韓の歴史【古代中国・戦国時代に秦に滅ぼされた小国の歴史】
韓は趙、魏とともに、春秋時代の大国・晋の王権を奪ってできた国です。戦国七雄の中では最も弱く、絶えず秦の侵攻に脅かされ、秦王、後の始皇帝による六国平定でも真っ先に滅ぼされています。韓の公子・韓非子は、弱い祖国をどうしたら強くできるかを考えて『韓非子』を著しました。
目次
- 1. 韓とは
- 2. 晋の分裂と三晋の誕生
- 3. 名宰相・申不害
- 4. 法家の大成者・韓非子
- 5. 張良と始皇帝暗殺未遂
韓とは
韓(BC.403~BC.230)は、趙・魏とともに晋を乗っ取ってできた国で、現河南省・山西省・陝西省それぞれの一部を国土としていました。 戦国七雄の中では最も弱く、隣国・秦の侵攻に絶えず怯えていました。その歴史の中で、宰相で法家の申不害は内政、外交ともに成果を残し、秦の改革に貢献した商鞅と並び称されています。また後の時代の韓の公子・韓非子は秦に脅かされる国を憂いて、国家を強くするための方法を『韓非子』にまとめ、法家の大成者となりました。彼の思想は韓では受け入れられず、皮肉にも秦の始皇帝に絶賛されて、始皇帝の政策を推し進める思想的支柱となりました。韓は戦国七雄の中で真っ先に秦に攻め滅ぼされました。
晋の分裂と三晋の誕生
戦国時代の象徴的な事件である晋の分裂は、春秋時代の末期、晋の臣下である有力氏族(しぞく)間の権力争いから始まりました。この抗争でいくつかの氏族は滅び、六卿といわれる氏族が力を持つようになりました。
范氏・中行氏・趙氏・智氏・韓氏・魏氏の六氏です。
この六氏のうち智氏の智文子(ちぶんし)が魏氏・韓氏・趙氏と手を結んで中行氏を滅ぼし、さらに范氏も滅ぼして、この両氏の土地を4氏で分けました。BC.497のことです。
范氏・中行氏が滅んだ後、晋では智氏・魏氏・韓氏・趙氏が権力を思うままにふるまっていました。
これに対して晋の君主である出公(しゅつこう)は彼らに対して武力攻撃をしかけるのですが敗北。智氏の智瑤(ちよう)は初め晋の哀公を傀儡君主にするのですが、やがて自分が君主の地位につこうと考え、まず魏氏・韓氏・趙氏に土地の割譲を求めます。
魏氏・韓氏はこの要求を飲みますが、趙氏は拒否。このため智瑤は魏・韓とともに趙を攻撃します。趙は敗北寸前で魏・韓に寝返るようもちかけ、魏・韓はこれに同意、魏・韓・趙はBC.453に智を攻撃、滅ぼしました。
その後智の土地は魏・韓・趙によって分割され、BC.403東周の威烈王は趙・魏・韓を正式な諸侯国と定めました。いわば下克上を認めたわけで、このできごとの起きた年、BC.403をもって戦国時代とする時代区分もあります。
この趙・魏・韓は三晋とも呼ばれています。
名宰相・申不害
韓は、戦国七雄と呼ばれる戦国時代の大国の中で最も弱く、強大な西の隣国・秦の侵攻に絶えず怯えていた国でした。国として輝いた時期のほとんどない韓ですが、その中で二人の人物がこの地味な国に花を添えています。
一人は申不害という韓の宰相で、彼が宰相をしていた時期の韓が国家として最も力のあった時代でした。
申不害は法家で、同じ法家である秦の宰相・商鞅と並べ「商申」と呼ばれることもあります。宰相として手堅い政治を行い、内政・外交ともにまずまずの成果を残しました。
法家の大成者・韓非子
もう一人は韓の公子である韓非子(かんぴし…BC.280?~BC.233)で、秦が取り入れた法家思想の大成者となりました。
彼は絶えず秦に脅かされる韓の現状を変えたいとその方法を『韓非子』にまとめました。国家を強くするには君主が絶対的な力を持って法を整備し、富国強兵を図るべきだと韓非子は訴えました。
皮肉なことに彼の主張は母国・韓では受け入れられず、韓を脅かし続ける秦の王・政…のちの始皇帝によって評価されました。秦はこの韓非子の思想によってさらに強大化し、戦国七雄の中で韓は真っ先に秦によって滅ぼされてしまいました。韓非子自身もその才能の高さを恐れた秦の宰相・李斯(りし)によって命を奪われました。
張良と始皇帝暗殺未遂
前漢を打ち建てた劉邦の参謀・張良(ちょうりょう)は韓の宰相の家柄でした。
その韓を秦によって滅ぼされたのですから彼の怨みは深く、張良は弟が亡くなっても葬儀をせずに、家財を売って刺客を探し、始皇帝暗殺を企てました。
張良は東に行って力士に重さ30キロの鉄槌を作らせ、始皇帝巡幸の際に車列に鉄槌を投げつけましたが、始皇帝の乗る車からははずれ、暗殺は未遂に終わりました。始皇帝は激怒し、犯人を捜させましたが見つかりませんでした。
強すぎた秦はその強さゆえに、韓だけでなく諸国の人々の怨みを買いました。こうしたことの延長上に、統一からわずか20年での秦の滅亡がありました。