史記の内容と解説~神話の時代から前漢までの偉大な歴史書~

史記

史記』とは古代中国の歴史書で、正統な歴史書として認められている正史24書のうち最初に書かれたものです。前漢武帝に仕えた司馬遷によって書かれました。

先秦時代から前漢初期までが紀伝体というスタイルで書かれた通史で、後の歴史書に大きな影響を与えました。登場する歴史的人物が深い洞察をもって書かれており、単なる歴史書の枠を超え、偉大な文学でもあります。

史記とは

司馬遷像
司馬遷像。

史記(しき)とは、司馬遷によって書かれた歴史書で、黄帝から前漢武帝までの通史です。元は『太史公書』という書名でしたが、魏や晋の頃から『史記』と呼ばれるようになりました。

中国には世界でもダントツに多い歴史書がありますが、『史記』はそれらの中で最初の正史…国家が認めた正統な歴史書…です。いわば非常に権威ある歴史書のトップバッターですが、その作者・司馬遷の悲劇的な人生と相まって、一般の人々とは距離のある権威ある古典というより、現代人の心にも訴えかけ響いてくる魅力をもった書物となっています。

年表
年表。『史記』では神話時代の黄帝~前漢までが書かれています。

この書が書かれたのは今から2000年以上前のことですが、読んでみると不思議なほどこの時間の隔たりを感じないのです。

司馬遷は、ともに前漢の武帝に仕えた同僚の李陵をかばったために死刑を宣告され、父の遺志を継いで『史記』を完成させるために、宮刑といういわば人間界から放逐されたような刑を受け入れ、宦官になることで命を長らえました。お金があればそのような刑を受けずとも死刑を免れることはできたのですが、司馬遷にはそうしたお金がありませんでした。

屈辱や周囲の侮蔑の中で『史記』を書き、その完成のためだけに生きるという苦悩は、友人への手紙『任少卿に報ずる書』に事細かく書かれていて、2000年後の人間が読んでも胸が痛くなるほどリアルです。

「腸は一日に九たびめぐり(略)この恥をおもうごとに汗いまだかつて背に発して衣をうるおさずんば非ざるなり」…この刑を受けた屈辱を思えば腸が一日に何度もねじれるようで、背中には汗がにじんで着物を濡らします…。

司馬遷はこうした苦悩をかかえながらも、不幸の中で著作した文王孔子屈原などを思って自分を奮い立たせます。心の痛みから一日に腸が何度もねじれるような肉体的苦痛を感じ、汗が衣を濡らすたび、苦しみこそが優れた書を生むのだと自分を励ましたのです。

この人間のリアルが、『史記』をして距離のある単なる古典ではなく、2000年経とうが変わることのない人間の苦悩に直接響く特別な書にしているのでしょう。

日本では今も中国に題材を採った歴史小説が数多く書かれていますが、『史記』を題材にしたものも多く、『史記』人気のほどがわかります。これも現代の書き手が司馬遷の語りから、自分に響いてくるものを感じているからでしょう。そしてそれがまた現代に生きる日本人読者の心に響くのです。『史記』の生命力、感化力おそるべしです。

『史記』とはそのような書物です。

『史記』の特殊性は、その後『史記』の影響下に書かれた『漢書』や『後漢書』と違って、時の王朝を賛美するためのものではなかったことにも表れています。

『史記』「秦始皇本紀」で描かれた始皇帝が生きた秦王朝の朝廷は、現代の低級映画顔負けのスキャンダルまみれですし、同じく「高祖本紀」におけるの高祖劉邦を巡る物語では、人間劉邦のだらしなさ、弱さ、そして自らそれを認める不思議な愛嬌を持つ人間の魅力が描かれます。一方で劉邦は自分の命に危険が及べば、幼い我が子さえ馬車から突き飛ばして捨てる非情な人間であり、その妻呂后の残酷さに至っては読んでいて気分が悪くなるほどです。

こうした権力者の姿を赤裸々に描き、ウソで飾り立てない歴史だからこそ読んでいて面白いのです。正視に耐えない醜く無残な現実であろうと、それをそのまま描く…世界の中でもとりわけメンツにこだわる国・中国の最初の正史がかくも優れた史書だったことには敬服せずにはいられません。『史記』は中国の宝であると同時に、世界の宝というべきでしょう。

そしてこのことと、正視に耐えない醜く無残な現実を耐え抜いた司馬遷の人生とは切り離すことができません。極限の環境は、ウソやきれいごと、権力へのおもねりなど一切を吹き飛ばしてしまったのでしょう。司馬遷の不運は、人類にとっての歴史書のお手本を書く上で必然だったと言ってもいいかもしれません。

『史記』の構成

『史記』は全130篇、52万6500字で、「本紀」(ほんぎ…12巻)、「表」(10巻)、「書」(8巻)、「世家」(せいか…30巻)、「列伝」(70巻)から構成されています。

「本紀」の多くは天子や帝王について書かれたものですが、これについては、項羽は天下を取っていないのになぜ「項羽本紀」があるのか、恵帝は第2代皇帝なのにこれは本紀として立てず、その母・呂后は帝王ではないのに「呂太后本紀」があるのはなぜか…等々こうした議論が古来多々あります。

これに対しては「天下の権のあるところ、それが本紀だ」と、天子や帝王でなくても天下の権力を握っていれば本紀に入れ、握っていなければ天子や帝王であっても入れなかったのだという解釈もあります。

司馬遷自身は「本紀」という分類について何も語っていません。

「表」は年表で、本紀、世家、列伝の文章を関連づけるために書いたといわれています。

「書」は先秦時代(秦以前)から漢代までの文化や制度について書かれたものです。内容としては、儀礼、音楽、制度、暦法、天文、祭祀、水利、経済などがあります。

「世家」では、周代から漢代初めまでの列侯や諸侯の年代記が書かれています。

「列伝」では、義に基づいて際立った行動をとり功を立てた人物が書かれています。この中には刺客列伝、遊侠列伝、酷吏列伝など、いわゆる英雄以外の市井の人々の伝記があります。

上記したもの以外に、篇の初めや末尾に「太史公いわく…」として、書いた対象や内容についての司馬遷のコメントがあります。初めにある方を「序」、末尾にある方を「賛」といいます。

紀伝体とは

『史記』は上記したように、「本紀」「列伝」「世家」に分けてそこに属する人々の伝記が書かれています。こうしたスタイルの歴史書を「紀伝体」といい、司馬遷が初めて考え出した歴史書の記述スタイルです。

これに対して『春秋』のように、統治年代ごとに記述していくスタイルを「編年体」といいます。

『史記』の次の時代を書いた(一部重なる)班固の『漢書』も紀伝体を踏襲しましたが、『史記』が先秦時代から漢代初期までの通史であるのに対し、『漢書』は前漢という王朝の歴史だけで、こうしたタイプの歴史を「断代史」といいます。

『漢書』以降中国王朝の歴史書は、紀伝体による断代史で、通史は書かれませんでした。

消えた「武帝本紀」

『史記』の本紀は「五帝本紀」に始まって「孝武本紀」まで全12巻ありますが、この「孝武本紀」は司馬遷が仕えた前漢第7代皇帝の武帝の伝記です。武帝は司馬遷の発言に激怒して彼に死刑を命じた皇帝です。

ところがこの「孝武本紀」はかなり古い時代に消失し、今あるものは『史記』の「封禅書」の記述から武帝と関わる部分を抜き出して「封禅書」と重複する形で載せたものです。ここを読んでも武帝の事跡はわからず、『史記』本紀や列伝などに書かれた文章とは違ってまったく面白みがありません。

武帝は、匈奴との戦いで敗北した李陵をかばった司馬遷に死罪を命じますが、司馬遷は『史記』を書くために死ぬわけにはいきませんでした。そこで宮刑(腐刑とも)という屈辱に甘んじることで命を長らえて『史記』を執筆しました。

武帝と司馬遷とのこうした因縁を思えば、「消えた武帝本紀」に何が起きたのか、当然人の興味を引きます。

この「武帝本紀」をめぐっては、「武帝が『武帝本紀』を読んでその内容に激怒して削除を命じた」などの話が伝わっていますが、今もなお真偽のほどはわかりません。

司馬遷はその序で「武帝本紀を作る」(武帝本紀を書いた)と書いていますので存在したことは確かなわけですが、なぜそれが消えたのか…『史記』の大きな謎です。

『史記』に描かれた有名な場面

最後に『史記』に描かれた有名な場面を2つ紹介しましょう。

「風蕭蕭として易水寒し」…「刺客列伝」から

刺客という言葉は今も選挙の時などに使われますが、今風にいうならば「テロリスト」です。司馬遷はこうした人物も歴史の中に書き込んだのでした。「刺客列伝」には何人かのテロリストの伝記が書かれていて、列伝はこのように1巻で一人の伝記とは限りません。

この「刺客列伝」の中で最も有名な人物は荊軻(けいか)でしょう。荊軻の物語はまさに男気の物語です。悲劇のヒーローで、生きて帰れぬと行く人も見送る人も知った上での易水(川の名前)での別れの歌…

風は蕭蕭として易水寒し

壮士ひとたび去って復(また)還らず

この調べとともに後ろを振り返らずに死地に向かう男の姿は、古来多くの人々をひきつけてきました。

荊軻のターゲットは秦王・政のちの始皇帝です。役者に不足はありません。

荊軻は秦王に何の恨みもなく、事の成り行き上この仕事を引き受けざるを得なかったのですが、この話の裏にも男気ある人物が現れます。

まずの太子(世継ぎ)が人質として送られていた秦の王、つまり政の自分に対する対応がひどいとして燕に逃げ帰り、太子は復讐を考えます。家来に相談しても「超大国秦と張り合っても」と取り合ってもらえません。そこで田光という人物に話を持ちかけます。田光は「私はもう年だが知り合いに荊軻という男がいる。この男なら太子のお役に立ちましょう」と返事をします。

太子は喜び「それではこの話は内密に」と言って田光を見送ります。

田光はその後荊軻に会い「ひとつわしの代わりに引き受けてくれまいか」と頼むのですが、その後「実は太子はこの話は内密にとおっしゃった。わしが人に漏らすと疑われたのだ。このように疑われては義侠の人間とは言えない」と言って田光は自刎してしまうのです。

太子の頼みを荊軻に引き継ぎ、自ら首をはねた人間を目にすれば荊軻は後には引けません。田光は荊軻をそうした人間と見込んで頼んだのです。司馬遷はここで「田光は自刎することで荊軻を励ましたのだ」と書いています。

「士はおのれを知る者のために死す」…刺客列伝の別の人物のところで書かれた言葉ですが、田光も荊軻も自分を人物と見込んで頼まれたことを意気に感じ、一人は自刎し、一人は生還の見込みがない秦王暗殺に出かけるのです。なんとも「男の美学」です。

荊軻も田光も市井の人で、遊侠の徒のにおいがします。歴史の記述を担当する朝廷の役人が普通こういう人物をとりあげるものでしょうか。しかも二千年前の話です。『史記』は同時代においては「雅でない」として教養人からの人気は芳しくなかったといいます。優雅な筆致で宮廷を称えた『漢書』の方がずっと評価が高かったのです。けれども時代が下るにつれ、『史記』に描かれた人間の魅力は人々の心をとらえるようになっていきました。『史記』が書いたのは歴史であると同時に、人間そのものでした。『史記』が文学だといわれるゆえんです。

さて荊軻による暗殺はどうなったか、もし成功していれば始皇帝はこの世に存在せず、歴史は別なものになっていました。始皇帝はあやういところで逃げ、命びろいをしました。そして燕の太子はのちに秦によって滅ぼされました。

劉邦という人物…『高祖本紀』から

『史記』は物語の宝庫といってもよく、さまざまな人物が登場しますが、その中で最も魅力的な人物の一人が劉邦すなわち漢の高祖ではないかと思います。小説の主人公として描かれたとしてもこれほど個性的には描けないでしょう。

なんといっても前後400年続く漢王朝を最初に建てた人です。江戸幕府なら徳川家康であって、日光東照宮では神様として祀られ、今も大勢の人が参拝しています。

その偉大なる人物を「高祖は酒や女性が好きで、いつも2軒の酒屋に出かけ、かけで酒を飲んでは酔っ払ってその場で寝込んだ」と書くのです。書き手は漢王朝で武帝にはべる歴史官です。

劉邦の外見は「鼻が高く、額は龍のようで髭が美しく、左またに72のほくろがあった」そうです。前半はいかにも後の皇帝顔ですが、左またに72のほくろって!本人が数えなければ誰が数えるのでしょうか?なんとも人を食った人物です。

良いことも書かれています。「心が広く、優しくて人間好き、困った人にはものをやり、ものごとにこだわらなかった」…親分肌ですね。

「いつもゆったりして、家事にたずさわらず」とありますから、仕事などしないでふらふら遊び歩いていたのです。

のちに皇帝になってから劉邦はその父親の長寿を祝う宴を開き、おおぜいの配下を招きました。その宴会の席上で劉邦は杯を挙げると「昔父上は、お前は無頼でなまけものだ。兄の劉仲はよく働くのにとおっしゃった。今はどうですか。私と兄とどっちの方がすごいことになったか」と言って満場の爆笑をかったと書かれています。

親としては、若い日の無頼の息子には文句も言いたくなるでしょう。劉邦はおおらかな性質だったといわれますが、親の言葉はずっと心に刺さっていたのです。劉邦の執念深い一面を示すエピソードでもあります。

それにしてもこういう記録が残っており、それを隠すことなく取り上げるのですからスゴイことです。国のトップや創業者の過去の恥ずかしい姿を公にさらすことなど現代でもなかなかできるものではありません。

劉邦はカッコイイ英雄としては描かれていません。

ライバルの項羽はまさに戦国の英雄ですが、といって理想的に描かれることはなく、その残虐さ、粗暴、嫉妬深さ、心の狭さも余すところなく描かれています。それでありながら、一度配下についた者に項羽の部下思いの一面を語らせています。

つまり『史記』に登場する人物は非常に多面的に描かれており、この多面性こそ人間の本質なのかもしれません。人間は時に優しく、ときに残酷で、ときに超人的な強さを持つと同時に信じられないほど弱かったりするのでしょう。

『史記』に描かれる劉邦は、項羽のようなカッコ良さのない、ちょっとしょぼくれたおじさんなのですが、時に「なるほどこれは皇帝の器だ」と思わせる姿を見せています。それは部下から己の弱さを指摘された時です。

たとえば「留侯世家」(留侯は張良のこと)の篇で、「沛公(劉邦のこと)は項羽の軍を撃退できますか」と張良に聞かれると劉邦はしばらく黙り「そんな力はない…」と答えるのです。

こうした場面は「高祖本紀」以外の篇で何か所か出てきますが、返事の前に劉邦はしばし黙して自分を振り返ります。そしてその後「いや、わしにはそんな力はない…」「わしには自信がない…」とその都度答えるのです。

一介の無頼漢くずれが、数年のうちにあれよあれよと天下取りの将軍となった時、自分の力を過信しない人はそういるものではありません。自分てけっこうスゴイんじゃないか…と舞い上がるのが並みの人間というものでしょう。

けれども劉邦は常に自分を振り返って自分の正確な姿、能力を自覚するのです。これは手下を前にしてなかなかできるものではありません。これができる劉邦に配下の有能な将軍たちは魅力こそ感じても「ダメだコイツは」と離れる気にはならなかったことでしょう。

劉邦が折にふれて自分の弱さを自覚する場面は、この人物の魅力を読者に伝える場面でもあります。

司馬遷は華々しい戦いの場面だけでなく、こうした何気ないエピソードも逃すことはありませんでした。歴史上の人物一人ひとりの本質に迫るべく、全身全霊をもってその人物を感じ取り書いていったに違いありません。