武経七書【古代中国で書かれた著名な兵法書7冊の解説】

武経七書

武経七書」(ぶけいしちしょ)とは、中国の宋代に定められた武学の必読書のことで、有名な『孫子の兵法』や『六韜』など7冊が入っています。

武経七書とは

武経七書」(ぶけい しちしょ)とは、宋代に定められた武学の必読書で、「兵法七書」とも言います。

孫武の『孫子の兵法』(『孫子』とも)・呉起の『呉子』・尉繚(うつりょう)の『尉繚子』・呂尚の『六韜』・黄石公の『三略』・司馬穰苴(しば じょうしょ)の『司馬法』・李靖(りせい)の『李衛公問対』の7書を指します。

日本では徳川家康が関ヶ原の戦いの後まもなくこの7冊の兵法書を出版し、武士たちに学ばせています。

では以下にこの7冊の兵法書についてその概略を紹介します。

年表
『六韜』『三略』は周代、『孫子の兵法』『司馬法』は春秋時代、『呉子』『尉繚子』は戦国時代、『李衛公問対』は唐代に書かれたと言われています。

『孫子の兵法』

孫武によって書かれた『孫子の兵法』(『孫子』とも)は紀元前500年頃に書かれ全13編5500余字からなる兵法書で、日本では「孫子の兵法」と呼ばれています。

8世紀には日本に伝わり、戦国武将や江戸時代の武士たちに影響を与えました。現代でも特にビジネスマン向けの『孫子の兵法』解説書が多く書かれ人気を呼んでいます。

欧米では18世紀にフランス語抄訳が出ておりナポレオンが愛読したとも伝わっています。

現在でも中国やアメリカの軍事研究所などでは依然として研究の対象となっています。

孫子兵法は古代に書かれたとは思えないほど、戦争とその戦い方について人間の心理をよんだ冷静で緻密な論を展開しています。特にスパイを使った情報戦に重点を置いているのが印象的です。

『呉子』

呉子』(ごし)は戦国時代に呉起(ごき…生年不詳~BC.381 孫子と並び兵家の代表的人物)によって書かれた兵法書のことで、この時代、『呉子』は『孫子兵法』と並んでどの家でも読まれていたといわれています。

『呉子』の内容は『孫子兵法』とあまり変わらず、ただ『孫子兵法』より儒家的だといわれます。呉起本人は将軍として才能を発揮しましたが、その人となりは酷薄だったと『史記』に書かれています。

『尉繚子』

尉繚(うつりょう)の『尉繚子』とは、戦国時代の尉繚によって書かれた兵法書です。

『尉繚子』の特徴としては、軍事思想面では『孫子兵法』『呉子』『孫臏兵法』の内容とほぼ同じであり、違いとしては『尉繚子』は、秦の商鞅(しょうおう…BC.390~BC.338)と同様に、富国強兵策があってはじめて軍事強国になれると考えたところです。

『六韜』

太公望(呂尚)の『六韜』(りくとう)とは、呂尚(りょしょう…紀元前11世紀ごろの周の軍師。のちの斉の始祖でもある)が書いたとされる兵法書です。

「文韜・武韜・竜韜・虎韜・豹韜・犬韜」の6巻60編からなり、呂尚が文王や武王に兵法や政治について教えるという体裁をとっています。内容としては実戦に即した具体的な戦略などが書かれています。

日本にも古くから伝わり、大化の改新で有名な藤原鎌足や源義経が愛読したといわれています。

『三略』

黄石公の『三略』(さんりゃく)とは、前漢の高祖・劉邦に仕えた張良(ちょうりょう…BC.251~BC.186 前漢の軍師・政治家)が黄石公(こうせきこう)という老人から授かったという兵法書のことです。

上中下の3巻から成り周の軍師・呂尚が書いたものとされていますが、実は後世の偽書といわれています。内容は主として君主に向けた政治論です。

『司馬法』

『司馬法』は中国古代の代表的な兵法書で、春秋時代の斉の景公に仕えた司馬穰苴(しば  じょうしょ)の兵法を書いたものです。ちなみに司馬とは、古代五礼の一つ・軍礼を司どる官職名のこと。

ここに書かれている有名な言葉に「国大なりといえども、戦いを好めば必ず滅び、天下安しといえども、戦いを忘るれば必ず危うし」というものがあります。超大国でも君主がいくさ好きではいつか必ず滅び、平和だからといって軍事に無関心だと必ず危機に見舞われるという意味です。

もう一つ有名な言葉に「軍容国に入れば、すなわち民徳廃し、国容軍に入れば、すなわち民徳弱し」(軍の原理を国内に持ち込めば民の徳は失われ荒んでいく。国内の原理を軍に持ち込めば民の心は弱くなっていく)というものがあります。

国内の原理としては礼と文を重んじ、軍の原理としては法と武を重んじるべきであり、この両者は表裏一体のものである、と説いています。

『李衛公問対』

李靖(りせい)の『李衛公問対』は唐の太宗・李世民とその将軍・李靖(りせい…571~649)との問答によって構成された兵法書です。

兵法七書中の他の六書がおおよそ春秋戦国から前漢初期に書かれたのに比べるとずっと後の時代に書かれました。

唐代は異民族に対する防衛が大きな問題になっていました。

随末唐初、東アジアの大国は唐ではなく突厥(とっけつ)という遊牧民族集団でした。

李靖はこの突厥攻略に大きな戦果をおさめた将軍です。

突厥との戦いでは唐の諸将が次々と敗北する中、李靖軍のみ勝利をおさめ、匈奴と戦った前漢の李陵と並べて褒めたたえられました。

こうしたこともあって彼の兵法…たとえば「夷狄」(いてき…野蛮人)の軍事力を取り込んで夷狄を打倒する…などが、武経七書を編纂した宋代において評価されたともいわれています。

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