禹(禹王)【治水を司る神話上の皇帝であり夏王朝の創始者】

禹

(う)は中国最古の王朝といわれる夏王朝の開祖です。一方で禹は治水の神としても崇拝されてきました。禹は13年もの間家に帰ることもなく治水のために献身し、最後は半身不随の身になってしまいました。禹は日本でも治水の神として祀られています。

禹とは

禹
禹。

(う)とは中国古代伝説の中の帝王であり、夏王朝の創始者とされています。古代の金文(きんぶん…青銅器に刻まれた文字。殷代や周代のものが有名)では治水の神として描かれています。禹の名は文命(ぶんめい)で禹は諡(おくりな…死後贈られる称号)です。

禹は中国大陸を覆っていた大洪水を治めた功績により、聖王・から後継者として指名され、夏王朝を建ててその初代の帝王になったと言われます。禹の父・鯀(こん)は天から、「息土」という勝手に増えていく魔法の土を盗んできて、これを海に投げ落として原初的な大地を作るのですが、治水には失敗して処刑されます。その子・禹は治水に成功し、父が遺した大地を踏み固めて大地を安定させました。

禹と夏王朝

が建てた夏王朝は、それ以前の堯舜の時代とは異なり世襲王朝です。禹にはもともと世襲王朝を建てる意思はなく、彼は死ぬ前に自分の補佐役だった益(えき)に天下を譲りました。ところが禹の死後、3年の喪が明けると益は帝位を禹の息子・啓(けい)に譲って隠棲してしまいます。

この話は禹が建国した夏王朝も、聖王五帝の時代と同じく権力闘争ではなく禅譲で始まったということを意味しています。

禹が夏(中国で夏はBC.2070~BC.1600にあった実在の王朝とされている)と関連づけられるようになったのは戦国時代(BC.403~BC.221)以降のことで時代は千年以上くだり、そもそも禹と夏王朝は無関係だったのではないかという説もあります。

それを示すかのように、息子・啓は「夏の啓」とか「夏后の啓」と呼ばれているのですが、禹は「帝禹」「大禹」と呼ばれ、夏の字はつきません。また伝説上、禹の事跡と啓の事跡は重なることがあり、実は夏王朝は禹ではなく啓から始まり、そこに後から禹を付け加えたのではないかともいわれているのです。

夏王朝の年表
夏王朝の年表。

禹は治水の神

大禹陵にある噴水
大禹陵(禹の陵墓)にある噴水。

伝説上、の業績は何といっても治水に成功したことです。準(じゅん…水平を測る道具)・縄(じょう…直線を測る道具)を左手に持ち、規(き…コンパス)・矩(く…角度を測る定規)を右手に持って、家の近くを通っても中に入らず、外にいること13年というモーレツな働き方で最後は半身不随になってしまいました。

書経』(『尚書』とも)の禹貢篇には、禹が洪水を治めて河を整備し、全国を九州(9つの州)に分け各地の産物を水路を使って都に納めさせたと記されています。

詩経』の大雅・文王有声篇には「豊水東注 維禹之績」(豊水が東に流れるのは禹の治水のおかげ)という句がありますが、豊水とは西安の西南郊外にある川の名前で、これは禹がこの川を整備してくれたおかげで私たちの今があるよ、と称えた歌です。

また西時代の青銅器銘文にも禹の功績を称える内容が刻まれています。

このように禹は、古代の黄河中下流域…中原…の民にとって夏の初代帝王というより彼らの共通の祖神・神話的英雄として知られ崇拝されてきました。

禹の家族

禹は諸侯である塗山氏の娘と結婚しました。ある日治水のために出かけた時、禹はその体を熊の姿に変えて走り、それを妻に見られてしまいます。妻は恐ろしくなって逃げ出そうとするのですが、その場で石になってしまいました。禹がその石に向かって「わしの子供を返せ!」と怒鳴ると石が割れて赤ん坊が生まれました。これが息子「啓」です。「啓」という漢字には「開く」という意味があるのですが、啓はまさに石が開いて生まれてきたのでした。

禹という文字の意味

禹という文字は、爬虫類を描いた象形文字から来ており、黄河に住む水神のことだと言われています。

また『荘子』に「禹は偏枯」という言葉があり、『山海経』に出てくる魚が「偏枯」という言葉で表現されていることから、禹は魚の形をした神ではないかという説もあります。

禹の「歩」と「禹歩」そして日本の「反閇」

禹は足で踏み固めて原始の大地を安定させようとするのですが、これは「歩」という呪術でした。この呪術は後の道教に受け継がれ、道士は「禹歩」という独特の歩き方で儀式の場を踏み固めました。この禹歩は、上述した「偏枯」という名の魚の歩き方を真似たもので、よろめくように、あるいは片足で跳ぶように歩き、こうすることで雨を降らせたり、岩を動かすことができるといいます。これは同じく呪術的な日本の「反閇(へんばい)」という歩行法と似ています。この反閇は神楽や日本舞踊の足さばきや足踏み、相撲の四股(しこ)、「なんば歩き」(同じ側の足と手を一緒に動かして歩く)など清めや鎮めのための歩行法のことで、これらの起源は禹の「歩」や道教の「禹歩」にあるのではないかといわれています。

夏商周年代確定プロジェクト

中国は1996年から1999年にかけて「夏商周年代確定工程」というプロジェクトを実施し、これによって禹の夏王朝はBC. 2070年に始まり、BC. 1600年に滅んだとされました。ただし日本の学者の中には、考古学資料の中に文字資料が見つかってないことから、断定は避けるべきだと考える人もいます。

日本にある禹の碑や像

禹は日本でも「治水の神様」として信仰をあつめ、水害が多い地域を中心に数多くの禹の碑や像があります。2010年には酒匂川がある神奈川県開成町で「第1回禹王サミット」というイベントが開かれ、その後も場所を換えて開催されています。2013年には「治水神・禹王研究会」も発足したそうです。

群馬県片品川にある禹王の碑
群馬県片品川にある禹王の碑。水害が無くなることを祈って祀られました。