杜甫
杜甫と言えば李白と並んで中国古代の二大詩人です。この二人の詩を知らない人でも名前だけはどこかで聞いたことがあるでしょう。
ここではその二大詩人のひとり杜甫(と・ほ 712~770)の人生とその詩について紹介します。
杜甫とは
杜甫と言ったらどんなイメージが浮かぶでしょうか。杜甫…「国破れて山河あり」は杜甫だっけ?それとも李白?こんな言葉が出てくればたいしたものです。普通は名前は聞いたことがあるけれど、どんな詩人かは浮かんできません。外国の大昔の詩人ですものね。
ところが李白同様、杜甫も知れば知るほど興味深く、その苦渋に満ちた人生は痛ましく、その詩と生き方は今も私たちの心に強く響くものがあります。
痛ましい?…あんなに高名な詩人なのに?
今でも詩を書くことだけで食べていける人はほとんどいないでしょうが、それでも教員になるなど二足の草鞋をはけば詩人としてやっていけるでしょう。当時は詩人という職業はなく、詩文を書く人は官職…つまり政府の役人になることを目指すしかありませんでした。この仕官の道が大変で、あの有名な科挙に合格するか(合格率はきわめて低い)、有力者の強力な推薦を受けるかなどしかない極めて狭き門でした。
杜甫も若いころから仕官の道をめざしますが、官職に就けるまでが大変。杜甫は生活苦の中で子供をひとり餓死で失っています。人生の半ば過ぎやっと官職に就きますが、それでも人生の大半を貧困の中で過ごしました。
それではその人生を以下で紹介しましょう。
杜甫の生まれと育ち
杜甫は712年唐の玄宗皇帝が即位した年に、唐の都・長安の隣、河南省洛陽から東に5~60キロ行った小さな町で生まれました。
杜甫の家柄は代々官吏で、この点李白と比べると立派な家柄の出。祖先には杜預(と・よ)という『春秋左氏伝』の注釈をした学者にして将軍である人物がおり、祖父・杜審言(と・しんげん)も有名な詩人でした。つまり杜甫は名門の家系に生まれたのです。
杜甫は両親を早くに亡くし、父の妹である叔母に育てられました。この叔母は自分にも子がありながら杜甫に深い愛情をかけてくれ、杜甫は後々まで感謝の思いを持っていました。杜甫は自分が悲しむ時、同じ悲しみにくれている見も知らぬ人にも思いを寄せるという個性の持ち主なのですが、この個性はこの叔母に育てられたことによって培われた部分もあるのかもしれません。
名門の出として杜甫の人生は最初から決まっていました。科挙を受けて官職につくことです。今受験勉強といえば家にこもるか予備校などに行って黙々と励むわけですが、当時は詩文を学ぶと同時に旅に出て有力者と顔をつないでおくのも大切なことでした。
そこで杜甫20歳、呉楚(東南の沿岸地帯)への旅に出ます。
4年後にまた洛陽に戻り科挙の試験を受けますが、合格率1%ほどの難関。不合格でした。
家庭を持つ
杜甫30歳の時に洛陽で役人の娘と結婚し家庭を持ちます。杜甫は生涯この奥さんを大切にし、奥さんもまた優秀でありながら不遇であり続けた夫から離れることはありませんでした。後に安史の乱で安禄山の軍につかまり長安で軟禁された頃この妻を詠んだ詩があります。すでに5人の子供をなし貧しさに疲れ果てた中年の夫婦でありながら、妻は詩の中で若く美しく、やや違和感ありですが美しい五言律詩です。
妻を詠んだ詩『月夜』
『月夜』の原文
今夜鄜州月
閨中只独看
遥憐小児女
未解憶長安
香霧雲鬟湿
清輝玉臂寒
何時倚虚幌
双照涙痕乾
『月夜』の書き下し文
今夜鄜州の月
閨中只独り看るならん
遥かに憐れむ小児女の
未だ長安を憶ふを解せざるを
香霧に雲鬟湿い
清輝に玉臂寒からん
何れの時か虚幌に倚り
双に照されて涙痕乾かん
『月夜』の現代語訳
今夜鄜州(この時杜甫の家族がいた場所)の空にかかる月を
妻は閨で独り眺めていることだろう。
可哀そうな幼い子供たちは
父が長安でとらわれの身になっていることなどまだ何もわかるまい。
妻は豊かな髪を夜霧に湿らせ
衣から出た美しい白い肌は月の光に寒々と照らされていることだろう。
いつになったら帳に寄り添って
二人涙の乾いた顔を月の光に照らす日が来るだろう。
洛陽で李白に会う
洛陽で暮らすようになった杜甫は科挙は受けずに権力者の知遇を得ることで仕官の道をさぐっていたようです。その頃この洛陽で杜甫は李白に会います。杜甫33歳、李白44歳、二人は一回りほど年が違い、その個性も真逆と言っていいほどでした。杜甫は生真面目、李白は破天荒、杜甫は繊細な優しさを胸に秘め、李白は無邪気で魅力的なエゴイスト…。
杜甫は仕官の道をさぐっていた時代、李白はやっとつけた官職を2年で追い払われ、再び旅に出た時代。一生を旅に暮らした二人はたまたまここで出会い、意気投合し、いっしょに名所旧跡めぐりなどをしているのです。
中華民国時代の詩人・聞一多(ぶん・いった 1899~1946)はこれを評して「大空で太陽と月が鉢合わせをした」と書いています。
官職に就く
35歳の杜甫は生活に追われ、いよいよ官職につかなければどうにもならないと長安に向かいます。ここで貴顕高官たちに名前を売るべく奔走するのですが、そうしたことには本来まったく向かないたち。苦節10年、44歳になった杜甫はやっと官職に就きます。右衛率府兵曹参軍(うえい そつふ へいそう さんぐん)、護衛部隊の武器管理の役人で、官職とはいえだいぶ低い役職です。役人になって天子を助け人民を幸せにするのだという若き日の杜甫の理想とはだいぶかけ離れていました。それでも俸給をもらえる身分になったのです。親族に預けておいた妻子を迎えに行くと、そこではなんと一番下の息子が餓死していました。まだ幼児でしたから、栄養失調の場合こうした小さい子供から亡くなっていくのでしょう。それにしてもきらびやかな玄宗と楊貴妃の時代、名家の出であっても子供が餓死してしまうなどということがあったのですね…
杜甫はこの子の死について『京より奉先県に赴き懐ひを詠ず 五百字』という長い詩(五言古詩)の中で触れ、詩の中で慟哭しているのですが、その詩の最後の方では「私は庶民と違って納税や出征の義務はない。そうでない人々はどれほど苦しい思いをしているだろうか」と詠んでいて有名です。「杜甫は我が子が餓死しても、そこで悲しむだけではなく同じような思いに悲しむ人々を思う」と。
これがすばらしいことなのかどうか意見は分かれると思いますが、杜甫という人はそういう人だったのでしょう。
安禄山の乱に巻き込まれる
その頃安禄山の乱が起こり杜甫はこの動乱に巻き込まれ、安禄山側の軍隊に捉えられて長安で軟禁されてしまいます。その頃作られた詩が有名な『春望』です。
『春望』
『春望』の原文
国破山河在
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵万金
白頭掻短
渾欲不勝簪
『春望』の書き下し文
国破れて山河在り
城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺ぎ
別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火三月に連なり
家書万金に抵る
白頭掻けば更に短く
渾て簪に勝へざらんと欲す
『春望』の現代語訳
我が朝廷は国家が破壊されてしまったというのに山河は今もここにある。
長安の町は春を迎えたけれど草木だけが勢いよく生い茂っている。
世の移り変わりに心痛み、花を見ても涙が流れる。
家族との別れを思って鳥のさえずりにもびくびくしてしまう。
いくさの烽火は三か月続き
家からの手紙は万金に値する
白くなった頭を掻けばいっそう短くなり
かぶり物の簪をさすこともできない。
これも五言律詩ですが、杜甫は律詩という最初の聯(第1句と第2句)と最後の聯(第7句と第8句)で中の2聯4聯をはさみ、この2聯4聯をそれぞれ対句にする詩型の完成者と言われています。
またこの詩は日本でも昔から有名で、芭蕉もこれを下敷きに「夏草や つわものどもが 夢の跡」と俳句に歌っています。
脱出と左遷
その後玄宗の子・粛宗が即位し唐王朝は落ち着きを取り戻していきますが、この頃杜甫は軟禁されていた長安から決死の脱出を試み成功します。その後左拾遺という役職に就くのですがまもなく天子に諫言したことが原因で左遷されてしまいます。左遷され鬱々とした日を送り酒に溺れた詩も書いている杜甫ですが、やがて地方での職務の中でいくさによって苦しむ庶民の姿を目にし、それをすぐれた詩に描いています。有名な「三吏三別」という6首の詩です。下に挙げたのは中でも傑作と言われる『石壕の吏』です。
『石壕吏』
『石壕吏』の原文
暮投石壕邨
有吏夜捉人
老翁逾墻走
老婦出門看
吏呼一何怒
婦啼一何苦
聴婦前致詞
三男鄴城戍
一男附書至
二男新戦死
存者且偸生
死者長已矣
室中更無人
惟有乳下孫
有孫母未去
出入無完裙
老嫗力雖衰
請従吏夜帰
急応河陽役
猶得備晨炊
夜久語声絶
如聞泣幽咽
天明登前途
独与老翁別
『石壕吏』の書き下し文
暮に石壕の邨に投ず
吏有り夜人を捉う
老翁墻を逾えて走り
老婦門を出でて看る
吏の呼ぶこと一に何ぞ怒れる
婦の啼くこと一に何ぞ苦しき
婦の前んで詞を致すを聴くに
三男鄴城に戍る
一男書を附して至る
二男新たに戦死すと
存する者は且く生を偸み
死せる者は長へに已みぬ
室中更に人無く
惟だ乳下の孫有るのみ
孫に母の未だ去らざる有るも
出入に完裙無し
老嫗力衰へたりと雖も
請ふ吏に従つて夜帰せん
急に河陽の役に応ぜば
猶ほ晨炊に備うるを得ん
夜久しうして語声絶え
泣いて幽咽するを聞くが如し
天明前途に登り
独り老翁と別る
『石壕吏』の現代語訳
暮に石壕の村で宿をとった
夜役人が兵隊にしようと人をつかまえにきた
宿の老主人は垣根を越えて逃げていった
宿の老女は玄関まで出ていった
役人が怒って怒鳴る
老女はただ泣きくれる
彼女は前に進み出てあいさつを述べる
息子三人兵隊として鄴城で守りについておりました
そのうちの一人が手紙を寄こしました
それによると息子二人は戦死したとのことです
残された者はなんとか生きていますが
死んだ者はもう帰ってはきません
我が家にはこれ以上兵に出す人間はおらず
まだお乳を飲んでいる孫がいるばかり
孫の母親はまだこの家におりますが
外に出ようにもまともなスカートもないありさま
この私め老いて力は衰えましたが
お役人様についてこれからお役所に行かせてください
急いで河陽で仕事につくなら
朝食の支度ぐらいはできるでしょう
夜が更け話し声も絶えた
むせび泣く声が聞こえてきた気がする
夜が明け旅を急ごうと
宿の主の老人ただ一人に別れを告げる
石壕という村での見聞を主としてそこの宿の老女の口を通して語らせた詩です。詩人の嘆きの声も説明もないだけに胸に沁みる歌です。
職を捨て漂泊の旅へ
759年杜甫48歳の年に杜甫はあれだけ求め続けた官職を捨て、再び家族を連れて漂泊の旅に出ます。770年59歳のその死まで11年にわたる、飢えから逃れるための厳しい旅です。
なぜ杜甫は生活が安定しプライドも保てる公務員という仕事を捨てたのか。今も謎とされています。左遷され鬱々としていた時期ですから、プライドを傷つけられるちょっとした出来事が引き金になったのかもしれませんし、辞めないわけにはいかない大きな出来事があったのかもしれません。李白に比べると当時どう生きたかを明かす文章が残っている杜甫ですが、今もってこの謎は解けないようです。
ともあれまだ未成年である子供たちや妻など家族・使用人(家族同然の存在であったと思われる)を引き連れ、なんとか食べていかなくてはなりません。そこで援助してくれそうな人を求めて杜甫は各地を旅して歩きます。『秦州雑詩』其の一に「満目悲生事 因人作遠遊」(すべてこの世は悲しいことばかり 人を頼って遠い旅に出る)とあります。
760年杜甫は蜀の成都に落ち着きここで人の援助を受けて家を建て、近くに流れる川の名にちなんで浣河草堂と名付けます。この時期ずっと杜甫の保護者的存在だった厳武がここの節度使、すなわちこの地の長官になっていて杜甫は心強く暮らしています。建てた家の庭に竹や松の木、果樹などを植え、杜甫の人生に珍しく、ほのぼのとした暮らしの穏やかさと落ち着きが伝わってきます。
ところが厳武は40歳の若さで亡くなってしまい、後ろ盾を失った杜甫は数年間穏やかな日々を送ったこの家を引き払いことになります。その後長江を船で下り江南の町を転々とするのですが、すでに50半ば、体のあちこちにガタが来て目も耳も悪くなり人生が好転する気配はありません。それでも杜甫はいつかは長安に戻るという夢を捨てることなく詩を書き続けます。
望郷・悲嘆・そして旅に死す
最後は川を移動する小舟に病身を横たえそこで亡くなったとされています。59歳でした。最後まで長安に戻ることを念じながら旅先で窮死するという人生の幕の閉じ方はあまりに気の毒な気がしますが、杜甫を敬愛した芭蕉はこの死にも詩人としての理想的な死に方を見ていました。
杜甫の作品は約1500首残されており、唐詩の詩人たち全作品5万首のなかできわだって多く、これは杜甫が亡くなった時18歳くらいだった息子の息子、つまり孫がきちんと保存したのだろうと見られています。最晩年に近い作品に『岳陽楼に登る』があります。杜甫57歳の詩です。
『登岳陽楼』の原文
昔聞洞庭水
今登岳陽楼
呉楚東南坼
乾坤日夜浮
親朋無一字
老病有孤舟
戎馬関山北
憑軒涕泗流
『登岳陽楼』の書き下し文
昔聞く洞庭の水
今登る岳陽楼
呉楚東南に坼け
乾坤日夜浮ぶ
親朋一字無く
老病孤舟有り
戎馬関山の北
軒に憑れば涕泗流る
『登岳陽楼』の現代語訳
昔から洞庭湖の眺めを耳にしていた
今その湖畔に建つ岳陽楼に登る
呉と楚、二つの国は洞庭湖で東南に分けられ
太陽と月とを昼と夜代わる代わるに湖面に浮かべる
親族友人からの手紙一通なく
老いて多病の身には舟が一隻あるのみ
関所の山なみの北は今も戦火が絶えない
岳陽楼の軒にもたれて涙を流す
壮大な風景と卑小な自分と。
後世「詩聖」と崇められる詩人の最晩年の記録です。
杜甫が活躍した時代
唐詩が書かれた時代は、しばしば初唐(618~709)・盛唐(710~765)・中唐(766~835)・晩唐(836~907)に分けて説明します。時代の変化を表わすとともに、詩の持ち味の変化も表します。
杜甫が活躍したのは盛唐の頃です。