「琴」と「箏」の歴史と構造の違い 【図説】

琴と箏

琴とは

」という文字は「こと」とも「きん」とも読めますが、ここではまず「琴」(きん)について説明します。

きん」は中国の伝統的な楽器で、「そう」と区別するために「古琴こきん」とも呼ばれ、2006年に「世界無形遺産」に認定されています。

」の長さは平均約1メートル30センチ、幅は約20センチ、厚さは約5センチです。琴の表側は桐の木、裏側は梓の木を使って中が空洞の桶状のものをつくり、それを張り合わせて作ります。琴の表に7本の弦を張り、音位の目印となる徽(き)を嵌め込みます。弾き方としては、左手で弦を押さえて弾くなど3種類あり、音域は4オクターブ以上あります。

琴
琴。7弦でがない。

琴の歴史

琴の歴史は古く、創始者としては伏犠ふっき・神農・舜など神話の神々や伝説の王の名が挙げられています。

書経しょきょう』(中国最古の歴史書。孔子の編とされる)や『詩経しきょう』(中国最古の詩編。孔子の編とされる)にもすでに琴の名が見られ、『史記』孔子世家(前漢武帝の時代に司馬遷によって書かれた歴史書)に、孔子は琴を学んだと書かれています。

現存する最古の琴は、紀元前433年と銘打たれた曽侯そうこう乙墓いつぼ10弦の琴ですが、戦国時代(B.C.403~B.C.221)末期までには弦の数は7本に定まりました。

琴は漢代に飛躍的に発展し、雅楽ががくとして合奏に使われるだけでなく独奏にも使われるようになりました。また琴についての書物もたくさん書かれ、琴は聖人君子の楽器として崇められました。

3世紀の前半までには形態的にほぼ完成し、以後ほとんど変化はありません。

唐代になるとすでに古楽器とされ、琴の演奏は君子のたしなみとなって知識人に広がっていきました。

宋代の琴の絵
宋代の琴の絵。琴はかつて君子のたしなみでした。

「箏」(そう)とは

そう」は「きん」とは異なる楽器で、今は「古箏こそう」と言うこともあります。

「箏」がいつ頃から用いられたのかははっきりしませんが、秦の時代にはすでに広く演奏されていたようです。

きん」と「そう」の一番の違いは、琴台に「」があるかどうかです。「琴」は「柱」を持たず、「箏」には「柱」があります。

箏の写真
現在の中国の箏の写真。(21弦)

上の箏の写真を見ると、弦の下に小さな柱のようなものがたくさん並んでいますね。あれが「柱」で弦の音程を調節するのに使います。「琴」にはこれがなく、太さの異なる絹糸を用いることで調弦をしやすくしています。

また弦の数も違います。「琴」は7弦ですが、「箏」は最初は5弦、唐代には12弦と13弦の2種類がありました。そしてこの13弦の箏が日本に伝わり、いわゆる「お琴」になっていくのです。

唐代の雅楽の箏
唐代の雅楽の箏(13弦)。箏は宮廷音楽で用いられました。

一方中国では、元、明代に14弦、15弦、清代には16弦、現代では21弦になっています。

弦の素材は初めは絹、清代からは銅弦も使われるようになり、今ではスチール弦が主流で、右手に義爪をつけて弾奏します。

日本の「お琴」の写真(13弦)
日本の「お琴」(箏)の写真(13弦)。

日本の「琴」と「箏」の歴史・違い

中国の「琴」と「箏」は共に奈良時代の日本に伝わり、『源氏物語』などにも琴と筝に触れた部分があります。当時、唐で作られた琴が今も正倉院に残されています。その後日本で「琴」は消えてしまい、江戸時代に儒者によって再興されるのですが、明治になるとまた琴は日本からは消えていきます。

一方、「箏」は日本で消えずに残ります。現在日本人が引いている「おこと」は実は「きん」ではなく、この「そう」です。これを「箏」(こと)と読ませているので混乱が起きます。

日本の「箏」=「お琴」の写真
日本の「そう」=「こと」=「おこと」の写真。

日本は1946年に当用漢字を導入し、難しい漢字の使用を公文書や新聞などで制限するようになるのですが、その際にこの「箏」という文字が制限されてしまいます。このとき「箏」の代替文字となったのが「琴」です。

(7弦でのない弦楽器としての)「きん」がかなり早い段階で日本では使われなくなったため、もともと(言葉としての)「琴」と「箏」は誤用されがちだった上に、当用漢字の導入で混乱に拍車がかかります。

そのため、現在では唐の時代の「そう」、すなわち13弦でのある弦楽器のことを、日本では、「そう」「こと」「こと」「おこと」などと言います。

瑟(しつ)とは

瑟
発掘された瑟。箏よりも大型です。本来は弦があります。

しつ」とは大型の「箏」で、弦の数も多いものです。サイズと弦・柱の数以外は「箏」と同一で、「琴」とは構造が異なります。

春秋時代に書かれた『詩経』などにも記述が見られ、古代の宮廷楽器として用いられていたことがわかっています。

琴の曲

伯牙
伯牙。琴の名手として伝わる。

琴の曲で古いものとしては、春秋時代の音楽家・伯牙はくがの『高山流水』が有名です。この曲はいろいろな流派による楽譜が残され、今も聴くことができます。

2世紀にはさいようの選で『琴操』が書かれ、この中に琴曲50曲の解説が入っていますが、具体的なメロディは伝わっていません。

琴をめぐる物語

最後に琴をめぐる物語を二つ紹介しましょう。

琴の名手・伯牙の物語

まずは上に挙げた伯牙(春秋時代の晋の大夫)の物語です。

伯牙はせっかく琴を学んだのに三年でやめてしまい、そこで師匠の成連は彼を東の海に浮かぶ仙人の島・蓬莱島に連れていきました。ところがこの島に着くや師匠はどこかに行ってしまいます。一人残された伯牙は一晩中うねる波の音、鳥の悲痛な鳴き声を聞き、こうした大自然の中から突然音楽の魂を悟ります。

その後伯牙が荒れ野で琴を弾いていると、木こりの鐘子期に出会います。伯牙が奏でる琴の音色を聞いて鐘子期は「険しい高山のようだ」と言い、琴の音色が変わると今度は「流れる川のようだ」と言いました。それを聞いた伯牙は「君は自分が心で思っていることと同じことを言う」と驚きます。その後鐘子期が亡くなってしまうと伯牙は彼の墓前で『高山流水』を奏で、「私のただ一人の知音はもういない。この後いったい誰に私の琴を聞いてもらうと言うのか」と言うや、琴の弦を断ち切り、その後二度と琴を手にすることはありませんでした。

この話が元になって、大自然の魂を琴の音色に移すことを「移情」と言い、自分の心のうちを知ってくれる親友を「知音」と言うようになりました。

ちなみに神戸と淡路島を結ぶ明石海峡大橋のたもとに、八角形の美しい建物が立っています。この建物は神戸に暮らした華僑・呉錦堂が大正時代に建てた別荘で「移情閣」と言います。呉錦堂は1912年に中華民国を興した孫文の支援者で、その後この建物は「孫文記念館」になりました。この「移情閣」という名前は上の伯牙の物語から取ったものです。

蔡文姫(蔡琰)の『胡笳十八拍』

もう一つ、琴にまつわる話に『胡笳こか十八拍じゅうはっぱく』という名曲の話があります。これは女流詩人さい文姫ぶんきの作と言われますが、後世の偽作という説もあり真偽のほどはわかりません。

胡笳十八拍
胡笳十八拍。蔡文姫の帰還の場面。

蔡文姫は後漢の学者で琴の名手としても有名なさいようの娘です。彼女は後漢末に匈奴が侵入した際、避難の途中で捕らえられて匈奴の王の妃とされてしまい、異郷の地で子供を二人生みます。それから12年、蔡邕と交流のあった曹操が間に入って財貨を積んで彼女を取り戻します。文姫は漢に戻ってから長詩『胡笳十八拍』を書き、それにメロディをつけたと言われます。

今もこの曲は琴の名曲として、演奏され歌われる様子をネット上で見聞きことができますが、この話を知っているからでしょうか、悲壮な中にも凛とした美しい姫の姿が見えるようです。