周王朝の歴史【西周が衰退・遷都し東周と諸侯分立の時代へ】
周(しゅう)とは夏、殷、に続く中国の古代王朝です。孔子をはじめとした儒家から理想国家と目されました。周は紀元前771年に滅び、その後最後の王の息子が東の洛陽に都を移して周を再建、これを東周と呼びますが、時代は諸侯割拠の春秋戦国時代に入っており、王朝としての権威や権力は取り戻すことができませんでした。
※上の画像は周代の青銅器です。
目次
周(西周)とは
周(西周)とは中国古代の王朝名で、甲骨文字で有名な殷(商)王朝を倒して作った王朝です。BC.1046年頃からBC.771年までを西周と言い、都は鎬京(今の陝西省西安)にありました。BC.771年第12代幽王の時に、正室・申后の実家である申の国と西の異民族・犬戎によって幽王は命を奪われ西周は滅びました。その後、幽王の子・平王が周の東の都・洛邑(現洛陽)で即位し、ここから東周が始まります。東周王朝は王朝という名に実態が伴わず、権威はそれなりに残ってはいたものの一諸侯国に過ぎませんでした。この後は東周時代というより春秋戦国時代という諸国分立の時代が550年ほど続き、秦の始皇帝による中国統一によって春秋戦国時代は終わりを告げました。
周の成り立ち
周は王朝になる以前から古い歴史を持ち、聖王・舜の時代にまでさかのぼることができるとされています
周の始祖は名を后稷(こうしょく)と言い、姜嫄(きょうげん)という名の母親が巨人の足跡を踏んで産気づき后稷を産み落としますが、母はこれを不吉と感じこの赤子を捨ててしまいます。
姜嫄は最初に狭い路地に后稷を捨てますが、通りかかった牛馬がこれを踏もうとしません。次に林に捨てようとしますが、人通りが多く捨てられず、最後に凍った水路の上に捨てると、飛ぶ鳥が赤子を温めて救いました。
姜嫄はこのできごとを神秘的に感じ、后稷を育てることにします。
后稷の名は「棄」(き)というのですが、この逸話から来ています。名前が2つあるのは、「后稷」の方は聖帝・舜が彼に与えた号であり、「農業を司る長官」という意味も持ちます。
后稷の「稷」は穀物の「黍」(きび)のことで、当時もっとも大切な穀物とされていました。
子供をいったん捨てるのは土地の聖霊を体に受けさせる風習とも言われますが、棄という名を持った子供は大切な穀物・黍に由来する号も持ち、周という部族はその最初から農耕と深いつながりを持っていたことが想像できます。
ちなみにこの「稷」を用いた熟語「社稷」は高校の漢文によく登場しますが、これは「国家」のことです。この熟語で、「社」は「土地の神を祀る祭壇」のこと、「稷」は「穀物の神を祀る祭壇」のことで、古代中国における国家の成り立ちが伺われます。
周の12代目・古公亶父(ここう たんぼ)の時代に、この一族は岐山(きざん…陝西省岐山県北部)の麓にある周源に移ってそこに城郭や集落を築きました。この地名から「周」の名をつけたという説、もともと周という名だったのでこの一帯を周源と言うのだという説があります。
古公亶父には3人の息子がいてその末っ子の息子が昌・のちの文王です。文王は幼少期から高い徳を身につけていたといわれ、周囲の期待を背負って周一族の後継者となりました。
文王の時代
周族の後継者となった文王は武力で勢力を拡大したり、他国の境界線をめぐる紛争の調停をしたりしており、以下のようなエピソードが伝わっています。
境界争いをしている2国が人望のある文王に調停を求めにくると、周の領地内では民が互いに境界を譲り合い、年上の人には礼を尽くしており、その様子を見た2国の者は自分たちの争いを恥じ、この紛争はたちまちにして解決しました。
文王は後世の儒家に最も尊敬された政治家で、上記のような物語がたくさん残されています。
文王は周の勢力を拡大させ、殷王朝から西伯という爵位を賜ります。当時周は殷王朝に仕える諸侯国でした。
文王は何度も出征して他の部族と戦いますが、その戦い方は当時の殷王朝のように勝利して得た捕虜を奴隷にするのではなく、奪った土地を公田(国家が所有する田畑)としてそこを民衆に耕させるというものでした。
当時の殷王朝は暴虐さで有名な紂王(ちゅうおう)の時代でしたが、紂王は周国の領地拡大の動きを気にすることなく、たびたび東方遠征に繰り出していました。このスキを昌の子・発(はつ)…のちの初代周王・武王に襲われて殷は滅亡します。
文王は殷の滅亡を見ることなく亡くなり、その子・発(はつ)が父の死後、事業を受け継いで周王朝を建てました。
武王の時代
亡くなった文王は善政を敷いて諸侯や庶民からの人望を集めていましたので、武王は車に父・文王の位牌を乗せ、故文王が戦う形にして周囲の諸侯に召集をかけ、殷の紂王を討ちに出発します。
当時の覇権国・殷と後発の大国・周の天下分け目の戦いは殷都の南・牧野(ぼくや)で始まりました。紂王軍は70万の兵を抱えて応戦しますがあっけなく壊滅してしまいます。司馬遷は『史記』に、紂王軍の兵士たちは武器をさかさまにして西伯昌を迎えたと書いています。つまり兵士には最初から戦意がなかったのです。紂王の軍隊は奴隷によって構成されており、鞭によって動員された奴隷たちにとって周軍は、自分たちを解放してくれるいわば解放軍でした。殷の奴隷は祭事のたびにいけにえにされていたことが、殷墟の発掘からわかっています。忠誠心など持ちようがありませんでした。
殷を滅ぼした武王は、その後鎬京(こうけい…現陝西省西安付近)を都として周王朝を建国しました。
周王朝の歴史
儒家の理想の王国の始まり
こうして周王朝がスタートしましたが、最初の仕事は戦後処理でした。
紂王には禄父(ろくほ)という息子がいました。武王は禄父を諸侯として遇し、自分の弟をお目付け役にして殷の領地を治めさせました。敵の跡取りだったのに命を奪わなかったのです。奪った紂王の財産は貧民救済に当てたと言います。その後この戦いに功績あった者に土地を封じました。中国の封建制度の始まりです。
中国の王朝はこれを倒した次の王朝によって前の王朝の歴史が書かれますが、周王朝だけは自然消滅的に消えた王朝なので自分たちが書いた美化された歴史がそのまま残り、そのため後の儒家たちは周王朝を理想化するようになったともいわれています。
理想化された周王朝は文と礼の国ですが、実は周囲の諸国家との戦争が絶えない武の国だったとの説が有力です。
周公・成王・康王による黄金時代
武王は周王朝成立後まもなく亡くなってしまい、その子・成王はまだ幼く、そこで武王の弟・周公旦(しゅうこう たん)が摂政として政治を執ることになりました。この周公は人格に優れ、周王朝のさまざまな制度を作るのに功績があったと伝えられています。周公は孔子が尊敬してやまなかった人物としても有名です。その後、紂王の子・禄父とその目付け役であった武王、周公の弟たちが反乱を起こし3年がかりでやっとこれを鎮圧。
その後第2代成王が即位します。成王は周公の助けを得て政治を行い、洛邑(現洛陽)に成周という東の都を建設しました。この成王と第3代康王の時代に周王朝は黄金期を迎えます。特に康王の時代は40年にわたって刑罰を用いたことがなかったそうですから、よほど治安が良かったのでしょう。
衰退が始まる
康王の次の昭王は南征に失敗してその途中で亡くなったと言われています。その次の穆王は西北征伐に向かい、周王朝に朝貢していた犬戎という異民族を征伐してしまいます。この無法に以後周王朝に従わない諸侯が現れるようになりました。こうしてだんだんと諸侯や貴族に対する王朝の権威や統制が弱まっていきました。
厲王の失政と「共和」・宣王の中興
第10代厲王(れいおう)は失政によって周囲の怒りを招きやがて逃亡してしまいます。これはBC.841年のことでこの年以降中国の歴史は年代がはっきりするようになります。
逃亡してしまった厲王の代わりに、周公旦の子孫と召公の子孫が共同で政治を見ることになったと『史記』に書かれています。共和して政治を執ったということから「共和制」という言葉も生まれました。
この王位空白期の政治については、『竹書紀年』という戦国時代の王の墓からの出土物に、共伯和(師和父とも)という人物が代わって政治を執ったとあり、共和して政治を執ったのではなく、この「共伯和」という有力者がいっとき政治を執ったのだという説もあります。今はこちらの説の方が有力です。
厲王の子・宣王はすぐれた君主で、宣王の時代、周王朝はかつての栄光を取り戻すのですがやがて失速。失政が重なり宣王は諸侯や民衆の支持を失ってしまいます。
笑わない美女と周の滅亡
第12代幽王の妃に褒姒(ほうじ)という美女がいました。褒姒は捨て子でしたが絶世の美女に育ち、やがて周の王室に献上されました。幽王は褒姒を溺愛し、正妻の申后(しんこう)が生んだ皇太子を廃嫡し、褒姒が生んだ息子を皇太子にしました。
この絶世の美女は一度たりとも王の前で笑顔を見せたことがありませんでした。幽王は彼女の笑顔が見たくていろいろ試すのですが、まったく笑おうとしないのです。ある日朝廷のうっかりミスで敵襲来の信号であるのろしを上げてしまい、大勢の諸侯が駆け付けたのですがミスだったことを聞かされて皆唖然とします。するとその様子を見た褒姒が突然笑い出します。そこで幽王は彼女の笑顔もう一度見ようと何度ものろしをあげさせ、その都度諸侯は駆けつけるのですが、毎度のことにあきれ果ててやがて来なくなってしまいました。
その頃皇后の実家・申氏には申后と廃嫡された皇太子が命の危険を感じて身を寄せていたのですが、申氏はこうしたことに幽王への恨みを募らせ、犬戎などの部族と協力して反乱を起こします。幽王はあわててのろしをあげさせるのですが、何度も騙された諸侯は誰一人としてこれを信じず、こうして幽王は褒姒の子供である幼い皇太子ともども命を奪われてしまい、周(西周)は滅亡しました。
その後幽王に廃嫡されていた皇太子が周の東の都・成周(洛陽)に逃れ、ここで平王として即位しました。この平王の時代から周は東周と呼ばれるようになりました。
褒姒は捕虜となりますが、その後の話は伝わっていません。
今では褒姒の物語は史実であったかどうか疑わしいとされていますが、まったく根拠がなければこんなユニークな話はなかなか思いつけるものではありません。物語のタネは何かしらあったのではないでしょうか。
東周とは
周は西周の時代と東周の時代に分かれますが、東周の時代とは名ばかりであって東周王朝と呼べる実態はなく、時代は各地の諸侯分立の時代に入っていました。春秋戦国時代の始まりです。東周時代とはつまり春秋戦国時代のことなのです。東周はBC.256年に秦に滅ぼされ、それから30年ほど経ったBC.221年秦の始皇帝が中国全土を統一し、ここに春秋戦国時代は終わりを告げて秦王朝が始まります。
周王朝の都
周王朝の都は最初、鎬京(今の陝西省西安)に置かれました。BC.771に鎬京が陥落、周王朝は滅亡しました。翌年BC.770に周王朝のラストエンペラーである幽王の子・平王は東に向かい、洛邑(今の河南省洛陽)に都を置きました。この位置が鎬京より東なので、前述したようにここからの周を東周と呼び、西に都のあった時代の周を西周と呼びます。
周代の封建制度
周王朝は殷を倒した後、同じ姓の諸侯を各地に封じ周王朝を守るよう期待しました。まだ政権が安定していなかったので、周王朝のやり方を強制するのではなく、各地の実情や習慣に応じてその土地を支配させたのです。その際、殷王朝の支配を受けていた殷人たちも各地に送り、青銅器作りなど殷代の高い技能や文化を生かすような仕事をさせたといわれています。
このような支配の仕方は殷王朝の統治法とはだいぶ異なっていて、殷が何事も神のお告げで決める祭祀国家だったのに対し、周代は封建制度が行われました。
ちなみに中国における「封建」とは、王が一族や諸侯に土地と民を与え、軍事などの権利を認めた制度で、ヨーロッパの「封建」のように契約に基づくものではなく、血縁を重んじるものでした。
周礼とは
『周礼』(しゅらい)とは、周王朝の官制(行政に関する法規)を書いた書物のことで、儒学の経典の一つです。周礼の「礼」とはいわゆる礼儀のことではなく、行政制度や法規のことです。周礼の「周」はBC.1046年頃の武王の即位からBC.770年の幽王の死までを指します。
つまり「周礼」とは西周の政治制度を意味するのです。
『周礼』の内容は天・地・春・夏・秋・冬の6篇からなり、唐代の科挙の試験内容の一つでもありました。『周礼』の内容すべてが儒教的というわけではありませんが、儒教の経典としての影響力は大きく、北宋の王安石の新法(当時の革新的な諸政策)などは『周礼』を理論的根拠にしています。
この書物に書かれている官僚組織などは周公旦によって書かれたと伝えられてきましたが、最近の研究では早くとも戦国時代の後半に作られたものといわれています。
西周と出土文物
殷王朝は甲骨文という出土品によってその歴史をある程度たどれるのですが、周代は甲骨文に卜辞を刻むという習慣がなく、さまざまな伝説の裏付けが取れません。この時代に書かれた資料としては青銅器の銘文があるのですが、殷代末期と周代初期の区別がつかず、周代の文化はおそらく殷代の文化を踏襲したものではないかといわれています。
殷と周で異なるのは武器で、戈(か)の形に殷代と周代とでは違いがあり、周代の改良型武器で殷軍より有利だったのではという説があります。
当時の農民の暮らし
青銅器の銘文から、当時の農民に対しては土地台帳と戸籍が作られていたことがわかっており、周王朝は土地と民を統治して穀物を徴収することが大切だったのです。ただし具体的にどういう土地制度が行われていたかはわかっていません。
当時は貨幣が流通しておらず、農民は自分に割り当てられた田畑からの収穫で暮らすとともに、公田では共同で耕作しその収穫物を税として納めていたと見られています。彼らが奴隷だったか農奴だったか、それとも自由民だったかは学会の議論のテーマとされています。