甲骨文字(甲骨文)~亀の甲羅や動物の骨に刻まれた最古の漢字~

甲骨文字(甲骨文)

甲骨文字とは

甲骨文字(甲骨文とも言います)とは、殷の王朝によって占いをした内容を亀の甲羅や獣の骨などに刻んだ文字のことです。殷代といえば紀元前17世紀から同11世紀末くらいの遥か昔の王朝です。この時代の文字が刻まれた亀甲や獣骨のかけらが発見されたのは1899年、清朝末年のことでした。日本でいうと明治30年代の頃です。こうして歴史のかなたに埋もれていた甲骨文字は3千年の時を超えて現れたのでした。

甲骨文字
甲骨文字-1。
甲骨文字
甲骨文字-2。

甲骨文字の発見と殷墟

亀甲文字や獣骨に刻まれた模様がなぜ漢字の祖先だとわかったのか、今から百年以上も前のことですが面白いエピソードが残っています。

当時河南省安陽の村の農民たちが土地を耕していると土の中からしばしば記号のような模様が刻まれた骨のかけらが出てきました。彼らはこれに「竜骨」と名づけ、漢方薬の原料として安く薬屋に売り生活の助けとしていました。

1899年のある日、清朝の国子監(こくしかん 当時の最高学府)祭酒(長官)であった王懿栄(おう・いえい)の食客(しょっかく・しょっきゃく 身分の高い人が才能があると見込んだ人物を客分として養い、その代わりに何かの時には力になってもらう。戦国時代以降広まった風習で、この才能ある居候的人物をこう呼ぶ)・劉鉄雲は古代文字に詳しく、瘧(おこり マラリアに似た熱病)の薬として薬材店から買ってきたこの「竜骨」に古代文字のようなものが刻まれていることに気づきました。その後王懿栄とともにこれの収集と研究に努めた彼はこれは殷代の文字であると直感します。この骨片が出たことで後に発掘された河南省安陽の村は殷の時代の首都であったことがわかり「殷墟」(いんきょ)と呼ばれるようになりました。近年までにここから発掘された甲骨は15万片、4500ほどの記号が見つかり、そのうち1500以上の単語が解読されています。

殷墟
殷墟。

甲骨文字と殷代の占い

殷の王朝(最近はこの王朝名を「商」と呼ぶことが多いのですが、「殷」と「商」のどちらが正しいのか、学者によっても意見が分かれます。ただし甲骨文字の出た「殷墟」を「商墟」と呼ぶことはありません)では、亀の甲羅や牛の骨の裏面を焼くことで表面にヒビを入れ、このヒビの形で王の行為や自然現象について、神の意志を問うことを目的として占いました。占った後、その内容や結果をヒビのそばに刻み付けました。この刻み付けられた文字が甲骨文字…漢字最古の文字です。

ところで占いに使うヒビですがこれは人為的に作れるものでした。そうすると占いは形式的なもので、政治に占いが利用されていたというのが真相だったようです。

甲骨文字と『史記』の記載が一致

さて王懿栄という清朝のいわば文部科学大臣の家で食客をしていたという劉鉄雲はこれが殷朝・中国最古の王朝のものだと直感するのですが、その後これは証明されていきます。

一つは甲骨文字が出てきた場所が殷墟…殷朝の首都だった場所であること。

次にそこに刻まれた文字のうち、司馬遷の『史記』の第3巻にある「殷本紀」に出てくる王と同じ名前がたくさん見つかったのです。このことは『史記』の記載もまたほぼ史実だということを意味し、こうした証明法を「二重証明法」と言うそうです。夏・殷(商)・周王朝は長く神話か伝説と思われており、2千年前に書かれた『史記』も史実かどうか疑わしく思っていた人も多かったでしょうから、この二つが史実だと証明されたことは実に画期的なことでした。

甲骨文字と殷代の王の名前

『史記』に書かれている「殷王の系譜」を甲骨文からわかる事実に照らし合わせて書かれた研究書に『殷代王室世系図』(1952年・董作賓著)があります。これを見ると王の名前の末尾に干支(えと・かんし)の十干(じっかん)が用いられていることがわかります。

中国の神話に「昔太陽は10個あった」、それを后羿(こうげい)が射落として1つにしたという話があります。秦から漢にかけて成立した『山海経』(せんがいきょう)という地理書に載っている話です。

甲骨文の研究の中に、殷の王室は10個の分家から成っていて、各分家はこの10個の太陽それぞれの末裔と考えていたのではないかという説があります。10個の太陽神話はここから来ているのかもしれません。

荒唐無稽なホラ話のように思えた古代神話や今も使われる十干(たとえば2018年の干支のうち、十二支は戌・いぬ、十干は戊・つちのえ)について、甲骨文字の発見や解読・研究の深化からその由来や起源が見えてくるというのは実に面白い話です。

甲骨文字の構造

漢字は象形・指事・会意・形声の4つのパターンで作られていますが、甲骨文字にはすでにこの4パターンが出そろっており、この時期漢字の基礎はすでに完成していたことがわかります。また文法もいわゆる漢文と同じであり、甲骨文は漢文の書き下し文で読んでいくことができます。

甲骨文字→金文→篆書→隷書→楷書と字体の変化を見ていくと、甲骨文字の段階では文字というより絵のようです。甲骨文字が発見されて百年あまり、研究者たちの懸命な努力によって解読・解明されていくわけですが、この「絵」をよく読み解いていけたものだと思います。これは一つに清朝の時代には「金文」研究が盛んになされていて、その基礎があってこその解読・解明だと言われています。王懿栄も劉鉄雲も金文に造詣の深い知識人でした。

漢字の歴史
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金文
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