王昭君の生涯と後世の物語【西域へと送られた悲劇の美女】

王昭君

王昭君とは

王昭君とは中国四大美人西施王昭君貂蝉楊貴妃)の一人です。

日本では楊貴妃の名前はクレオパトラと並んで有名です。貂蝉ちょうせんも三国志好きな人なら誰でも知っているでしょう。西施になると知らない人も多いかもしれません。西施は春秋時代の人のため、中国では四大美人の最初に並びます。その次がここで紹介する前漢時代の王昭君です。知名度は一番低いかもしれません。もっとも四大美人の配列は出生順・中国の歴史または歴史物語への登場順で、美女ランキング順ではありません。

中国文化に少し触れたことのある方なら王昭君の名前は知らなくても、絵師に賄賂を渡さなかったということで醜く描かれ遠い西域に送られてしまった悲劇の美女の話は聞いたことがあるかもしれません。その悲劇の美女が王昭君です。

四大美人の生きた時代(年表)
四大美人の生きた時代(年表)。西施が春秋時代、王昭君が前漢時代、貂蝉が後漢~三国時代、楊貴妃が唐代の人です。

王昭君の人生

王昭君
王昭君。

では王昭君という美貌の女性の人生をたどってみましょう。

彼女は前漢の時代に今の湖北省興山県の庶民の家に生まれます。湖北省というと武漢を省都とする長江流域の町です。よほど美しい少女だったのでしょう。14歳の時に宮女として宮廷に入ります。

B.C.33年、王昭君が19歳の年、匈奴の単于ぜんうが漢の宮廷にやってきて、漢の王女を妻にしたいと願い出ます。匈奴…歴史の教科書によく出てきましたね。中央アジアの遊牧民族ですがトルコ系ではないかといわれています。

中国に新疆ウイグル自治区という地域がありますが、ここに住むウイグル人にはロシア人やトルコ人のような風貌の人がたくさんいます。匈奴もこうした顔立ちの人たちだったのでしょうか。

さて匈奴の単于とは匈奴の君主のことです。この異民族の君主が漢の王女を妻にしたいと頼みにきたというのです。

漢の匈奴対策

匈奴と漢はたびたび軍事衝突をしています。万里の長城もそうした異民族の侵入を防ぐために作られたものでした。漢王朝はこうした異民族対策として、宮廷の女性を異民族の君主に妻として与えるという政策を取っていました。これは漢のはじめに高祖・劉邦が匈奴との和平条件の一つとして、自分の娘を送ると約束したことに始まると言われています。つまり敵をなんとかしよう・敵対心を起こさせないようにしようとする融和政策です。

こうして匈奴に送り込んだ娘たちは最初は本当に実の娘、つまり王女(中国では「公主」と言います)でしたが、その後は一族の娘や帝の後宮の女性たちを、自分の娘として偽って送っていた例が多いようです。

王昭君はこうした政策のもと匈奴に、息子を一人生みますがそれからまもなく単于は亡くなり、別の子供が王位につき、王昭君はその王の妻になって二女をもうけます。

『漢書』の記録とうらはらな悲劇のヒロイン伝説

上記の話は『漢書かんじょ』という前漢の歴史書に書いてあるのですが、この本の記載からは王昭君が異国の地で敬意を払われて平穏に生きたことがうかがわれるのに、文学や演劇の世界ではなぜか悲劇のヒロインとして有名になり今日に至っています。

王昭君
王昭君。

『西京雑記』に書かれた王昭君伝承

肖像画

『西京雑記』という西晋の葛洪かっこうという人の編による書物に王昭君の伝承が書かれています。それによると王昭君が生きた時代の皇帝・元帝は画家の描いた肖像画によって後宮の女性を召し出していました。召されて男の子を産めばその子が皇帝になる可能性があるのですから、後宮の女性たちは何としてでも美しく描いてもらい皇帝の目にとまりたいと願います。そこで彼女たちは画家に賄賂をたっぷりと渡すのですが、王昭君だけはそうしたことをせず醜く描かれてしまいます。

匈奴の単于が宮廷にやってきた時、元帝はこの絵を元にして醜い王昭君を選んで単于に与えます。ところが実際に会ってみると大変な美女、そこで後悔するのですが、単于にはもう約束してしまいましたので仕方なくこれを妻として与えます。

有名な「絵師によって醜く描かれ、そのことで運命が変わってしまった女性」という悲劇の女性像がこうしてこの本によって生まれました。

なぜ悲劇なのかと言えば、西域(さいいき…中国のはるか西の果ての地域)という文明を遠く離れた夷狄(いてき…野蛮な異民族の地)に一人送られてしまう、ここにその悲劇性があるわけです。

まさに上から目線の中華思想(中国王朝は宇宙の中心であり中国は世界の中心である、という古代からあった文字通りの中国ファースト思想)から来た意識とも言えますが、それを置いても確かに気の毒ではあります。

顔立ちも異なり、言葉も通じず、衣食住などの文化にもほとんど共通点のない所に、親兄弟知人友人ひとりなく連れていかれるというのはどれほど心細かったことでしょうか。

後年描かれる、王昭君が西域に旅立つ絵からは彼女の不安、悲しみが伝わってきます。

王昭君が旅立つ場面
王昭君が旅立つ場面。

悲劇性を決定づけた『漢宮秋』

漢宮秋
漢宮秋。

この悲劇性を決定づけたのが元曲げんきょく漢宮秋かんきゅうしゅう』です。「元曲」とは宋代に始まり、元代に盛んになった中国式歌劇のことで、『漢宮秋』は元曲の有名な芝居名です。劇作家・馬致遠(1250頃~1321頃)の作。

ではざっとあらすじを追ってみましょう。

前漢は元帝の時代、後宮に美女が少ないというので、画家・毛延寿は帝の命を受け美女探しの旅に出ます。そこで出会った王昭君はたいへんな美少女でしたが、この画家から賄賂を求められ、貧しさからそのお金を出せなかったことで醜く描かれてしまいます

美しく描かれなかった王昭君は宮廷に入った後も元帝の目にとまることはなかったのですが、ある日元帝は城内を歩いている時に彼女が琵琶を弾いているところに出くわします。こうして王昭君は元帝の妃となり寵愛を受けるようになります。

このことを知った画家・毛延寿は自分の悪事がバレるのを恐れ匈奴に逃亡します。そこで単于に王昭君の美しい肖像画を見せ、この美しい妃を手に入れるようそそのかします。この策略にのった単于が漢を攻め、元帝に王昭君を差し出すよう要求します。元帝は泣く泣く愛妃・王昭君を彼に渡すのですが、彼女は匈奴に行く途中、黒河(エチナ河)に身を投げてしまいます。

なぜ悲劇として描かれたのか

こうして芝居の中の王昭君は史実とは異なり、匈奴に着く前に自殺してしまうのですが、なぜこのような虚構が作られたのか様々な論議をよんでいます。

王昭君のように遠い敵国に戦略的な道具として送られる女性は古来たくさんいました。悲劇的な人生を送った人もいたでしょうが、幸せな人生を送った人もいたことでしょう。

その中で史実からは特に悲劇性を感じられない王昭君だけが悲劇のヒロインとなっているのです。そしてこの物語はヨーロッパや日本にも伝えられています。

ある学者は、この作品が宋滅亡後の元で漢民族の劇作家によって書かれているところから、異民族の侵略から国を守れなかった宋末期の支配者たちのふがいなさへの当てつけ、批判として書かれたのではないかととらえています。

そういう狙いがあったとして読んでいくと、まさに売国奴であった画家の描き方や、王昭君の悲壮さが納得できます。

李白の詩『王昭君』

では最後に王昭君をうたった李白の詩を原文・書き下し文・現代語訳で紹介しましょう。

王昭君

李白の詩『王昭君』の原文

『王昭君』 李白

漢家秦地月

流影照明妃

一上玉関道

天涯去不帰

漢月還従東海出

明妃西嫁無来日

燕支長寒雪作花

蛾眉憔悴没胡沙

生乏黄金枉図画

死留青塚使人嗟

李白の詩『王昭君』の書き下し文

『王昭君』 李白

漢家秦地の月

流影明妃を照らす

一たび玉関の道に上り

天涯去って帰らず

漢月はた 東海より出ずるも

明妃は西に嫁して来たる日なし

燕支えんしとこしえに寒くして 雪は花となり

憔悴して 胡沙こさに没す

生きては黄金に乏しくげて図画せられ

死しては青塚せいちょうをとどめて人をしてなげかしむ。

李白の詩『王昭君』の現代語訳

『王昭君』 李白

漢代に長安を照らした月

流れる月の光は明妃・昭君を照らす

ひとたび玉門関・シルクロードの関を越えるや

彼女が再び戻ってくることはなかった

漢代の月はまた東の海から昇るが

明妃・昭君は西域に嫁して二度と戻ることはない

ルージュを産す燕支の山は永遠に寒さに閉ざされ

雪は舞い降りて花のよう

美しい眉はやつれて蛮族の砂漠に没した

生きていた時は貧しかったことで美貌を描かれず

死んでは青塚とよばれる墓を残し見る者を嘆かせる

王昭君

王昭君のお墓がなぜ「青塚」と呼ばれるかというと、他の草が白くなる時期にこの墓に咲く草だけは青々としているからだそうです。

王昭君のお墓は内モンゴルのフフホトにある以外にも複数あるのですが、それらのうちどれが本当の王昭君の墓なのか、考古学の発掘調査や研究成果を待っている段階だそうです。