樊噲の生涯【劉邦を守り項羽からも壮士と称えられた名将】
樊噲(はんかい)は沛の人で、後に皇帝になる劉邦がまだ無頼人にすぎなかった頃からのつきあいでした。劉邦最大の危機である鴻門の会での項羽・樊噲対面は、楚漢の戦いの歴史中最も魅力ある場面の一つです。樊噲の豪傑ぶりと忠義一筋の純朴さ、それを愛でる項羽の姿が想像されます。
目次
- 1. 樊噲とは
- 2. 樊噲と劉邦の出会い
- 3. 「鴻門の会」での樊噲
- 4. 楚漢戦争と漢王朝成立
- 5. 呂后の天下とその後
樊噲とは
樊噲(はん かい…?~BC.189)は、漢の高祖・劉邦と同じ沛の人で、若い頃は犬肉処理業をしていました。劉邦が秦打倒の旗揚げをする以前からの付き合いで、呂后の妹を妻とし、劉邦に終生忠義を尽くしました。対秦戦争のさなかに劉邦が関中に一番乗りし項羽に疑われた時、鴻門で和解を装った劉邦襲撃のための宴会が開かれました。宴席に乗り込んだ樊噲のすさまじい形相と気迫は項羽の心を打ち、酒や肉がふるまわれます。その隙に劉邦は無事逃げ出すことができました。
楚漢戦争が終わり、漢王朝が成立すると樊噲は左丞相という高い地位に就きました。病に倒れた劉邦が功臣たちを一切近づけないでいると、勝手に病床に近づいて涙ながらになじるなど、樊噲はその一途な忠義心が印象的です。
樊噲と劉邦の出会い
樊噲は劉邦と同じく沛(はい…江蘇省沛県)の出身で、犬肉処理業をしていました。
当時は秦の始皇帝の時代です。
ある時始皇帝が「東南に天子の気が漂っている」…すなわち反乱の兆しありとして、これを鎮圧しようとしました。劉邦はこれを聞いて、天子の気とは自分のことだと思い沢地に逃れました。この時樊噲も劉邦と行動を共にしました。
その後劉邦が打倒秦の旗揚げをして沛公になると樊噲もこれに従い、劉邦軍の先頭に立って活躍しました。
「鴻門の会」での樊噲
項羽軍が秦の本拠地の入り口・函谷関(かんこくかん…河南省にある有名な関所)に入ろうとした時、その配下にいた劉邦軍がすでに入っていた事を知り、劉邦への讒言(ざんげん)もあって項羽は劉邦を滅ぼそうとしました。
これを知った劉邦はあわてて100騎の兵のみ連れ、項羽の陣地・鴻門(こうもん…陝西省西安市臨潼区)に駆け付け、自分には天下を取る気はみじんもないと釈明しました。これが漢文の教科書にも出てくる「鴻門の会」です。
樊噲はここで印象的な活躍をしますが、これは日本の歴史でいえば安宅関で義経を守った弁慶の役回りで、この場面が歌舞伎などの名場面になっているように、鴻門の会もまた古来中国人なら誰もが知る名場面となっています。
項羽は宴席をもうけ、項羽の軍師・范増はその席で手下に剣舞を舞わせて劉邦暗殺を企てます。けれどももう一人の手下が同じく剣舞を舞い始め、こちらは劉邦を守ろうとします。
実は二人とも項羽の親族なのですが、一方は劉邦配下の張良に恩義を感じており、一方は軍師范増の命に従っており、ターゲットを狙うテロリストと、テロリストからターゲットを守ろうとする側が、宴席という舞台で緊迫の場面を繰り広げるのです。
項羽はそれを知っているのですが、劉邦を守ろうとする味方の動きを抑えようとはしません。項羽は智謀によって冷静に動くタイプではなく、いわば情(じょう)の人でした。
一人老軍師の范増のみ、「なぜ今劉邦を討たない!」と歯噛みをしていました。彼にはおそらく天下の勝敗を決するのはここだ、と見えていたのでしょう。
この危機に、劉邦配下の三傑(蕭何・張良・韓信)の一人張良が外に出て、樊噲に「ボス(劉邦)が危ない」と耳打ちします。
これを聞いて全身怒りの炎となった樊噲が門番を押し倒して宴席に突入します。
そしてすさまじい形相で項羽を睨みつけるのです。
項羽は、この後先考えない勇者がいたく気にいったのでしょう。「まあ座れ」と声をかけると「壮士である。酒を一斗(※当時の一斗は約3.4リットル)与えよう」と言って、樊噲がその酒をゴクゴク飲み干すと次に肉の塊を与えます。樊噲はそれを盾に載せ、刀で切ってその場で喰らいます。
項羽が「まだ飲むか」と聞くと樊噲は「わしは命など惜しくない。ましてや酒の一斗や二斗がなんだというのだ」と答え、「劉邦将軍は先に関中(かんちゅう…秦の本拠地)に入ったが、宮殿の宝物などまったく手をつけずに項羽将軍をお待ち申し上げていた。それをつまらぬ者の讒言などで命を奪おうとは、これでは悪逆非道な始皇帝と変わらないではないか」と言い返しました。
劉邦はこのゴタゴタのスキに「ちょっと厠(かわや)へ」と言うとスタコラ自分の陣地に逃げていき、命拾いをしたのでした。
項羽側の軍師・范増は「情けない若造どもだ。項羽将軍が天下を奪えないとしたなら、それを奪うのは劉邦だろう」と言いました。
そしてその後の歴史は范増の言うとおりになったのでした。まさにここが、項羽に吹いていた風が一気に向きを変えて劉邦に流れていく一瞬だった…といえるかもしれません。
それにしてもこの宴席における樊噲の登場は一幅の絵のようです。「壮士」たる者を一筆で描くなら、この場面における樊噲の姿でしょう。
一介のもと肉屋がこうして歴史の一場面に強烈な印象を残したのですが、彼は単細胞の鉄砲玉として人生を終えたわけではありませんでした。
楚漢戦争と漢王朝成立
項羽が秦を滅ぼして覇王を名のったのち、項羽と劉邦による楚漢戦争が始まりました。
樊噲は将軍となって項羽を防ぎ、項羽の滅亡に力を尽くしました。
劉邦が漢の高祖となったのち、樊噲は燕を平定し、左丞相になりました。
劉邦の妻・呂后の妹の呂須(りょしゅ)を妻とし、劉邦と呂后が彼に寄せる信頼は絶大なものがありました。
劉邦が病に伏し、自分に侍る宦官以外の誰とも会わなかった時、樊噲は勝手に劉邦の枕元に押しかけ、「陛下はあんなに勇敢だったのに、病に倒れると私たちとは何の相談もせず、宦官とだけ別れを惜しんでいる」と涙ながらになじりました。
これを聞くと劉邦は苦笑いして起き上がらざるを得ませんでした。
樊噲が呂后から信頼されていることに不満を持つ者が、「劉邦亡き後樊噲は、劉邦が最も寵愛する戚夫人とその子・如意を亡き者にするつもりだ」と讒言をし、これを真に受けた劉邦が樊噲を斬るよう陳平に命じました。陳平はとりあえず樊噲を捕縛し、斬ることはせずに長安に護送しました。長安に戻ると劉邦は亡くなっており、呂后は樊噲を釈放しました。
呂后の天下とその後
高祖・劉邦が崩御すると、呂后との間に生まれた息子が恵帝として第2代皇帝に立ちました。
恵帝が、母親・呂后の戚夫人に対するあまりに酷い仕打ちに打ちのめされ、政治を執ることができなくなると、呂后は幼い子供を傀儡として自ら政治を執るようになりました。
この時代に樊噲はこの世を去りました。
呂后が亡くなると、権勢をふるっていた呂一族がすべて滅ぼされました。樊噲の妻もその子も命を失いました。
『史記』を書いた司馬遷は、樊噲の孫と交友があり、この孫から樊噲が犬肉の屠殺人であったことや他の功臣たちの若い頃の話を聞かされたと書いています。
そして彼等は若き日、よもや自分たちが漢王朝の功臣となり、子孫の代にまで余徳を残すことになろうとは夢にも思わなかっただろうと述べています。