白居易(白楽天)

白居易

白居易はくきょい白楽天はくらくてんとは中国・中唐(詩の世界では唐を初唐618~712年・盛唐713~765年・中唐766~835年・晩唐836~907年に分けます)を代表する詩人で大臣まで務めた政治家でもあります。日本には白居易が生きていた時代から彼の作品が伝わり、貴族の間で絶大な人気を博しました。

「白居易(白楽天)」(772~846)の「白」は姓、名は「居易(きょい)」で、「楽天」はあざなです。

白居易とは

白居易は河南省の代々役人の家に生まれました。役人といってもごく普通のレベルです。

一族の期待を一身に集め15歳のころから科挙受験の準備を始め、20代の終わりに「進士」という科挙の中でも最も難しい試験に合格、キャリア組官僚として順調に出世していきます。

この進士の試験というのは詩文を作る能力を見る試験で合格率は1~3%です。50代で合格しても「若い」と言ってもらえたそうですから大変な難関です。それでもチャレンジする価値があったということでしょう。貴族や官僚の生まれでなくても優秀であれば受けることができました(商人の家は駄目など一定の制限はありました)から、社会の低中層から上層階級へとのしあがるチャンスもあれば、地方の役職につけば実入りもありました。一族から一人こうしたエリートが生まれればみなが恩恵を受けられたのでしょう。

李白や杜甫もそうですが、文人でありさえすればみなが官職をめざした中でなかなかなれなかった、あるいはなれても数年で追われるようにしてやめた詩人がたくさんいた中で、白居易は途中左遷の憂き目を見ることはありましたが、まあまあ順調に職をまっとうし、なお当時としては長命でもありました。75歳で自分の人生に納得をして亡くなっています。

彼の伝記を読んで感じるのは、非常にバランス感覚の良い人ということです。李白は破天荒、杜甫は鬱的気分が濃厚、二人ともバランスが取れていたとはいえません。だからこその魅力と言えるかもしれません。

白居易は青年役人時代は社会の底辺に目をこらし、そういう社会を作っている役人たちを詩の中で痛烈に批判し、やがてそれらも原因の一つとして左遷されれば隠遁者の生活を心から楽しむ詩も残しています。彼は仕事と生活の楽しみを等価値のものとしてとらえ、一方が失われたからといって過度に苦しみません。このバランスの良さがストレスの少なさを生み、長命につながったのでしょう。

社会的な詩として最も有名な作品の一つに『売炭翁』があります。冬でありながら単衣の服を着て、600キロもの炭をやっとの思いで市場に運んでくるや、役人にただ同然にして持っていかれてしまいます。

これを長詩の中で詠っているのですが、白居易自身役人です。いわば身内批判、体制内体制批判です。これを正しい役人の務めとして書いているわけで、思わず「千年も前にすごいなあ…」と感嘆の声を漏らさずにいられません。というのは似たようなひどい話は現代中国でもいくらでも転がっていて、それを書くと…たとえば有名な作家・余華が『10のキーワードで読む中国』(2010年出版)の中でそうした内容を書いているのですが…たちまち発禁とされ中国国内では読めないのです。司馬遼太郎がどこかで書いていましたが「中国という国は過去に戻るほど先進的になる」とつくづく思います。

さて話を戻しましょう。白居易は信念を持ってこうした社会派的な詩をいくつも発表しているのですが、当然あちこちで恨みをかったに違いありません。仕事で「出過ぎたことをした」という名目で江州(今の江西省九江市)に左遷されてしまいます。ここでの役職は「司馬」、これは要するに「少しおとなしくしておれ!」という意味のポストで仕事は何もないのです。やる気まんまんで働いてきた白楽天、ここですっかり腐ってもおかしくないのですが、このような時期に書かれた『香炉峰下新たに山居を卜す』…この詩は『枕草子』に書かれたエピソードで有名です…では廬山のふもとに別荘を作ってそれなりに楽しんでいる様子を詠っています。

白楽天は「兼済」と「独善」という言葉を使って「仕事」と「充実したプライベートタイム」は等価であると言っています。充実したプライベートタイムといっても遊び歩くわけではなく、「雪月花」を愛(め)で、詩と酒と琴(きん)を友にして暮らすような時間です。

こういうことをこの時代に言っているのですからすばらしいですね。

その後また中央官僚として呼び戻され、51歳の時に杭州刺史という役職に就き、西湖に堤防を作るなど杭州の発展に尽くします。さらに晩年は大臣にまで昇りつめ、役人としては成功をおさめたと言えるでしょう。

家庭も円満で良い家庭人でもあったようですが、子供は二人幼くして病死しています。このうち3歳で亡くなった娘を悼む詩『病中金鑾子を哭す』は現代とまったく同じ親心を詠っていて胸に迫ります。

晩年も自分を律しつつ生活を楽しみ、それまでの自分の人生に満足し『達せるかな白楽天』(白楽天よよくやった!)という詩を残し、75歳で人生を終えています。家庭人としても職業人としても芸術家としても成功した人生と言っていいでしょう。

白居易像
白居易像。

白居易の代表作『長恨歌』

白居易の詩の中で最も有名なものは『長恨歌』(ちょうごんか)です。白居易35歳、青年官僚として活躍していたころの作品です。その時代をさかのぼること50年、当時すでに一つの歴史となっていたであろう玄宗と楊貴妃の悲劇を120句という長い詩型で詠ったものです。当時からすでに大きな反響を呼び、「長恨歌といえば白居易、白居易といえば長恨歌」と言われました。

同時代に伝わった日本でも人気を集め、『源氏物語』も影響を受けたと言われています。

ではその一部を紹介しましょう。

『長恨歌』(抄)

『長恨歌』(抄)の書き下し文

春寒うしてよくを賜ふせい

温泉水滑らかにしてぎょうを洗ふ

児扶じたすけ起こせばきょうとして力無し

始めて是れ新たに恩沢おんたくくる時

うんびん顔金歩揺がんきんぽよう

芙蓉のとばり暖かにして春宵しゅんしょうわた

春宵はなはだ短く日高うして起く

此れり君王早朝せず

『長恨歌』(抄)の書き下し文

春のまだ寒い時期華清の宮で湯浴みを賜り

温泉のお湯はなめらかに美しい肌を洗う

侍女が支えるもなよなよと力なく

これが初めて天子の寵愛を受けた時

豊かな髪の毛に金の髪飾りが揺れ

蓮のとばりの温もりの中春の夜を過ごす

春の夜は短くて陽が高く昇ってやっと起きる

天子はこののち早朝の仕事をやめてしまった

白居易の諷喩詩…『売炭翁』『琵琶行』

白居易はまた「諷喩詩」(ふうゆし)と呼ばれる社会派的作品も書いています。「諷喩詩」とは政治の不正、人民の苦しい生活、不条理な社会などを風刺的に描いてその改善を訴えた詩のこと。白居易はこのタイプの詩をいくつも描きました。当時37~8歳のころです。

ではその中でも有名な作品・七言古詩の『売炭翁』を紹介しましょう。


すみを売るおきな

『売炭翁』の書き下し文

炭を売る翁

たきぎり炭を焼く南山の中

満面のじんかい煙火えんかの色

両のびん蒼蒼そうそうとして十指じっし黒し

炭を売りて銭を何の営む所ぞ

身上の衣裳口中の

あはれ身上しんじょうころもまさひとへなる

心に炭のやすきを憂ひ天の寒きを願ふ

夜来城外一尺の雪

あかつき炭車たんしゃしてひょうてつきしらしむ

つかれ人飢ゑて日すでに高く

市の南門外にて泥中にやす

翩翩へんぺんたる両騎来たるはこれ

黄衣の使者白衫はくさん

手に文書をりて口にちょくと称し

車をめぐらし牛を叱してきて北に向かはしむ

一車の炭の重さ千余斤

きゅう使駆しかればをしみ得ず

半疋はんぴき紅紗こうしょう一丈の綾

牛頭にけて炭のあたひに

『売炭翁』の現代語訳

炭焼き爺様は

南山の山奥で木を切ってそれを炭に焼いている

顔中に塵や灰を浴びすすけている

左右の耳ぎわの髪も灰色に

十本の指は炭の粉で黒くなっている

炭を売りお金を得てそれを何に使っているのか

身に着ける衣、口に入れる食べ物

気の毒に爺様が今着ているのは夏用の薄い衣

それなのに炭が安いと困るのでもっと寒くなれと願う

夕べから郊外では雪が一尺も積もっている

明け方炭車に牛をつないで凍ったわだちをきしらせて

牛は疲れ爺様も空腹、陽はすでに高く昇った

市場の南門の外、ぬかるみの中で休む

身も軽く二頭の馬でやってくるのは誰

黄色い服の役人と白い服の助手の若者

手におふれを掲げ天子さまのご命令だと

牛車の向きを変え牛を駆り立て北に向かう

炭車の重さ千余斤

お役人が持っていくぞと言えば逆らえない

半疋の生絹に一丈の綾絹

牛の頭にかぶせてこれが炭代だと言う

目の前に情景が浮かぶリアルな詩です。

内容も言葉も実に分かりやすい詩ですが、白居易の詩の特徴の一つにわかりやすさがあります。

漢詩というのは膨大な古典の知識を元に言葉をあやつって己が感慨を述べる芸術と言ってもいいのですが、白居易の詩はそれら古典の知識を必要とせず、誰でもわかるがモットーでした。

そのために詩を書き終えると、学のない老女に読んで聞かせ、老女が首を横に振れば、意味がわかるまで書き直したそうです。

日本で白居易の詩が人気だったのもこのことと関係があるでしょう。

なぜそこにこだわったかと言えば、やはり詩を通して世直し・世のなかを改善したいという理想があったからだと言います。

これぞまさに儒教精神なのでしょう。儒教は現世に生きる人間の生き方を改善していこうという道徳で、これを体得し社会を改善していこうとするのが中国の官僚詩人の伝統でした。

杜甫の作品にも『石壕の吏』などこれと似たものがたくさんあります。

『白氏文集』(はくし もんじゅう)は白居易の詩集ですが、清少納言が『枕草子』の中で「文(ふみ)は文集(もんじゅう)、文選(もんぜん)」と書いているように、当時の日本の貴族や文人の中で『白氏文集』は必読書でした。また天満宮で有名な菅原道真(すがわら みちざね)は白居易に深く傾倒し、彼が編纂した『和漢朗詠集』の中国詩人の部ではその6割が白居易の詩で占められています。平安貴族たちがいかに彼の詩を愛したかがわかります。

ところで『炭を売る翁』のような詩には日本人はあまり興味を持たなかったといいます。当時の中国と日本では社会の発展段階が違っていたでしょうし、日本人の生来の好みとしては「美」、特に自然美や情緒の美に惹かれる傾向があったのかもしれません。

最後に白居易の代表的な詩をもう一つ紹介しておきましょう。『琵琶行』(びはこう)といい、これもストーリー性のある長い詩ですが、その中で琵琶の名手が弾く琵琶の音色を詩に詠んだ部分を下に挙げます。一つ一つの漢字に琵琶の音色がこめられているのだ、と評している音の専門家もいます。

『琵琶行』(抄)の書き下し文

大弦は嘈嘈そうそうとして急雨のごとく、小弦は切切として私語のごとし。

嘈嘈、切切、錯雑して弹けば、大珠、小珠、玉盘に落つ。

間関かんかんたる鶯語おうごは花底になめらかに、ゆうえつせる泉流は氷下になやむ。

氷泉は冷渋して弦は凝絶し、凝絶して通じず、声はしばらくやむ。

別に幽憂暗恨あんこん生ずるあり、この時声なきは声あるに勝る。

ぎんぺいたちまち破れて水漿すいしょうほとばしり、鉄騎突出してとうそう鳴る。

曲終わりばち収めて心に当てて画す、四弦の一声はくを裂くがごとし。

『琵琶行』の書き下し文

太い弦はザワザワと激しい雨の音のよう

細い弦はヒソヒソと内緒話をしているよう

ザワザワとヒソヒソが交じり合えば、大小の玉が玉の皿に落ちるかのよう

のどかな鶯の鳴き声が花の下でなめらかに響き

むせび泣く泉の流れが氷に閉ざされて行く道を遮られる

氷の下で泉は凍り付き、弦もまた凝結して流れは途絶え音はやむ

ひそかな憂いと恨みが生まれ、この時音がやむのは音があるより良い

しばらくすると銀の甕が破れて中から水がほとばしり

鉄の鎧をまとった騎兵が飛び出して、刀や槍を打ち鳴らす

曲が終わると撥を収めて弦の真ん中をザっと払う

四つの弦が同時に鳴らす音は絹を引き裂くよう

琵琶…あまりなじみのない楽器ですが、蘇州の世界遺産・「拙政園」では琵琶の生演奏を聴くことができます(たぶん今も)。観光客がちょっと足を止めただけですぐ通り過ぎていく前で若い演奏者が無心のさまで琵琶を弾き続けていたのですが、その音色のすばらしさが印象に残っています。

白居易が活躍した時代

唐の時代区分(初唐・盛唐・中唐・晩唐)

唐詩が書かれた時代は、しばしば初唐(618~709)・盛唐(710~765)・中唐(766~835)・晩唐(836~907)に分けて説明します。時代の変化を表わすとともに、詩の持ち味の変化も表します。

白居易が活躍したのは中唐~晩唐の頃です。

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