C.277)とその弟子などの歌が収録されています。
漢代の音楽
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漢の朝廷では儀式の時、編鐘を中心とした雅楽を演奏していました。前漢は秦の制度を継承し、音楽と舞踊を司る「楽府」(がふ…音楽を司る役所。後に楽曲を伴った詩歌の意味にも)を設けていましたが、武帝の時この楽府の改革を推し進め、当時各地で流行していた民謡や詩歌、更には西域の音楽も集めました。そしてこれらを元に改良や創作がなされ、新しい曲が生まれていきます。またこうした曲の楽師によって民間からも新しい音楽が生まれました。この民間で生まれた歌は、竽(大型の笙)や笙、笛、簫(漢代の簫は後に排簫と呼ばれるパンパイプ型。唐代以降、「簫」という言葉は縦笛型の洞簫を指すようになる)など管楽器、琴、瑟(大型の琴)、箜篌(ハープ)、琵琶など弦楽器によって伴奏がつけられました。
三国・魏・晋・南北朝時代の音楽
三国時代の後、東晋や南朝は、秦や漢の時代の楽府を受け継ぎ、その中に漢代楽府の俗楽である清商楽があります。これは民間の舞楽ですが、南方の音楽や民謡と結びついて艶やかな新しい清商楽に発展します。これは後に北方に逆輸入され、隋の文帝はこの舞曲をこよなく愛したと伝えられています。
この清商楽の中には「子夜歌」、「春江花月夜」など今も残っているものがあります。
この時代には音楽に造詣が深い文人などが数多く現れ、その中には『胡笳十八拍』を作ったと言われる蔡文姫や、竹林の七賢と呼ばれる阮咸や嵆康がいます。

彼らが作曲、演奏した『広陵散』『梅花三弄』などは人気があり、『梅花三弄』の楽譜は今も残っています。
竹林の七賢の一人・嵆康(223~262)には壮絶なエピソードが残されています。彼の著作である『声無哀楽論』は儒教の礼楽思想的な主張を持つ人との論戦が書かれているのですが、この儒教的音楽観の持ち主に対し、嵆康は「音楽は音楽それ自体に美的な世界があり、正しい音楽によって民衆を教化しようという統治者の道具ではない」と述べたのです。
彼は反体制的な主張の持ち主で、後に魏の司馬氏によって処刑されます。彼は処刑される前に上に挙げた『広陵散』を演奏し、演奏を終えると「広陵散 今において絶ゆ」(これで『広陵散』という曲はこの世から消える)と語ったと言われています。
話はそれますが、この芸術家と政治家の対立は中国では現代にいたるまで起きていて、たとえば毛沢東は『文芸講話』(1942年)の中で、「芸術は政治に従うべきだ」と主張しています。これは現代中国にも引き継がれている路線で、これに対して中国の名優・趙丹(1915~1980)は亡くなる直前に「政治は芸術に口を出すな」と言い残し、当時話題になりました。
さて話を戻し、南北朝時代の北朝に目を転じますと、北の音楽は南方の音楽とはだいぶ異なり、亀茲(クチャ…東トルキスタンにあったオアシス都市国家)・鮮卑(せんぴ…中国北部にいた騎馬民族)など異民族音楽の特徴を持っています。異民族の舞楽を胡楽と言いますが、その豪放磊落さ、激しいリズムやステップは大いに人々の人気を集め、彼らの演奏する楽器の音色も人をひきつけました。
つまり南北朝時代の中国大陸では、こうした胡楽と、南方の清商楽という艶やかで優雅な音楽、二つの異なる個性の音楽が共存し、それぞれに人気を集めていたのです。
隋・唐の音楽

唐代は中国の音楽文化が最も盛んだった時代で、胡楽(こがく)と呼ばれるシルクロードの音楽が大量に流入し、中国古来の音楽と融合していきます。これには当時の皇帝・玄宗の存在が深くかかわっていました。音楽好きの彼は朝廷内に音楽や舞踊を教える専門機関を設立し多くの楽工・楽人を育てました。その一つ「梨園」という名称は日本にも伝わり、今歌舞伎の世界を「梨園」と言うのはここから来ています。
この時代の有名な舞楽に玄宗自ら作曲したと言われる『霓裳羽衣の曲』がありますが、これは盛唐時代の宮廷舞踊の代表作です。玄宗の愛妃・楊貴妃は胡旋舞を得意とし、この曲に合わせて胡旋舞を踊ったと言われます。
『霓裳羽衣の曲』の「霓裳羽衣」とは虹の衣と羽衣という意味で、玄宗が夢の中で見た月宮殿での天人たちの舞に倣って作曲したものと言われています。昆曲『長生殿』ではこの曲は楊貴妃が作ったことになっていて、楊貴妃の死後、玄宗は月宮殿(月の中にある宮殿)にこの音楽が流れる中仙女となった楊貴妃と再会するのです。
やがて玄宗皇帝の統治の中で起きた安史の乱をきっかけに、唐朝は衰亡に向かい、それとともに華やかだった唐代の音楽も衰退していきます。



宋代の詞と音楽
唐代に西域系の胡楽の要素を加えた新曲が増加すると、それに合った歌詞が求められるようになりました。こうして作られるようになったのが「詞」です。詞は唐代の中ごろから作られるようになり、宋代に隆盛を極めました。歌詞であることから「曲子詞」と呼ばれたり、長短不ぞろいの句を含むので「長短句」などと呼ばれます。
詞は南宋の時代になると洗練の度合いを深めていきますが、それに伴って楽曲が失われていき、元代に入ると歌詞ではなく、もっぱら格律に合わせて文字を埋めていくようになります。
詞には「虞美人」「蝶恋歌」などの題名がついていますが、これは歌詞の内容を意味しているのではなく、この詞を歌うための曲名です。これを詞牌と言います。
明代の世俗的な音楽
明代になると世俗的な音楽が隆盛します。潮州音楽、西安鼓楽などが伝わっており、潮州(広東省)音楽では、チャルメラ、二弦、大きなドラをさまざまな管弦楽器や打楽器とともに組み合わせて演奏します。西安鼓楽の演奏は宗教と関係がありますが、演奏は素朴で歌詞はユーモアにあふれ、宗教というより世俗化された音楽です。
宮中の雅楽はもはや成長を止め、皇帝も民間の世俗的な音楽に熱中しました。
明代は商品経済が発展して市民階層が生まれ、それに伴ってわかりやすい市民芸術が生まれた時代です。音楽もそれと歩みをともにしたと言えるでしょう。
多種多様な中国の伝統楽器
古代中国では音楽の理念を「中和(融合)」に求めました。和を求める中国の雅楽では8つの素材でできた楽器が不可欠で、これを「八音」と呼び、楽器の総称でもありました。
この8つの素材とは、金属(ここに属する楽器としては、鐘などがあります)、石(磬など)、竹(簫など)、絹糸(琴・瑟など)、土(壎など)、匏(笙・竽)、革(鼓)、木(柷・敔・拍板など)のことです。
現代中国語でオルゴールのことを「八音盒」(八音の小箱)と言いますが、それはここから来ています。
また、中国の楽器がきわめて豊富なのはこの「中和」の理念によるものだと言われています。この理念は高度な音楽理論や楽譜をも生み出しました。
それではこれら様々な楽器を見ていきましょう。これらの多くは日本にも伝わっています。
中国の管楽器(吹奏楽器)
笙(しょう)


笙は雅楽で用いられた管楽器で、竽の小型版です。様々な長さの管を共鳴部に取り付けられ、それぞれの管にリードがあって豊かな音色を出します。古くは共鳴部は匏(瓢箪のこと)からできていましたが、唐代からは木製になりました。隋・唐代の宮廷音楽で使われたり、西安鼓楽・華北吹歌など各地の鼓吹楽、吹打楽の主要楽器です。

竽(う)
管楽器で笙の大型版。笙よりもサイズが大きく管の本数も多くなっています。この楽器は漢代の楽隊では首席の地位を持ち、主旋律を演奏しました。奈良の正倉院には唐代の竽が保存されています。
笛子(てきし)

竹製の横笛。元は中国西北の少数民族地域で用いられ、後に全国に広まったと言われます。また縦笛は中国語では「笛」とは呼ばず、「笛」は横笛を意味します。
簫(しょう)

「簫」という言葉は唐あたりまでは排簫を意味しました。排簫とは無指孔の竹管を束ねたパンパイプ型の縦笛です。

唐代以降は「簫」という言葉は竹製の縦笛である洞簫を意味するようになります。羌族の楽器で、尺八の音色に似ています。
チャルメラ・哨吶(スオナ)

チャルメラは中央アジアから伝わったラッパ状の楽器です。

篳篥(ひちりき)

篳篥は葦の縦笛です。西アジアに生まれ西域を経て中国に入りました。隋や唐の時代は宮廷や民間で盛んに演奏されました。
中国の弦楽器
琴(きん)・古琴(こきん)

琴(古琴とも言います)は撥弦楽器です。次に紹介する「箏」とは異なり柱(じ)がありません。現存の最古の古琴は10弦ですが、戦国末期までに7弦が定着しました。聖人君子の楽器として、文人に最も愛された楽器です。

箏(そう)・古箏(こそう)

琴(古琴)に柱(じ)がないのに対して、箏(古箏)には柱があります。最初は5弦、のちに12弦、唐代には13弦も現れ、これが日本に伝わって今よく使われている「箏(こと)」となります。


瑟(しつ)

古代の撥弦楽器。箏よりも弦も多く大型です。『詩経』など古い文献にはその名が見られ、長い歴史を持つ楽器であることが伺われます。考古学資料によると、大きなものでは23~25弦、全長1.8メートル、幅48.5センチ。小型のものは15弦、全長1メートル、幅40センチほどで、大小2タイプあったことが分かっています。
箜篌(くご)

箜篌はハープに似た撥弦楽器です。西アジア起源の楽器で、漢代に中国に伝わり、隋・唐代の宮廷音楽や俗楽に使われました。
琵琶(びわ)

琵琶は洋ナシ型胴や円型胴をした4弦の撥弦楽器です。インドやペルシアから伝わりました。正倉院には4弦のものと5弦のものが残されていますが、現存する歴史的な5弦の琵琶は世界で1本、正倉院にしかありません。
阮咸(げんかん)

阮咸とは琵琶の一種です。竹林の七賢の一人阮咸が琵琶の名手だったため、この名がつきました。

月琴(げっきん)

阮咸の棹を短くして生み出された撥弦楽器。阮咸と同一の楽器として扱うこともあります。2~4弦を張りピックで弾きます。
柳琴(りゅうきん)

琵琶に似ていますが、琵琶より小型。かつて江蘇省・山東省・安徽省一帯で流行していました。
揚琴(ようきん)

アラビアやペルシアから伝わり、明代に広東で流行しました。2本の竹の棒で演奏します。「洋琴」とも言います。
三弦(さんげん)

撥弦楽器の一つで、3本の弦が張ってあるのでこう言います。爪か義爪で弾奏し、バチは使いません。明代以降、弦楽器合奏や語り物に使われました。南中国から日本に伝わり、沖縄では「蛇皮線」に、日本本土では「三味線」になりました。中国でも日本でも俗楽に使われます。
二胡(にこ)

二胡はひしゃく型の胴に蛇皮などを張り、棹を差し込んだ擦弦楽器(弦をこすって音を出す楽器)。いわゆる2弦の「胡弓」。ただし中国語では「胡弓」とは言いません。このタイプの擦弦楽器の総称としては「胡琴」を使います。この「胡琴」の中で最も知名度が高いのがこの二胡です。
京胡(きょうこ)
高い音域の胡琴ですが、二胡より小型です。京劇の伴奏に使います。
馬頭琴(ばとうきん)

モリンホールとも言います。モンゴル族が用いる2弦の擦弦楽器で、棹の上部に馬の頭の飾りがあります。小学校の国語の教科書によく載っている『ソーホーの白い馬』はこの馬頭琴をめぐるモンゴル民話です。

中国の打楽器
鼓(こ)・太鼓(たいこ)

太鼓の総称を「鼓」と言います。「鼓」の種類は非常に多く、大きさ・形・設置方法も様々であり、雅楽にも使われ、俗謡にも用いられていました。「太鼓調」に使う「太鼓」は平らな直径30センチほどの丸型の太鼓で、これを3本の竹の棒を組み合わせた台に乗せて棒でたたきます。
腰鼓(ようこ)

腰に下げて打つ太鼓。西域を経て六朝時代に中国に入りました。「花鼓(かこ)」とも言います。元は雅楽用の楽器で、雅鼓とも言われました。
鑼(ら)・銅鑼(どら)

鑼(銅鑼)は鉄や真鍮などでできた金属製の円盤を枠に吊るして棒で打ちます。
結婚の行列や葬儀に用い、伝統演劇でも重要な楽器です。
雲鑼(うんら)
いくつかの音の高さが異なるドラを組み合わせて枠につるしたもの。
十面鑼(じゅうめんら)

音色や音の高さの異なる大小10枚ほどのドラを組み合わせて作ったドラ。
鐃鈸(にょうはち)

真鍮製の楽器で2枚1組。シンバル。
板鼓(ばんこ)

片面の太鼓。2本のバチで打ちます。「単皮鼓」、「小鼓」とも。
拍板(はくばん)

木製の楽器で、3枚の板をゆるく紐で結び、外側の2枚の板で中央の板をはさむようにして打って音を出します。宋代に最も重視された楽器で、拍子を取るために用います。
中国の古代楽器
編鐘(へんしょう)

打楽器で、音の高さの異なる鐘を枠の中につるして音を鳴らしました。鐘の数は7、13、16、32など様々です。楽曲にもよりますが、中にはクリスタルボウル的な神秘的な響きの音楽もあります。
磬(けい)

石製の打楽器。中国最古の楽器と言われています。平らな石でできていて、三角形や屈折形になっています。これを枠に吊るして槌で叩いて音を出します。雅楽用の楽器として、宮中の儀式や孔子廟で用いられました。
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柷(しゅく)

柷は雅楽用の打楽器で、演奏の開始時に使われます。木製の棒で箱の内側を叩くように使います。
敔(ぎょ)

敔は虎の姿を用いた木製の打楽器で、雅楽に使われます。棒で上から叩き、虎の背の部分に並んだ木の板の上部を棒で撫でるようにして音を出します。