清明節(中国のお墓参りの日)の習慣 お金を燃やして弔う
清明節とは毎年4月5日前後にやってくる節句で、2024年の清明節は4月4日です。春たけなわ。天地に清らかで明るい命のいぶきが感じられる日々です。そこで清明節と言うのだそうです。この節句の起源も古く、周代(BC1046年頃 - BC256年)に始まると言いますから2500年ほどの歴史があることになります。
清明節の主な行事
清明節と言えばお墓参りの日、中国語では“扫墓 sǎomù”と言います。日本で言うならお彼岸かお盆になります。日本ではお墓参りは命日、お彼岸、お盆と年に何回かする人も多いでしょうが、中国では基本清明節だけです。
またこの日は“踏青节 tàqīngjié”とも呼ばれ、春のピクニックの日でもあります。
さらにはかつては“寒食节 hánshíjié”とも呼ばれ、熱々の食事を愛する中国人が温めていないものを食べる日でもあったとか。
そこで体を冷やしてはいけないという工夫でしょうか、この日はブランコに乗ったり、蹴鞠をしたり、凧揚げをする日でもあったようです。
中国のお墓参り
お墓参りのことを“扫墓”(墓を掃除する)と言い表すように、まず草をむしったり土を新たに盛ったりしてお墓をきれいにします。
それから食べ物やお酒などのお供えをし、本物ではない紙のお金(“纸钱 zhǐqián”)を焼きます。亡くなった家族があの世で暮らしに困らないようにという思いからです。
日本ではそのあと立ったまま手を合わせて、死者の冥福と遺族を見守ってくれるよう祈りますが、中国では手を合わせるという習慣は仏教の僧侶以外あまりないように思います。手は合わせずおじぎ(“鞠躬 jūgōng”)または跪(ひざまず)いて額(ぬか)づく(“磕头 kētóu”)礼をしますが、その際同じ仕草を3回するのが一般的です。
清明節はいつ復活したのか?
かつて中国では文化大革命という一種の内乱がありました(1966~1976)。名目上は封建的、資本主義的文化を一掃し、社会主義文化を打ち立てようという文化運動でしたが、実際は中国共産党内部の権力闘争だったと言われます。この内乱の中で多くの人命が失われましたが、それと同時に多くの文化財が失われました。これは「旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣を打ち捨てよう」(“破四旧 pò sìjiù”)という1966年に出されたスローガンによるのですが、これによって伝統的な習俗もまた壊されてしまいました。
清明節というお墓参りの行事は、1935年に当時の国民党政権下で国民の祝日として制定されていましたが、新中国になってからは国定祝日からははずされていました。新中国の国定祝日は5月1日の労働節(メーデー)、五四運動(反日、反帝国主義運動)を記念した青年節、人民解放軍建軍記念日、国慶節(新中国建国記念日)など政治的な祝日が多く、伝統的な祝日は春節のみでした。
その後2007年に清明節は端午節、中秋節とともに国定祝日に制定され、特に清明節は3日間の連休となり、大切な節句として扱われるようになりました。これは、中国の伝統的な節句である「端午節」が2005年韓国によりユネスコ世界無形文化遺産に登録されてしまったという「事件」がきっかけだったと思われますが、中国が豊かになり、文化や伝統に目を向けるようになったという社会の変化ともおおいに関係があるのでしょう。
清明節の食事 “寒食节”
寒食節とは「食べ物を温めないで食べる日」ということですが、これはもともと別の節句だったようで、日にちが清明節と近いためにいっしょになってしまったようです。
この節句のいわれは、春秋時代(BC770~BC403)の晋の文公(重耳)が自分の命が原因で焼死してしまった忠臣を悼んで「この日は火を使ってはならない」と命じたことによるのだそうです。その結果食べるようになったのが“清明果 qīngmíngguǒ”というヨモギを使った緑色の餅(“年糕niángāo”)です。これは南方の習慣のようですが、これが日本に伝わって「草餅」になったのかもしれませんね。
「清明節」が出てくる絵や物語など
清明節と清明上河図
本サイト、中国語スクリプトの表紙絵のタイトルは『清明上河図』、清明節のころ北宋の都開封のにぎわいを描いた絵巻物です。
清明節と白蛇伝
民間伝説『白蛇伝』の話は、杭州西湖にかかる断橋という名の橋の上から始まります。清明節の日ここで主人公、白蛇の化身白素貞と許仙という若者が出会うのです。
※断橋という名前の由来ですが、この橋に雪が積もった後、陽の当たる場所は雪が消え、当たらない場所は雪が残り、その様子を上から見ると橋が途中で断ち切れているかのように見えるからだそうです。「断橋残雪」と称して「西湖」絶景の一つになっています。この橋はまた『白蛇伝』のカップルが出会った場所ということからでしょう、“情人桥 qíngrénqiáo”(恋人橋)とも呼ばれています。
杜牧の漢詩
次は晩唐(9世紀)の詩人杜牧の有名な七言絶句をご紹介しましょう。
清明の時節 雨紛紛
路上の行人 魂を断たんと欲す
借問す 酒家は何れの処にか有る
牧童 遙かに指す 杏花の村
(現代語訳)
清明節のころ雨がしとしとと降ってくる
道を行く旅人はなんとも気が滅入る思い。
お尋ね申す 居酒屋の場所を教えてくれぬか
牛飼いの少年がはるか遠く杏の花咲く村を指さす
絵画のような漢詩『江南の春』で有名な杜牧の詩ですが、これもまるで絵のような世界です。まだ肌寒い清明の頃の春雨、灰色の雨雲の下を歩く旅人の心が晴れやかであるはずもありません。どこかで一杯飲んでいくか…向こうから牛飼いの少年が牛の背に乗ってやってきます。居酒屋を問う旅人のことばはまるで耳元で話しているかのよう。少年が指さす先にぼうっとかすんで見える杏の村。詩の最後ですべては春の夢幻の世界に溶け込んでいきます。
看見
もう一つ清明節に触れた本を紹介しましょう。柴静という若い女性ジャーナリストが書いた『看見』というノンフィクションです。ここには彼女が取材したさまざまな事件が紹介されているのですが、そのうちの一つに2008年5月12日に起きた汶川大地震があります。あの地震では多くの学校がつぶれ、たくさんの子供たちが亡くなったのでした。
地震の翌年の清明節、被害の多かった北川県に前年取材した夫婦を訪れると、つぶれてしまった小学校の跡地のそばの道路には道沿いにどこまでもろうそくがともされ、子供を失った親たちがじっと学校を見つめたり、紙のお金などを焼いたりしています。取材した夫婦は亡くなった子供のためにウルトラマンが描かれた青い紙のカバンを買い「気に入ったか?」とつぶやきながらそれを燃やします。清明節の日に死者のために紙を燃やすという習俗が胸にしみる情景です。