趙高【秦を滅亡に追いやった悪名高き宦官】
趙高は秦の始皇帝の側近で宦官です。始皇帝亡きあと、策謀をめぐらせ、始皇帝長男の扶蘇(ふそ)や蒙恬将軍を死に追いやって権勢をふるいました。
目次
- 1. 趙高とは
- 2. 始皇帝の死と謀略
- 3. 胡亥の即位と趙高の独裁
- 4. 「馬鹿」のいわれと二世皇帝の死
- 5. 趙高の死と秦の滅亡
趙高とは
趙高(ちょうこう…生年不詳~BC.207)とは、秦の始皇帝に側近として仕えた宦官です。身分は卑しいのですが、非常に勉強熱心だったため始皇帝に目をかけられました。
始皇帝の死後、権力を簒奪して始皇帝の長男・扶蘇(ふそ)や秦の名将軍・蒙恬(もうてん)を自殺に追いやり、不承不承趙高に協力した丞相の李斯(りし)を処刑、二世皇帝の胡亥(こがい)もまた命を奪われました。
最期は趙高が傀儡にした皇帝・子嬰(しえい)によって死に追いやられました。
趙高は中国史の中でも、南宋の秦檜(しんかい)と並んできわめて悪名高い人物です。
始皇帝の死と謀略
始皇帝の37年(BC.210)、始皇帝は丞相(総理大臣)の李斯や皇帝の璽(じ…皇帝の印章)を司る役職にいた趙高、始皇帝の末っ子・胡亥(こがい)を引き連れて全国巡幸の旅に出ていました。
浙江省の会稽山(かいけいざん)に登った後、東海に沿って北に向かい、山東省の琅琊(ろうや)山から河北省の沙丘(さきゅう)に着いた時、始皇帝は病に倒れました。
始皇帝は死を悟ったのでしょう、趙高に、陝西省の上郡(じょうぐん)にいた長男・扶蘇(ふそ)に「軍は蒙恬将軍に任せ、お前は咸陽の都に戻って私の葬儀を取り仕切るように」という手紙を送らせました。この手紙を使者に渡す前に始皇帝は亡くなりました。
李斯は、次の皇帝がまだ定まっていなかったので始皇帝の死を伏せ、遺体は窓を開けて温度調節のできる大型の車に乗せ、始皇帝が生きている時と同じように行動しました。
こうした状況の中で、始皇帝の手紙と玉璽(皇帝の印鑑)の両方を持っている趙高は胡亥に、兄ではなく胡亥が帝位に就くよう説得しました。
「皇帝は崩御されましたが誰を後継ぎにするかという遺言はありませんでした。あるのはただ長男の扶蘇様へのお手紙だけです。扶蘇様が即位されればあなた様にはわずかの土地も与えられませんよ。人を臣下とするか、人の臣下となるかには、行きと帰りほどの違いがあるのです」
すると胡亥は「兄を廃して弟が立つのは不義である」と言って拒否します。
すると趙高は「湯王や武王は主君を亡き者にしましたが、天下の人はこれを義とし、不忠とはしませんでした。大事を行うものは小義を顧みないという言葉もあります」と言って胡亥を説き伏せ、すべてを李斯と自分に一任させました。
李斯も最初この陰謀に加担することを嫌がりましたが、扶蘇が即位すると丞相の地位は蒙恬将軍のものになって李斯は失脚する…と説得され、この陰謀に同意しました。
趙高、胡亥、李斯の三人は謀(はかりごと)をめぐらせ、始皇帝の遺書と偽って扶蘇に手紙を送り、扶蘇と蒙恬の自害を命じました。
この手紙を読んだ扶蘇は、蒙恬がニセの手紙かもしれないので少し待つよう進言しましたが、これを聞き入れずに毒を仰ぎ、蒙恬もまた後に死に追いやられました。
胡亥の即位と趙高の独裁
こうして三人は咸陽に戻って人々に始皇帝の死を知らせ、胡亥が二世皇帝として即位しました。
この後趙高は二世皇帝の側近として万事を取り仕切るようになりました。
法と罰がどんどん厳しくなり、臣下たちは戦々恐々とし背こうとする者も増えました。
趙高はその職権を使って多くの人を死に追いやり、私怨を晴らしました。
大臣たちが自分を讒訴するのを怖れ、二世皇帝が朝廷に出ていかないよう謀り、すべては趙高の手によって決裁されるようにしていきました。
「馬鹿」のいわれと二世皇帝の死
それから二年後、李斯は趙高の讒言で陥れられ腰斬(ようざん)の刑という残酷な刑に処されます。李斯の死後、趙高は一層独裁者として権力を振る舞うようになりました。
自分の権力がどれほど大きいかを確かめるために、趙高はある日鹿を馬だと言って二世皇帝に献上しました。
二世皇帝が左右の者に「これは馬ではなく鹿であろう」と言うと、そこにいた全員が鹿を「馬でございます」と答えました。
二世皇帝は自分がおかしくなったのかと思い、卜を担当する役人の勧めで、宮殿を出て斎戒の日を送ることにしました。
ところがそれは口実で二世皇帝は狩りなどに遊び暮らし、狩場を通った者を自ら射るなど無法なことをしていました。その後趙高は山東の群盗が攻めてきましたと騙し、怯えた皇帝を自殺に追い込みました。
趙高の死と秦の滅亡
二世皇帝の死後、御璽を持つ趙高は自ら皇帝になろうとしましたが従う者はなく、宮殿に上ると宮殿が激しく揺れました。趙高は自分が皇帝になることは天が許さないのだと思い、二世皇帝の血縁である子嬰(しえい…胡亥の兄の子などとされているが、その出自はよくわかっていない)を連れてきて御璽を与えました。
子嬰は即位しても病気だと偽って政治を執らず、宦官の韓談(かん だん)とその子とともに謀り、趙高が自分の病気見舞いにやってきたところで、韓談にこれを討たせました。こうして趙高は一族もろとも滅ぼされました。
子嬰即位後三か月後に漢の劉邦軍が咸陽に押し寄せ、子嬰を守る者が一人も現れない中、子嬰は妻子ともども投降し、やがて子嬰は項羽に斬られて秦は滅亡しました。