三略の内容と物語~黄石公が授けた伝説の兵法書~

三略

三略』(さんりゃく)は古代中国、周王朝の軍師・太公望(呂尚)が書いたとされる兵法書。劉邦に仕えた軍師張良が、黄石公という老人から授かったと『史記』に書かれています。

三略とは

三略(さんりゃく)とは兵法書の一つで、上中下の3巻から成り、文章の初めは多く「軍識いわく」で始まっています。の軍師・太公望呂尚が書いたものとされているのですが、太公望が生きた周代にはなかった「騎兵」や「将軍」などが登場し、後代の偽書といわれています。

『史記』には前漢の高祖・劉邦に仕えた張良(ちょうりょう…BC.251~BC.186 前漢の軍師・政治家)が黄石公(こうせきこう)という老人から授かったと書いてあります。

年表
年表。太公望は殷~周、張良は秦~前漢時代に活躍しました。

張良と黄石公の物語

司馬遷の『史記』(留侯世家)に、張良(「留侯」は張良のこと)が黄石公という老人から『三略』を授かったと書かれています。

張良は劉邦の天下取りを支えた優秀な部下ですが、父親は戦国七雄の一・の宰相でした。韓はのちに始皇帝に滅ぼされますが、張良は若き日にその怨みを晴らそうと、巡幸中の始皇帝暗殺を企てました。

物陰に潜んで始皇帝めがけて重さ72キロという大きな鉄槌を投げつけたのですが、車列の一部の車輪を砕いただけで始皇帝には当たらず、テロは未遂に終わり張良はその場から逃げ出しました。

秦朝のお尋ね者となった張良は、しばらく身を潜めていましたが、ある日隠れ家を出てぶらついていると橋の上でひとりの老人に会いました。

老人は自分の履物をわざと橋の下に投げると張良に向かって「拾ってきてくれ」と言います。張良は腹が立ちましたが、相手がヨボヨボの老人だったので我慢し、拾ってきてやると今度は「この履物をわしに履かせてくれ」と言います。張良がまた我慢をして履かせてやると「お前に教えてやりたいことがある。五日後の朝ここに来い」と言います。

黄石公と張良

そこで張良が五日後の夜明けに橋の上に行くと、老人はすでに着いていて「遅刻するとは何事だ」と怒鳴りつけ何も教えてくれませんでした。そしてまた五日後の朝ここに来いと言うのです。

こうして五日後の鶏鳴(けいめい)の時刻…午前2時ごろ…に橋の上に行ったところ、老人はやはり先に来ていて遅れた張良を怒鳴りつけました。そしてまた五日後に来いと言うので、五日後、今度は真夜中に家を出ると、果たして老人はまだ来ていませんでした。

しばらくして橋の上にやってきた老人は満足そうに一冊の書物を取り出し「これをお前にやろう」と言って手渡します。「これを読めばお前は必ず王たる者の師になれる。そして10年後には秦に対抗して立ち上がり、13年後には済北の穀城山のふもとで黄石を見ることになろう。この黄石こそ、わしじゃ。わしの今の姿は仮の姿にすぎん」と言って消えてしまいました。

黄石公が張良に三略を授ける場面

夜が明けてから張良がその書物を見ると、それが太公望の兵法すなわち『三略』だったというのです。

どう読んでも史実とは思えない仙人譚的ファンタジーで、『三略』が後世の偽作とされるのももっともです。ただ架空の名前を使って自分の思いを述べるという隠士的な生き方は、古来中国では好まれてきました。この本もそうしたものの一冊なのかもしれません。

ただ偽作というには昔から中国でも日本でも尊重され、中国兵法の最高峰と見なされている「武経七書」の1冊となっています。

『三略』の内容

『三略』の略は戦略の略で、内容は上略・中略・下略に分かれています。

『三略』は『六韜』同様、周代の太公望によって書かれた兵法書とされていますが、『六韜』が実戦的であったのに比べると、統治者向けの政治論、道徳論的です。

また『孫子の兵法』も老子の影響を受けているとされていますが、『三略』からも老子的なもの…たとえば論の展開が逆説的であるなど…が多分に伝わってきます。

『三略』からいくつか内容を紹介しましょう。

「得るも保つなかれ。居るも守るなかれ。抜くも久しいするなかれ。立つも取るなかれ」

(敵の財産を手に入れても独り占めするな。敵の領土に駐留しても長くいるな。攻撃がうまくいってもそれを長く続けるな。敵国が新しい君主を立てたらこれを討ち取ってはならない)…上略

「地を広めんとつとむる者は荒み、徳を広めんとつとむる者は強し」

(領土の拡張に励む君主はやがて自分の国を荒廃させ、徳を広げていこうとする君主は自分の国を強大にすることができる)…下略

日本への影響

日本へは8世紀の前半に上毛野真備(かみつけのまきび)が唐から持ち帰ったといわれています。

平安から鎌倉にかけて設立された「足利学校」(栃木県足利市にあった学校。室町から戦国にかけて日本の最高学府的存在。儒学易学、兵学、医学などを教えた)でも『三略』が教材とされていました。

戦国武将の北条早雲(ほうじょう そううん…1456~1519)は、『三略』の講義をした学者が冒頭の一句「それ主将の法はつとめて英雄の心をとり、有功を賞禄し、志を衆に通ず」(将軍たらんとする人物は、英雄の心をつかみ、功績を褒めてほうびを与え、自分の意志を人々に伝えなければならない)と言ったのを聞いただけで兵法の極意を得たと伝わっています。