重耳(晋の文公 )【諸国を放浪したのちに覇者となる】

重耳

重耳ちょうじは古代中国・春秋時代の晋の君主で文公とも呼ばれています。

当時の大国・と戦ってこれに勝利し、晋を春秋の五覇に押し上げました。

※上の画像は重耳が諸国を放浪していた場面。

重耳という名前の由来

重耳ちょうじは中国春秋時代(BC.770~BC.403)の政治家で、晋(BC.11世紀~BC.376)の君主です。「重い耳」と書いて、日本語では「ちょうじ」と読みます。「じゅうじ」ではありません。「じゅう」と読めば「重い耳」という意味になりますが、「ちょう」と読めば「重なる耳」、つまり耳が二つあるという意味になります。

人の耳は右と左に一つずつ、すなわち二つありますが、なぜわざわざ「二つの耳」という名前をつけたのでしょうか。

これについてははっきりとはわからないのですが、古代の馬車には座る部分の左右に取っ手(乗った人が手でつかむところ)があり、この二つの取っ手のことを「重耳」、すなわち二つの耳と呼んでいたようです。また古代の貴族たちは馬車の部品の名称を人の名前にするという習慣があったのだとか。ここから「重耳」と名付けられたのではないかという説があります。姓は姫、名が重耳です。

春秋時代の地図
春秋時代の地図。晋は地図左上に位置しています。
年表
重耳は春秋時代の晋の君主です。

お家騒動

重耳は春秋時代の晋の献公の息子です。父の跡を継いで晋の文公となり、晋を春秋五覇、すなわち春秋時代の五大覇権国家の一つに押し上げ、晋をして長きにわたる有力国家とする基礎を作りました。この晋はのちに趙、魏、韓に分かれ、それぞれが戦国七雄となっていきます。

重耳が生まれた頃、彼の家では相続をめぐってお家騒動が起きました。

重耳の父親である献公が西戎(せいじゅう)と呼ばれる異民族を討伐し、異民族の姫君をさらってきて妻にしました。献公には他の妻が生んだ息子たちがいて、重耳もその一人です。異民族の姫君に子供が生まれると、その子を後継ぎにしたい姫君にとって他の息子たちは邪魔者です。そこで彼女は宮中で出される食事に毒を盛り、それが長男の申生の仕業であると献公に告げ口をするのです。長男の申生はそれを知って自殺してしまい、重耳は命の危険を感じて蒲(ほ)という土地に逃げていきました。

父王は息子が逃げたと知ると、やはり陰謀を企んでいたのだと思い込み、蒲に兵を出し重耳の命を奪おうとします。重耳は垣根を乗り越えて逃げ、これを追う宦官に服のたもとを切り落とされますが、なんとか逃げおおせて、生母の国・狄(てき…中国北方の部族の国)に亡命しました。

それから4年(BC.651)献公は病に倒れ、異民族の姫君が生んだ子を後継ぎに指名して亡くなりました。しかし献公の家来が、この姫君と跡継ぎ二人の命を奪い、重耳に後継ぎになるよう説得するために亡命先までやってきました。重耳はこの話を受ければ命が危ういと思って断り、重耳の兄弟の一人・夷吾(いご)が晋の跡継ぎとなって恵公を名のりました。

恵公は晋の後継者となった後も疑心暗鬼にとらわれ、何人もの臣下の命を奪ったばかりでなく、重耳の命をも狙い始めました。

そこで重耳は斉に逃げ、その後、衛、斉、曹、宋、鄭、楚などの諸国を転々としました。

重耳、晋の文公となる

BC.637年に恵公が亡くなると、人質として秦で暮らしていた晋の太子(たいし…跡継ぎとなる皇子や王子のこと)が、秦の許しを得ることなく勝手に帰国して晋の君主となりました。これが晋の懐公(かいこう)です。

人質が許しを得ずに帰国したことに腹を立てた秦の穆公(ぼくこう)は、晋の高官と内通して懐公の命を奪います。その後重耳を秦に招いて秦王室の娘たち5人を妻として与え、重耳を晋に送り返して晋の君主に据えました。こうした経過を経て重耳は晋の文公となりました。

重耳が秦から5人の妻を与えられる場面
重耳が秦から5人の妻を与えられる場面。
重耳が晋に帰還する場面
重耳が晋に帰還する場面。

しかし晋の懐公の臣下だった者は重耳に心服せず、重耳の命を奪おうとします。重耳は秦の穆公に守られ、反乱者は逆に穆公によって殺されてしまいました。

晋の文公となった重耳は、この内乱で自分の味方になってくれた者を高官に取り立てて内政に取り組みました。彼は貧しい人々を救済したり減税を行ったりして、晋国の安定をめざしました。

楚との戦い

BC.633に中国南方の大国・楚が宋に攻め込んできました。楚に包囲された宋は、晋に使者を送って救援を頼みました。

晋の家臣が「今こそ宋を救援して、我が晋の力をアピールし、覇業を成し遂げるべきです」と文公に進言しました。

重耳は亡命生活の中で諸国を行脚して助けを求めていましたが、他の国が冷淡だった中、宋の襄公だけが馬20乗(馬80頭、車20輌)を重耳に送ってくれたのです。

宋の襄公が重耳に馬を贈る場面
宋の襄公が重耳に馬を贈る場面。

そこで文公は、晋の軍を三つに編成して曹と衛を討伐した後、曹衛二つの国の土地を宋に与えました。そして宋から斉と秦に、晋と楚との和解の仲立ちを頼んでもらい、斉と秦が楚と対立するよう企てました。重耳はさらに臣下に楚の使者をつかまえさせ、楚を挑発しました。

三舎を避ける

この挑発を受けて、楚は晋を攻撃しました。ところが重耳は楚軍と戦おうとせずに自軍を退却させます。臣下がそのわけを重耳に尋ねると、重耳は「昔、諸国に亡命していた時、楚の成王は自分のことを厄介者の亡命者としてではなく、身分ある諸侯として迎えてくれた。その時成王に『あなたが晋に戻った後、あなたをこうして手厚くもてなした見返りに何をしてくれますか』と聞かれたので、『もし我が晋があなた方楚と矛を交えることがあったなら、我が方は三舎(90里)を避けることにいたしましょう』と返事をしたのだ」と言いました。

この戦いで重耳はこのときの約束を守ったのです。

この楚との戦いでは、晋は宋、斉、秦と手を組み、最終的に楚は大敗しました。

こうして晋は天下を安定させるという役割を果たし、覇者としての面目を施しました。

ちなみに「三舎を避ける」という言葉は、「相手に一目置く」という意味を持つ成語となって今も使われています。

文公、覇者として振る舞う

戦いが終わると、文公は斉、魯、宋、蔡、鄭、衛などの諸侯と顔を合わせ盟約を結びました。その内容は、周の王室をともに補佐することと、相互不可侵の2点でした。

この集まりで文公は、周王から諸侯たちのリーダーに任命されました。

この後、文公は諸侯を集めて周王に拝謁しようとしましたが、反乱を起こされることを懸念して、自分たちから周王の元に行くのではなく、周王を呼び出して拝謁しました。

王を呼び出すとは、まさに天下の覇者たるふるまいです。

これを知った孔子は、「諸侯が王を呼び出すとは…」と言ったといいます。

長きにわたって天下を支配した周王朝はすでに権威を失い、まさに名前だけの存在になっていたのでした。

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