纏足(てんそく) 【中国文化】
目次
- 1. 纏足とは
- 2. 纏足はいつ頃始まっていつ頃なくなった習慣なのか
- 3. 纏足の形態
- 4. 纏足にするときの痛みは?
- 5. なぜそこまで纏足にこだわったのか
- 6. どこの文化にもある不思議な習俗
- 7. 当時の中国における纏足の意味
- 8. 纏足は女性たちの誇りだった
- 9. 纏足の靴
- 10. 纏足で農作業はできたのか?
- 11. 「新中国」における纏足の女性たち
纏足とは
纏足とはかつてあった中国の習慣で、女児の足を布で縛って、成長後長さ10センチくらいの小さな足になるようにした風習、あるいはその足のことです。
上図と下図は1800年頃に同じ英国人の作者によって描かれた版画ですが、足の大きさを比べてみると、いかに纏足が小さいかがわかります。
纏足はいつ頃始まっていつ頃なくなった習慣なのか
纏足はいつ頃始まり、いつ頃なくなった習慣か? 起源についてははっきりわかりませんが、13世紀南宋の時代に始まったのではないかと言われています。
1911年清朝滅亡、1912年中華民国の成立後「纏足禁止令」が出ますが、この習慣はこれによって消えることなく、1949年中華人民共和国成立後の1950年に「纏足禁止令」が再度出てもなお根絶とは言い難く、50年代を数年過ぎてようやく、南宋以降約700年の間続いた纏足という風習は終わりを告げたのでした。
纏足の形態
纏足とは足のつま先からかかとまでの長さを短くし、足の甲を厚く弓型に反らせ、足の幅も細くさせたものです。
こうした形にするために足を布で縛るのですが、順序としてはまず親指以外の足の指を下の方に折り曲げてすべて足裏にくっつくようにします。次に足の両側の骨を下に折り曲げて足の幅を狭くします。その後、足を弓のように曲げ、土踏まずを窪ませ、甲の部分を高く持ち上げます。
こうした形にして布で縛るわけですが、要するに徐々に足の骨を折って固定し、最終的にこの形にしていくのです。そのためには5、6歳の幼児期に縛り始め、それからずっと一生涯縛り続けなければなりません。
纏足にするときの痛みは?
足の骨を折っていくのですから痛みはすさまじく、子供は泣き叫びます。子供の足を纏足にしていく役目は母親や乳母など女たちが担いましたが、彼女たちは心を鬼にして縛り続け、反抗する娘には容赦なく折檻をしたと言われます。
また痛みだけではなく血や膿も流れ臭気もひどかったので、ほとんど毎日包帯を取って、香料の入ったお湯で足を洗っていたそうですが、中には、そうしているときれいな形にならないと一か月くらい包帯をほどかないこともあったそうです。
なぜそこまで纏足にこだわったのか
娘を愛しているはずの母親が、今から言えば虐待としか思えない行動をしたのはなぜなのか?しかもこの習俗が700年も続いたのはなぜなのか、現代の時点から、そして外国人の目から見る時理解に苦しむとしか言えないのですが、もちろんそこには当時の社会からすれば一定の合理性があったわけです。
まず最初は上流社会の習慣にすぎなかったこの風俗はやがて徐々に中流階層に、そして纏足が廃れ始める19世紀には下層階級にまで普及していきます。また最初は漢民族の風習だったものが、やがて少数民族にまで広がっていくのです。
その理由の最大のものは「結婚」でした。小さな足を持たない娘は人々から嘲笑され軽蔑され、まともな婚家先が見つかりませんでした。
どこの文化にもある不思議な習俗
なぜ纏足でないと社会的に爪はじきにされたのか?これは世界の奇妙な文化を思えば多少は理解できます。
たとえば日本では江戸時代、娘は結婚すると歯を黒くし眉をそりました。江戸末期に日本に来た欧米人が、娘時代の日本の女性はとても魅力的なのに、結婚するとなぜこんな不気味な顔にするのかといぶかりました。当時の日本女性がそんな風に見られていたことを知れば、きっと憤慨したことでしょう。
欧米ではウエストを細くするためコルセットでギュウギュウに縛り上げます。『風と共に去りぬ』という19世紀後半を舞台にした小説では、ヒロインのウエストは49センチです!当時コルセットで締め付けたことで骨が折れ、それが内臓に突き刺さって死んだ人もいたそうです。当時の女性たちにその滑稽さを伝えればやはり憤慨したことでしょう。
現代でも整形で顔や体にメスを入れる人が大勢います。今は誰もそれを笑いませんが、整形前と整形後の写真を数百年年後の人類に見せた時、彼らが笑わないとは限りません。「なんで顔を削ってまでこんな顔にしたの…?」と。
社会的に美や習慣がすべてを覆った時、人はその奇妙さには気づけない、その圧力からは逃げられないものなのかもしれません。
当時の中国における纏足の意味
13世紀から19世紀までの中国において、纏足にはいくつもの重要な意味がありました。
まず女性が小さな足を引きずるように狭い歩幅で歩く姿を美しいとする美意識です。日本語では「纏足」…縛った足…と身もふたもない呼び方をしますが、中国では「三寸金蓮」(三寸…9センチの金の蓮)と優雅な呼び方をされました。
中国の伝統的な美人画ではよく、流れるような襞(ひだ)の入った美しい衣をまとった美女が描かれます。その衣の下からは小さな靴がのぞいています。そうした身なりの女性がゆっくりと足を優雅に動かして歩いていく…この姿に当時の中国人は心を奪われたのです。
当初この小さな足にする習慣は上流階層の女性だけに見られ、従って纏足は一般の人々の憧れでもありました。
さらには纏足をした女性は忍耐強く倫理観も強い理想的な家庭婦人と見られました。子供のしつけに気を配る家庭でよくしつけられ、幼女時代からの足の痛みも乗り越えてきたからです。お嫁さんをもらうならこうした娘さんがよい、実家もちゃんとしているだろうからと人々は思い、やがてこれは牢固とした社会的慣習になっていったのです。
社会的な慣習になれば、生まれたままの大きな足で生きる娘は怪物のように見られるようになっていきました。まず優雅さに欠け、我慢強さに欠け、道徳意識に欠けていると思われたのです。
生まれながらの足で町を歩けば人に嘲笑され、小さな子供までが「大きな足の女などは嫁にはしない」とバカにしたと言います。
母親が鬼のようになって娘の小さな足を縛ったのも無理はありません。
纏足は女性たちの誇りだった
現代から見れば、纏足をした女性は虐待された哀れな存在です。では当時纏足をしていた女性たちは自分をそのように見ていたのでしょうか?
結婚をした江戸時代の日本女性にとって「鉄漿(おはぐろ)と剃った眉」は一家の女あるじであることの誇りの証だったでしょうし、19世紀の欧米女性にとって49センチの細い腰は他の女性たちの憧れと嫉妬の的だったことでしょう。
これと同様にかつて纏足をしていた中国女性たちは、自分の小さな足を誇りに思っていたに違いありません。
日本には「色の白いは七難隠す」(どれほど容貌に欠点があろうとも、色白はすべてを覆い隠してしまう)ということわざがありますが、纏足が行われていた中国でも「小さな足でさえあれば容貌に欠点があってもかまわない」と言われていました。
長い時間をかけすさまじい苦痛に耐えてそうした足を作ってきた女性たちにとって、その足を持っていることは誇りであり、立派な女性であることを示す生きたパスポートだったのです。
纏足の靴
纏足をしていた女性たちが履いた靴が今もたくさん残っています。ほとんどは清朝時代のものですが、形・配色・刺しゅうの見事さなど芸術品と言えるものです。この靴の美しさは、はだしになった時の纏足の足とは対照的です。美しい靴、巻かれた包帯を取った時の小さな足は奇形としか言いようがなく、目をそむけたくなる醜悪さです。彼女たちは眠る時もそのための薄い靴を履いたのでした。
今も残るこうした靴は靴裏まで美しい刺しゅうが施され、ほとんど外を歩くことがなかったことがしのばれます。
彼女たちが外を歩く時はほんの少しの距離でもよろよろと歩き、時には人に抱えられ、おんぶされないと移動ができませんでした。
纏足で農作業はできたのか?
纏足では農作業などはもちろんできず、そこで纏足をしている女性は中流層以上とみなされ憧れの的になったわけです。
けれども纏足時代の末期になると中国全土で纏足が広がります。纏足を続けるにはかなりの費用がかかるのですが、それでも庶民の娘までも纏足をするようになりました。皆が纏足をするようになれば、纏足をしていない女性に良い家からの結婚話は来ません。当時の女性、特に庶民層では女性は結婚しなければ食べていくこともできませんでした。纏足をすることができない経済状況の女性は同じ階層の男性と結婚をし、共に農作業に明け暮れる生活を送るしかありませんでした。
「新中国」における纏足の女性たち
纏足の習慣は次第に都会から消えていき、農村部では40年代になってもまだ纏足の習慣が残りました。この時代に纏足をした女性は今80代です。私の周囲でもお祖母さんが纏足だった人、職場の同僚が纏足だった人が何人かいます。そうした人に、現代中国になってからの社会で纏足の女性にはどういうまなざしが向けられていたのかを聞くと、差別を受けていたと言います。愚昧な陋習を引きずった社会の落後者ということでしょう。
辛い纏足に耐えたのに、新しい社会になると軽蔑される…胸の痛む話です。
ホワイトカラーとして工場に赴任し、その工場で働く部下の女性工員が纏足だったという人がこんな話をしてくれました。その部下の女性とはとても仲良しだったのだそうです。
「私が初めて子供を出産した時、夫は長期出張でそばにいてもらえなかった。するとその纏足だった彼女が長い距離をあの小さな足で懸命に歩いてきて、産後の体に滋養がつくようにと美味しいおかずをいっぱい持ってきてくれた…」
歩けるはずのない足で歩く…そこに至るまでにはずいぶんと苦労をしたことでしょう。纏足でも歩かなければ食べていけない時代に巡り合ってしまったのです。
心優しい纏足の女性のこの話を「中国文化・纏足」の締めくくりにしておきましょう。