龐涓【謀略を巡らすも敗れ魏の衰退を招いた将軍の生涯・地図】

龐涓

龐涓ほうけんは古代中国・戦国時代の武将です。孫子の兵法で知られる孫武の子孫・孫臏そんぴんとともに鬼谷子きこくしに学びました。孫臏の才能に嫉妬して足切りの刑に遭わせますが、後に馬陵の戦いで孫臏軍に敗北し自刎しました。

龐涓とは

龐涓(ほう けん…?~BC.341)は中国戦国時代(BC.403~BC.221)の魏の武将です。孫子で知られる孫武の子孫・孫臏(そん ぴん)と共に鬼谷子に学びましたが、龐涓は孫臏の才能に嫉妬し、その結果孫臏は膝蓋骨を削りとるという酷い刑に処されることになりました。

戦国時代初期の地図
戦国時代初期の地図。龐涓は魏の武将でした。
年表
年表。龐涓は戦国時代に活躍しました。

臏刑とは

「臏刑」…孫臏(そん ぴん)の「臏」の文字を使った刑罰とは「膝蓋骨を切り取る刑」のことです。孫臏はまさにそうした刑罰を受け、その結果生涯歩けなくなりました。

「膝蓋骨」は「しつがいこつ」と読みますが、膝頭のことで、膝のお皿などともいいます。

孫臏は同窓である龐涓に図られて、そうした刑罰を受ける羽目に陥ったのですが、龐涓はなぜそんな酷いことを孫臏にしたのか。そこには嫉妬がありました。

龐涓と孫臏

龐涓と孫臏は共に鬼谷子に学ぶ同窓でした。鬼谷子には四人の高名な弟子がいましたが、一人は臏刑に処され、もう一人は車裂きの刑に処されました。前者が孫臏、後者は蘇秦(そしん…戦国時代の遊説家)です。

孫臏はなぜ臏刑に処されたのか、そこには以下のような出来事がありました。

龐涓は同窓の孫臏より一足早く鬼谷子の籠る山から下りていました。その後魏の国に行った龐涓は鬼谷子に学んだことが評価されて、魏の将軍に封じられました。

その後孫臏もまた山から下りて龐涓を頼ると、孫臏の才能を認め嫉妬していた龐涓は、彼を魏の国に置いておけばいずれ自分の地位が奪われるだろう、といって他の国に行かせれば手ごわい敵になるだろうとあれこれ思案し、その結果龐涓は孫臏を陥れ、臏刑に処させてその両足を斬り、顔には入れ墨を入れさせました。

その後、の使者が魏にやってきた時、臏刑に処せられていた孫臏は密かに斉の使者に会い、この使者と共に魏から脱出して斉に向かいました。孫臏は斉の国で将軍・田忌(でん き)に会い、その才能を見抜かれて斉の軍師となり、龐涓に復讐するチャンスを待ちました。

BC.354年、魏の恵王の命で龐涓は趙を攻撃し、邯鄲を包囲しました。趙は斉に救援を求め、斉の威王は部下の策を採用して、兵を二つの道に分け、一方では魏の襄陵を攻め、一方では田忌と孫臏に趙を救援させました。孫臏は「魏を包囲して趙を助ける」戦術を採り、魏の首都・大梁(現・開封)を攻撃して、魏軍の追撃を誘いました。斉軍は桂陵(現・河南省長垣)で待ち伏せして魏軍を大敗させ、龐涓は斉の捕虜となりました。これを桂陵の戦いと呼びます。

桂陵の地図
桂陵の地図。

その後、魏の恵王は急いでと連合を組み、襄陵で反攻に出ました。これが襄陵の戦いです。こうして斉軍は敗れました。斉は蘇の大将・景舎に調停を頼み、まもなく魏の恵王は趙の成侯と手を組み、魏軍は邯鄲から撤収し、斉も兵を退却させました。孫臏は龐涓を釈放して魏に帰しました。

BC.342年に魏は韓を攻め、翌年、斉が韓を助けようと孫臏の策を採用します。

孫臏は再び「魏を包囲してを助ける」戦術を採り、魏の都・大梁を襲撃します。

龐涓はあわてて韓から兵を撤退させて魏に戻りましたが、斉軍はこの時すでに西に向かって進軍していました。孫臏は敵を誘い込む戦術を採り、「増兵減竈」の計を用いて、魏軍を待ち伏せることにしました。「増兵減竈」とは「兵を増やしてかまどを減らす」という意味です。

孫臏は魏の領土内に入った斉軍に10万のかまどを作れと命じ、翌日はそれを5万に減らし、三日目は3万に減らしました。龐涓は斉軍の残したかまどを見て、「斉軍は臆病だと思っていたが、魏に侵入して三日しか経っていないのに、斉の兵士はもう半分以上逃亡した」と喜びました。龐涓は歩兵を残すと、精鋭の騎兵のみ率いて斉軍を追撃しました。

孫臏は龐涓軍は夜のうちに馬陵まで進むだろうと計算し、馬陵の道が狭く両側には険しい山がそびえているのを見て兵士にこう命じました。

「道端の大木の樹皮を削り取り、白木をむき出しにさせて、そこに『龐涓はこの木の根元で死ぬ』と書け」

孫臏は更に一万の弓兵に馬陵道の両側で待ち伏せをさせ、「夜闇の中ここに火の明かりが見えたら万の弓矢を一斉に放て」と命じました。

龐涓は果たしてその夜、樹皮が剥かれた大木に文字が書かれているのを見て、火を近づけてよく見ようとしましたが、まだ読み終わらないうちに斉軍の伏兵が一斉に弓矢を放ち、魏軍は大混乱に陥りました。龐涓は自分の敗北を知り、剣を抜き「とうとうあの青二才めに名を成させてしまったか」と言うと自刎しました。

龐涓の自刎後も孫臏率いる斉軍は追撃の手をゆるめず、魏軍十万をせん滅しました。この戦いで魏の勢いは衰え、やがて斉が東方に覇を唱えるようになりました。これを「馬陵の戦い」といいます。