張騫の生涯と歴史地図【西域への旅を繰り返した武将】
張騫(ちょうけん)とは古代中国の前漢時代、武帝に仕えた外交官であり将軍でもあります。武帝の命で当時漢にとって未知の世界であった西域に出かけ、途中匈奴に2度もつかまりながら、13年の歳月をかけて無事長安に戻ってきました。
※上の画像は敦煌(とんこう)にある張騫像。
目次
- 1. 張騫とは
- 2. 武帝の時代の北アジアと西アジア
- 3. 張騫、月氏に派遣される
- 4. 武帝の西域への強い関心
- 5. 張騫、罪に問われる
- 6. 再び西域へ
- 7. 張騫の成果と評価
張騫とは
張騫(ちょう・けん…?~BC.114)は前漢武帝の役人として、それまで中国ではよく知られていなかった西域(中国の西に位置する国々の総称)を正式に探検し、後に「中国のコロンブス」と呼ばれるようになりました。
匈奴と攻防を繰り広げていた武帝は、西域の月氏と共に匈奴を挟撃しようと、当時場所もはっきりしなかった西域の月氏に張騫を派遣します。13年かけた張騫の月氏行は実を結びませんでしたが、その土産話に武帝は西域への興味をかき立てられ、再び張騫を使節として西域に派遣します。その後張騫は将軍として対匈奴戦に参加しますが、作戦に遅れたことで罰を受けます。この挫折の後再び西域に派遣され、この時は副使たちがインドなどにまで足を向け、前漢と西域諸国との関係はこうして広がっていきました。
武帝の時代の北アジアと西アジア
前漢の第7代皇帝・武帝(ぶてい…BC.156~BC.87)の在位はBC.141~BC.87の57年間。武帝は前漢に黄金時代をもたらしたといわれています。
武帝はわずか16歳で即位しました。
当時漢と外交関係のあった匈奴は漢の北方・北アジアに強大な勢力を誇っており、漢の初代皇帝である高祖・劉邦は匈奴と戦って敗北し屈辱的な和親条約を結んでいました。
武帝以前の皇帝はいずれも匈奴には低姿勢でこれを遇していましたが、若き皇帝は異民族とのこうした屈辱的な関係に憤懣を抱いていました。
漢がいくら低姿勢で相手を刺激しない策を採っても、匈奴はしばしば国境を越えて漢への侵入を繰り返し、漢の人民をさらったり物資の略奪をやめようとはしませんでした。
匈奴討つべし!
武帝には覇気があり、またこの時代の漢には匈奴と武力抗争をする上で充分な財源もありました。
武帝は寵愛する衛子夫(えいしふ)の弟である衛青や、その甥の霍去病(かくきょへい)などを将軍に取り立て、匈奴討伐の夢を彼らに託しました。
衛青も霍去病もその期待にみごと応え、匈奴との戦いでは何度も勝利して、北アジアや西アジアの雄・匈奴の勢いを止めました。
張騫、月氏に派遣される
ある時匈奴の捕虜が漢側に耳よりの情報を伝えます。
「匈奴が隣国の月氏(げっし)を滅ぼし、その王の頭蓋骨で酒器を造ったため、北から西方に追いやられた月氏はこれを恨んで、ともに手を組んで匈奴を挟み撃ちにする相手を求めている」というものです。
武帝は我が意を得たりとこの話に目を輝かせました。西の月氏国に人を送って、ともに匈奴を討つべく話をつけさせよう。
当時中国の西は未知の世界であり、漢と西域の間には道があるのかどうかもはっきりわかっていません。ここを目指して旅をするのは文字通り命がけでした。
そこでこの任務を引き受けてくれる者を募ると、下級役人の張騫が手を挙げ抜擢されました。武帝は張騫に100人ほどの部下をつけ、こうしてBC.139張騫は部下とともに出発します。
匈奴の捕虜となる
西域の月氏国に行くには途中匈奴の放牧地を通らなければなりません。そこに100人を超える張騫一行が通ったわけですからたちまち匈奴に捕まってしまいました。
張騫たちは単于(ぜんう…匈奴の君主)から尋問を受けます。「月氏国に行こうとした?月氏国は我が領土の北にある。南にあるお前たちの国の人間をそんな場所に行かせることができるか!それではまるで挟み撃ちにしてくださいと頼むようなものではないか」と言って張騫らを捕虜にしましたが、命を奪おうとはしませんでした。
匈奴は漢人をつかまえるとその中の優秀な人物は優遇して利用していたのです。
張騫もまた優遇され匈奴の女性を妻として与えられ、子供も生まれました。
こうして10年以上の月日が経ちましたが、その間張騫は漢の使節であることとその目的を片時も忘れませんでした。
脱出
10年の年月が経てば匈奴の監視もゆるんできます。張騫らは計画を練ってチャンスを待ちました。
そしてとうとうその日が来ると、妻と数人の同志を連れて脱出し、馬を駆って懸命に西を目指しました。
それから数十日の後大宛(フェルガーナ)にたどり着き、ここで大宛の王から歓待を受けます。
張騫は「私を月氏国に送り届けてくだされば、漢の王はあなたに財物をたっぷりと贈るでしょう」と頼みます。
前々から漢と交易をしたいと思っていた王は快諾し、馬と通訳をつけて康居(こうきょ…西域の遊牧国家)に送り、康居が張騫たちを大月氏国に送り届けました。
当時匈奴に滅ぼされ分裂した月氏の一部は、西に移動して大月氏国を新たに建てていました。
大月氏国
月氏国は西に移動して大月氏国になると大夏(バクトリア)という地味豊かな国を征服し、匈奴への恨みなどすっかり忘れていました。
そこに漢から張騫一行がやってきたのですが、漢と大月氏国で匈奴を挟み撃ちにしようという張騫の提案に彼らは乗りませんでした。
そこで約1年後張騫は失意のまま帰国することになりました。
再度匈奴の捕虜となる
匈奴に捕まらないよう用心して帰国のルートを決めたのですが、張騫の一行は匈奴に再び捕まり又もや捕虜となってしまいました。
それから1年後、時の単于が亡くなると匈奴に内乱が起こりました。
その隙に張騫は匈奴人の妻と漢から行動を共にしてきた従僕一人を連れて脱出し、やっと故国に戻りました。
100人余りの従僕はたった一人になっていました。BC.126のことです。
13年ぶりの帰国
任務を果たせないまま13年ぶりに帰国した張騫は、太中大夫(たいちゅう たいふ)という役職につき、その下僕も取り立てられました。13年という長きに渡って使命を全うしようとしたその忠誠心や命がけの冒険に武帝も胸打たれたのでしょう。
その後武帝に呼び出された張騫は西域の情報を詳しく報告しました。
張騫によって語られた西域の話は武帝はじめ漢の上層部の役人たちを魅了しました。
西域の人々は漢とは民族も文化も異なります。防衛や経済上のメリットも魅力があったでしょうが、異国情緒というものにも惹きつけられたに違いありません。
武帝の西域への強い関心
武帝は大宛(フェルガーナ)の名馬や西域の物珍しい物品の話に、西域諸国との交易への関心をかきたてられました。
さらに張騫から西域の人々が、漢の物品、特に竹や絹を尊んでいるという話を聞き、防衛面でも経済面でも関係を深めることのメリットの大きさを考え、さっそく張騫を団長として西域の国々への使節団を出すことにしました。
ところがこの試みは中国の西に住むさまざまな異民族の妨害などに遭って、結局は失敗に終わりました。
張騫、罪に問われる
その後張騫はBC.121に将軍として対匈奴戦に向かいますが、李広将軍との合同作戦に遅れた罪を問われ、命と引き換えに庶民の身分に落とされてしまいました。
この時期、漢は対匈奴戦で勝利を続け、匈奴の弱体化に成功していました。
オルドスや河西地方が平穏になったことで武王はいっそう西域への関心を深め、そこで再び張騫を呼んで話を聞きました。
武帝は西域との交易を進めたいと思い、張騫を西域の烏孫(うそん…トルコ系とみられる遊牧国家)に派遣することにしました。
再び西域へ
武帝は庶民の身分に落とされていた張騫を中郎将に命じ、副使300人や膨大な土産物を持たせ大使節団を烏孫に派遣しました。
今回の旅は匈奴が追い払われていたので、匈奴に捕まることなく無事烏孫に到着しました。
さらには一行の副使たちに莫大な贈り物を持たせて、それぞれを周辺諸国の大宛、康居、大月氏、大夏、安息、身毒(インド)などにまで派遣させました。
この旅の目的は烏孫国を河西回廊にまで招き寄せ、対匈奴戦に利用しようとすることでしたが、烏孫ははっきりした返事をせず、この目的は達成できませんでした。
この旅から帰ると張騫は高い地位を与えられましたが、それから1年ほど後に病没しました。
張騫の成果と評価
張騫の冒険旅行はいずれも初期の目的は達成できませんでしたが、その冒険によって漢は西域という新しい世界と出会うことができました。
さらにはこれをきっかけに西域との交易…すなわち東西の交流が発展していきました。
張騫は身体が大きく人を信頼するおおらかな人で、異民族にも愛されたそうです。
匈奴から与えられた匈奴人の妻を2度の脱出行にも伴い漢に連れ帰ったことからは、情の深さがしのばれます。
西域への旅の苦労に比べて、張騫が得た世俗的な名誉や地位は大したことがありませんでした。
が、張騫が名のった博望侯という名は西域諸国でもよく知られ、張騫後、中国の西域への使者は西域諸国の信用を得るためにしばしば博望侯を名のりました。張騫の誠実な人柄は西域で評価が高かったということでしょう。