道士の歴史と神仙思想

道士

道士とは、道教における僧侶的存在のことです。始皇帝前漢武帝は不老不死の追求に没頭し、いろいろな道士が関わりました。今も台湾には多くの道教寺院があって道士が修業をしています。

※上の画像は山中を歩く道士を描いたもの。画像左側に小さく道士がいます。

道士とは

道士とは、古代においては「道を学ぶ人」のことでしたが、宋代以降「道教における神職」を意味するようになりました。

すなわち道教の「僧侶」ともいうべき存在です。

2011年において中国大陸の道士は10万人弱、一方台湾では、調査年代は不詳ですが3万弱といわれています。

台湾人口は中国大陸の4%ほど、一方道士の数は大陸の約30%。台湾における道教の隆盛がわかります。

「道士」が男性の場合、「乾道」・「羽士」・「真人」・「神仙」・「道人」・「羽流」・「羽衣」・「紫陽」・「方士」・「黄冠」・「先生」・「希夷」とも呼ばれ、女性の場合「坤道」・「女冠」などと呼ばれてきました。

道士は古代「不老長寿の術を学ぶ人」のことでしたが、こうした名称からもそれが伺われます。

神仙思想と道士

老子荘子の思想、すなわち道家(どうか)に起源を持つといわれる道教では、道家の「無為にして自然に遊ぶ」という境地から、神仙に対する憧れが生まれていきました。

神仙…神や仙人は年を取ることもなく死ぬこともありません。そしてその魂は天地の間を自由自在に行き交うのです。

『荘子』逍遥遊編に、道家の一人・列子について書かれた文章があります。「列子は風にのって15日間楽しく旅を続けた」…これがまさに神仙の境地です。

やがて不老長寿をめざす様々な仙薬が考え出されるようになり、神仙をめざす人々は道家ではなく、道士と呼ばれるようになりました。

時代と有名な道士たち

始皇帝と方士

中国を初めて統一した始皇帝は不老長寿を手に入れるために権力と財力を傾けた人です。

当時の中国では世界の中心は黄河中下流域であって、古代ここに住む人々にとってその周囲、東西南北の果てはいったいどのような場所なのか、謎だったのです。

特に黄河の東と西の果ては神秘的な場所で、仙人が住んだいるのではないかと想像されていました。

東方の渤海には蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)の3つの仙山があるとされ、ここには仙人や不老不死の薬があると思われていましたが、そこに船で近づこうとすると風が船を引き戻してしまいます。

始皇帝は中国を統一したのち全国を巡幸するのですが、東方のの海辺に行ったときには、こうした話を方士(道士)たちが口々に奏上しました。

その一人が徐福という方士で、彼は始皇帝によって男女の童子数千人とともにこの仙島に行くよう命じられた…と『史記』始皇帝本紀に書かれています。

この「方士」と呼ばれる人々は、仙人や不死の薬についての専門的な知識を持ち、陰陽五行説なども取り入れながら鬼神と交流していたといいます。

ちなみにこの徐福一行はこのとき日本にやってきた…という徐福伝説が中国にも日本にもあり、そこで日本人の祖先はこの時の徐福たちだ…という話を何人もの中国人から聞いたことがあります。

武帝と道士

の次の時代・前漢武帝も始皇帝に負けず劣らず、不老不死の追求に権力と財力を傾けました。

武帝の前に現れた方士は李少君という者で、彼は蓬莱山の仙人に会ったと言い、「却老」(きゃくろう)すなわちアンチエイジングの術に通じていたといいます。

彼は武帝に、竈(かまど)の神を祀って物の怪を集め、その力で丹砂(たんさ)を黄金と化し、この黄金で食器を作ると寿命が延びて蓬莱山の仙人に会うことができます…そこで封禅(ほうぜん)の儀式を行うと不死の身となります、と奏上しました。

武帝は彼の言葉に従って丹砂から黄金を作るという実験をしてみるのですが、李少君は不死を証明する前に病死してしまいました。

この後も武帝の元には次々と方士が現れ、時には万を数えたと言います。けれども不死を証明できた方士は一人も現れませんでした。彼らは武帝の怒りを買い、何人もの道士が命を奪われました。

後漢時代の太平道と五斗米道(天師道)

太平道は、後漢の時代に琅琊(ろうや…山東省にある地名)の道士・于吉(うきつ)が作った宗教団体です。

後にここから張角という道士が出て、おおぜいの信者を集めました。彼はやがて黄巾の乱(こうきんのらん…後漢末に起きた農民の反乱)という反乱を起こし、そのために太平道は征伐され消滅しました。

五斗米道は、張陵が蜀で道を学び、信者を集めるようになったことで生まれました。

信者には五斗の米を納めさせたので「五斗米道」と呼ばれます。

五斗米道の教義は太平道と似ていたといいます。病気治しが主な活動内容で、信徒には『老子』を学ばせました。東晋のころから五斗米道は「天師道」と呼ばれるようになりました。

この太平道と五斗米道という2つの宗教団体が道教の起源だといわれています。

南北朝時代の北魏で道教が国教に

北魏では寇謙之(こうけんし…363~448)という道士が五斗米道(天師道)を改革し、これが北魏(ほくぎ…386~534 中国の南北朝時代に鮮卑族によって建てられた国)の国教となりました。

道士・玄宗皇帝

唐は中国の歴代王朝の中で最も道教を重んじた王朝ですが、中でも楊貴妃とのラブストーリーで有名な玄宗皇帝は、彼自身が道士から道法を授かり道士と同等の立場となりました。

玄宗皇帝は道士の司馬承禎(しば しょうてい)という者を重用し、その意見を入れて様々な崇道政策を採りました。

たとえば老子を祀る玄元皇帝廟を建てたり、それまで儒教に基づいて行われていた五岳(中国の五大霊山)の祭祀を道教式に変えたりしました。

玄宗皇帝の治世に起きた安史の乱以降は道教の弊害が深刻になり、唐代では6人の皇帝が金丹と呼ばれる不老長寿を求めて作られた薬の中毒で亡くなっています。金丹の中には水銀やヒ素が入っていたといわれています。

唐代の詩人と道士

唐代の詩人、文人たちは道士と親しく交流し、神仙や隠棲など道教的境地に憧れ、こうした境地を詩に歌いました。

また自分で金丹術を行う人も少なくありませんでした。

こうした詩人の代表に李白がいます。李白は自分自身が道士でもありました。

他にも孟浩然王維白居易などがいます。

またこの時代は道士の詩人も数多く現れました。

『全唐詩』には道士36人の詩574首、女冠(女道士)7人の詩164首が載っています。

宋代の徽宗と道士

宋代では徽宗(きそう)が崇道皇帝として有名です。

多くの道士を招き道教と積極的に関わりました。

特に道士・林霊素(りん れいそ)を寵信し、その言に従って『史記』を改変して「老子伝」を最初に置いたり、「菩薩」を「仙人」に、「寺院」を「道観」に改称したりしました。

その後徽宗は林霊素の横暴ぶりを嫌って彼を放逐しますが、このような混乱も相まって宋は北方の金に滅ぼされ、徽宗も金に連行されそこで亡くなりました。

その後の王朝と道士

宋以降、元や明の王朝も道教や道士とのつながりは深いものでしたが、清になりますと乾隆帝以降道教への締め付けが厳しくなり、道教は衰退していきました。

道教の二大宗派と道士の生活

道教の宗派としては「正一教」(しょういつきょう)と全真教(ぜんしんきょう)があります。

「正一教」は五斗米道(天師道)が元代(1279~1367)に「正一教」と名を改め現在に至るものです。

新中国成立前までは江西省の龍虎山に大本山(最高位の道教寺院)がありました。正一教の宗教活動は今も台湾で盛んに行われています。

全真教(ぜんしんきょう)は北宋末に王重陽が起こした宗派で、ここの大本山は北京の有名な観光地でもある白雲観(はくうんかん)です。

この正一教と全真教が道教の主な宗派として大きな勢力を持っています。

正一教と全真教の違いとしては、正一教は祈祷や方術、護符などで長寿や病気の治癒、平安無事などを祈願し、道士は結婚することが可能です。

一方全真教は道観という道教寺院に住んで座禅を主とする修行を行い、道士は結婚することはできません。

現在の道士たち

新中国の成立前に正一教の教祖一家は家族や護衛などとともに台湾に逃れました。

その後国民党政府から公式な道教として認められ、やがて台湾道教では最高位の道教組織となりました。

一方共産党の支配を受けた中国大陸における道教は、文化大革命時代(1966~1976)に道観や神像、文物がすべて破壊され、道士たちもまた激しい迫害を受けて道士と呼ぶべき存在は一人もいなくなりました。

80年代に始まる改革開放政策後、道教の活動も徐々に復活し、1984年以降は各地の道観や道教協会が復興、復活していきました。

現在北京の白雲観には「中国道教学院」が置かれ、道士の教育に当たっています。白雲観は北京の有名な観光地ともなっていますので、ここを訪れると敷地を行き交う現代の道士の姿を垣間見ることができます。

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