竹簡の歴史と使われ方・竹簡を由来とする漢字

竹簡

竹簡ちくかんとは紙が発明される以前にあった竹から作られた筆記用具です。竹が採れない地域では木牘が用いられました。

竹簡とは

竹簡(ちくかん)とは、紙が一般に普及する前(紙は戦国時代(B.C.403~B.C.221)に発明され、魏・晋・南北朝時代(A.D.220~A.D.589)にはかなり広まったと考えられています。)まで使われた筆記のための道具です。古代のノートといってもいいでしょう。

年表
年表。竹簡は殷の時代にはすでに存在していたと言われています。

竹簡の作り方・使い方

竹簡はまず竹を半分に割り、これを1センチの幅に裂きます。その後火であぶり、油や水分などを取って竹の青みを消します。この作業を殺青(さっせい)といい、こうすることで墨の付き方をよくします。

処理が済むと竹の束をすだれのように糸でくくって完成です。「冊」という字は竹簡や木簡の形象で、すでに殷代にはこの文字が見られることから、竹簡も殷代(BC.17世紀ごろ~BC.1040)には存在していたのではないかと考えられています。

文字は竹の裏側に筆で書き、書き損じたときにはその部分を小刀で削りました。

竹簡から生まれた言葉

「編」は「編(あ)む」とも読みますが、竹簡を糸でまとめたことから生まれた漢字です。

こうしてひとまとまりになった簡を「1編」「1冊」で数え、それを巻いたものは「1巻」で数えます。つまり現在使っている1編、1冊、1巻などの言い方は古代中国の竹簡が元になっているのです。塀など板を並べた構造のものを「柵」というのもここから来ています。

竹簡の長所

甲骨文字
甲骨文字。

竹簡以前の筆記道具は、甲骨(こうこつ…亀の甲羅や牛などの獣骨)や金石(きんせき…金属や石)でした。これらは持ち運びが容易ではなく、また書く面も限られていました。これらに比べると竹簡は持ち運びに便利で、また竹を増やせばいくらでも書いていくことができます。また甲骨や金石に刻めばこれを修正するのは大変でしたが、竹簡なら削ればいいので簡単でした。

竹簡の発掘

竹簡は竹と糸でできていますからその腐りやすさもあって20世紀になるまで現物は残されていないと考えられていました。ところが1901年イギリス人探検家・オーレル・スタインがニヤ遺跡(中国新疆ウイグル自治区ニヤ県で発見された遺跡)で「簡牘」(かんとく…竹簡と木牘を合わせた言い方)を発見した後、湖北省や湖南省でも多くの竹簡やも木牘(もくとく…木の札のこと。竹の札を「竹簡」、木の札を「木牘」という)が発見されました。この中には戦国時代中期のものもあり、すると諸子百家の時代、知識人たちは竹簡や木牘を読んで知識を増やしていたと考えられます。

荘子』(そうし・そうじ)…荘子(BC.369頃~BC.286頃)の著書…に「恵施(けいし…BC.370頃~BC.310頃 戦国時代魏の宰相)は多方にしてその書は五車」(恵施は知識が豊富で、蔵書は車5台分となる」と書かれています。この「書」とは竹簡か木牘に書かれて綴じられたもののことで、車5台分といっても当時の車はせいぜい荷車程度の大きさだったことでしょうから、決してオーバーな表現ではないでしょう。

ちなみに木牘は竹が採れない地方で竹簡同様に使われました。竹はもともと熱帯の植物なので、中国大陸の寒く乾燥した地域には生えないのです。

現代では紙ですら消えつつあり、そう遠くない将来文字のほとんどは電子化されるかもしれません。古代人からすれば想像を絶する世界でしょう。羨ましいと嘆息するか、つまらないとがっかりするか。

『三国志演義』のドラマで、曹操が立派な竹簡をジャラジャラと読んでいた場面を思い出すと竹簡が歴史の彼方に消えてしまったのは惜しい気もします。当時は竹簡も文字も非常に価値のあるものだったに違いありません。

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