勾践の生涯【苦難に耐え復讐を果たした越の王】

勾践

勾践(こうせん)は春秋時代末期のの王で、王・夫差との戦いや、そのために互いに復讐心を燃やした「臥薪嘗胆」の故事成語でもよく知られています。

※上の写真は越の首都会稽(現在の浙江省紹興市)。

勾践とは

勾践(こうせん…?~B.C.465)は、中国春秋時代の越(えつ)の王です。父王の死後即位して呉と戦いこれに勝利。呉王・夫差は薪に寝てその痛みで復讐を忘れず、次は呉が勝利し、敗北した勾践は呉王に仕える身となりました。釈放された後は毎日苦い肝をなめて呉への復讐を誓い、数十年の後に呉を滅ぼしました。夫差と勾践がそれぞれ復讐に燃えるさまは「臥薪嘗胆」(薪の上に寝て肝をなめる)ということわざに残っています。勾践は側近の范蠡や種の諫言によく耳を貸して最終的に勝利し、呉王の夫差は忠臣の伍子胥の諫言を聞かず、私腹を肥やす側近のおべっかに耳を傾けて、結果国を滅ぼしてしまいました。勾践と夫差の戦いはそれぞれの家臣である范蠡や種、伍子胥の活躍も今に伝えています。

春秋時代の地図
春秋時代の地図。越は右下に位置しています。
年表
勾践は春秋時代の越の王です。

越とは

越王は(う…中国最古の王朝といわれる夏王朝の祖。伝説の帝)の末裔で、会稽(かいけい…現在の浙江省紹興付近)に封じられ、禹の祀りを司りました。越の人々は体に入れ墨を入れ、髪は断髪のままで、中原の人々のように結うことはありませんでした。越は中国南方の異民族の王国でした。

越王・勾践と呉王・闔閭の戦い

越王允常の陵墓
越王允常の陵墓。

第20余代越王・允常(いんじょう)は呉王の闔閭(こうりょ)と戦い、互いに恨みを残しましたが、その允常が没すると息子の勾践が越王となりました。

勾践が即位して間もなく、呉の闔閭は允常が死んだと聞いて越に出兵しました。

これを知った越王勾践は、将軍・范蠡の献策により実に奇妙な戦法を取りました。

それは決死隊を作って彼らを陣の先頭に立て、敵である呉の恩を叫びながら自決させるというものです。

「呉の皆様に感謝します!」と叫びながら自害するのですから、これを見た呉兵はあっけにとられて戦うのも忘れてしまいました。越軍はその隙にそれっとばかり呉軍を襲撃しました。こういう作戦だったのです。それにしても越の決死隊はよく納得して引き受けたものです。一説によると越国の囚人だったそうですが、そうすると彼らは何と引き換えに決死隊になったのでしょうか。何もなくて全員がこの命令に素直に服するとは思えません。その謎解きが書かれてある本はありませんが気になります。

ともあれ前代未聞のこの戦いで呉軍は敗北し、呉王闔閭は負傷して、その傷が元で亡くなりました。死ぬ前に闔閭は息子の夫差を呼び「この恨みを忘れるな」と言い残しました。

この戦いが、この後繰り返されていく呉越の戦いの最初です。

奇襲によって勝利した勾践は、呉の新王・夫差が兵を整え、薪の上に寝てその痛みで日夜越への復讐の思いを新たにしていると聞き、呉が襲撃してくる前にこちらから討って出ようと考えました。

すると范蠡がそれを止めてこう言います。

「戦争とは逆徳であり天が禁じているものです。先に戦いをしかけた方が天意に反して不利になります」

ところが勾践は范蠡の言葉に耳を貸さず出陣しました。

越軍に対し呉は精鋭を繰り出してこれを破り、勾践は会稽山に逃げ込んで呉軍に包囲されてしまいました。

勾践は范蠡の言葉を思い返して後悔し、どうしたものか范蠡に相談しました。

范蠡は「呉王に腰を低くし礼を尽くして財宝を贈りましょう。効果がなければ越王よ、御身を呉に差し出すしかありません」

勾践は范蠡の言葉を入れ、大夫の種(しゅ)を使者として講和に向かわせました。種は呉王夫差の前でへりくだり「越王勾践は、自らを呉王の臣下に、王妃は呉王の妾にしていただきたいと言っております」と言ったので、夫差はこの案を受け入れて勾践の命を助けようとしました。

すると呉の重臣・伍子胥が「呉王よ、それはなりません。天は越を呉に与えたのです」と呉王を諫めたので、越によるこの講和作戦は失敗に終わりました。

絶望する勾践に種は、「呉の重臣・伯嚭(はくひ)は欲深な男なので利で誘えばこちら側に落ちます」と言って、美女や財宝を伯嚭に献上する策を勧めます。

勾践はこの案を採用し、伯嚭に賄賂をたっぷりと贈るや、再び種を呉との講和に行かせました。

賄賂をもらって越側に落ちた伯嚭の口添えで、呉王は勾践の命を助ける方向に心が傾きますが、これに対して伍子胥は猛反対します。

「呉王よ、勾践は賢明な王であり、種と范蠡は優れた臣下です。勾践の命を助ければ必ず後の禍となりますぞ」

けれども夫差がその言葉を受け入れることはありませんでした。

復讐の誓い

勾践は命と引き換えに夫差の下僕となり、その2年後許されて越に戻りました。勾践は以後この屈辱を忘れまいぞと、そばに苦い肝を置いて腰を下ろすたびにそれをなめ、その都度「会稽の恥を忘れるな」とおのれを叱咤しました。

そして自ら田畑を耕し、妻は機を織り、1皿以上の肉は口にせず、身を屈して賓客を厚遇し、人民と苦労を共にしました。

勾践が范蠡に内政を任せようとすると彼はそれを辞退し、「国の政治なら種の方が優れております」と言って、自分は越の人質として2年間呉で過ごしました。

諫言に耳を傾ける越王と諫言を無視する呉王

こうして勾践は会稽の恥以来7年、人民を大切にし、士の士気を高め、呉への報復の時期を狙っていました。今にもいくさをせんとばかりに軍を整備する勾践に、臣下の逢同(ほうどう)が「今軍を整えては呉が恐れます。恐れさせれば国難が来ます。猛禽が小鳥を襲う時は身を隠すものです。今の呉王は斉や晋に出兵し、諸侯の間で名を高めようとしていますが、その実呉王は徳少なく傲慢です。越は斉や晋、楚と結び、呉とは鄭重に関わるべきです。斉、晋、楚に呉と戦わせ、呉の疲弊に乗じるなら越は呉に勝てるでしょう」と諫めました。

勾践はこれを聞くと「なるほど」と納得しました。

その2年後、呉王が斉を討とうとするので伍子胥が諫めました。

「呉王よ、越の勾践は肉を1皿にして人民と苦楽を共にしているそうですぞ。彼を生かしておくのは腹に病を抱えているようなもの。斉などほっといて、越に備えるべきです」

これに呉王夫差は耳を貸さず、斉を討ってこれを破り、斉の重臣を捕虜として呉に連れ帰り「どうだ、わしの能力を見よ!」と言わんばかり。

伍子胥は呉王のふるまいに何かと諫言するのですが、呉王はこれに耳を貸しません。伍子胥は「呉王は私の諫言を聞いてはくださらないが、このままでは呉はあと3年もすれば廃墟になるだろう」とこぼしました。

これを耳にした伯嚭は呉王夫差に「伍子胥には注意した方がよろしいかと。あいつは忠義ぶっていますが、今に反乱を起こすでしょう」と讒言しました。

夫差はこの讒言を本気にし、伍子胥に剣を賜わって自害を命じました。

伍子胥は笑ってこの剣を受け取り「呉王よ、わしはお前の父親・闔閭を覇者にしたやっただけでなく、お前のことも王にしてやったのだ。その恩も忘れ、つまらぬ下っ端の讒言を真に受けて死ねだと。よし、死んでくれよう。お前ひとりでこの国を引っ張っていくことなどできるわけがない」と言い、呉王の使者には「必ずわしのまなこをえぐって呉の東の門に置け。その目で越軍が入城するさまをとっくりと見てくれよう」と言うなり自決しました。

その3年後、勾践が范蠡に「伍子胥のいない呉にはもうおべっかつかいしかいない。そろそろ呉を討ってもよかろう」と聞くと、范蠡は「まだその時期ではありません」と答えました。

その翌年、呉王とその精鋭が呉を留守にし、国内には太子の他、老人、子供、女性しか残っていないという情報が入った時、勾践は同じことを范蠡に聞きました。すると范蠡は「よろしいでしょう」と言ったので、勾践は水戦に慣れた兵士を2千人、精鋭兵4万人など総勢5万の軍勢で呉を討ち、呉の太子の命を奪いました。

あわてて戻ってきた夫差は越に人をやり礼を厚くして和睦を求めました。勾践は越はまだ力量が足りないと思って和睦に応じました。

越が呉に勝利する場面
越が呉に勝利する場面。

越の完全勝利と呉王の処遇

その4年後、越は再び呉を討ちました。呉の精鋭部隊は斉や晋で戦死してしまっていたため、越は呉を打ち破ることができ、呉のみやこを包囲しました。

更に3年の月日を費やして越は呉軍を破り、呉王を山に追い詰めました。

呉の使者が身を低くして勾践の前にやってきて和睦を求めました。勾践はこれを受け入れようとしますが、范蠡は「会稽山のいくさの時、天は越を呉に賜ったのに呉は天に逆らってこれを受けなかったのです。今、天は呉を越に賜わろうとしています。王がこれまで頑張ってきたのもこの日のためでしょう。復讐を誓ってから22年ですぞ」と言いました。

こう言われても勾践は「お前の言うとおりだが、わしはあの使者が忍びない」と言うばかりなので、范蠡は陣太鼓を打ち、兵とともに使者の所に行って「越王はすでにまつりごとをわしに任せた。使者よ去れ!さもないと討つぞ」と言いました。

呉王の使者が泣きながら去ったので、勾践はこれを哀れに思って人を呉王の元に送り「呉王を領内の百戸の君として迎えよう」と言いました。越領の村の長にしようという申し出です。

呉王はこれを断り「私はもう年を取ったので、あなたに仕えることもできません」と言って自決しました。

自決の前には、あんなに諫言してくれていたのにそれを聞き入れずこのザマになったと「伍子胥に合わす顔がない」と言って、夫差は自分の顔を布で覆いました。

こうして越の勾践、呉の夫差の長い戦いは勾践の勝利、夫差の敗北をもって終わりを告げ、越王勾践は諸侯から覇王と称えられました。

ところで毎日苦い肝をなめてまで呉への復讐を誓い続けた勾践が、最後は夫差に情けをかけたのはなぜなのか。春秋の世という古代世界のいくさ観を反映しているのでしょうか?それとも数十年をかけて復讐を果たした後、憎しみはきれいさっぱり消え、一種の友情が残ったということなのでしょうか?

勾践の人となり

勾践の人となりについては伍子胥が「賢明な王」と評しています。

勾践に忠実に仕えた賢臣・范蠡は、呉討伐が終わった後、越から離れ、斉に行ってそこから同じく越の重臣として勾践を支えた種に以下のような手紙を送りました。

「飛鳥尽きて良弓隠れ、狡兎(こうと)死して走狗(そうぐ)煮らる(戦いが終われば、功臣は捨てられる)。越王は首が長く、口は鳥のようにとがっています。互いに艱難を共にすることはできますが、楽しみを共にすることはできません。あなたも越を離れてはどうですか」

種はこの手紙を読むと、病と称して越の宮廷に参内しなくなりました。すると「種は反乱しようとしている」と勾践に讒言する者がおり、勾践は種に剣を賜わって自刃を勧めました。種はそれに従って自害しました。

范蠡が勾践を見る目は正しかったのです。勾践という君主は目的達成のためには苦労に耐え仲間を大事にしますが、目的が達成されれば、優れた部下は優れているほどに邪魔になるのです。いつ自分に取って代わるかわかりませんから。

勾践の剣

越王勾践の剣
越王勾践の剣。

1965年湖北省の望山楚墓群の貴族の墓から「越王鳩浅(勾践を指す)自作用剣」(越王勾践が自分用の剣として作った)と銘が打たれた青銅製の刀剣が発掘され、今湖北省博物館に収められています。剣の長さ55.7センチ、柄の長さ8.4センチ、剣幅4.6センチで、表にはターコイズ、裏は青水晶で象嵌されています。春秋時代末に作られた武器としては高度なレベルにあり、「天下第一剣」と称えられています。

ちなみに越族が作る刀剣は当時から高い評価を得ていたそうです。

この刀剣のいわれについては2つの説があり、1つは勾践の娘が楚の昭王に嫁した時、嫁入り道具として楚に持っていき、楚王はそれをある貴族に贈り、こうして楚の貴族の副葬品になったというもの。もう1つの説はBC.309からBC.306にかけて楚が越に出兵した際に越から持ち帰り、上記と同様に最後は副葬品になったというものです。