『旅夜書懐』杜甫
『旅夜書懐』は、杜甫最晩年の作品の1つで、病躯を抱え家族を引き連れ船で放浪の旅を続けるある夜の風景と、その中で自分の人生を苦く思い返す詩です。
ここでは『旅夜書懐』の原文・書き下し文・現代語訳・解説・作者である杜甫の紹介をしていきます。
『旅夜書懐』の原文
細草微風岸
危檣独夜舟
星垂平野闊
月湧大江流
名豈文章著
官応老病休
飄飄何所似
天地一沙鷗
『旅夜書懐』の書き下し文
細草(さいそう)微風の岸
危檣(きしょう) 独夜(どくや)の舟
星は平野に垂れて闊(ひろ)く
月は大江(たいこう)に湧いて流る
名は豈(あに)文章もて著(あらわ)れんや
官は応(まさ)に老病にて休(や)むべし
飄飄(ひょうひょう) 何の似(にた)る所ぞ
天地の一沙鷗(いちさおう)
『旅夜書懐』の現代語訳
川辺に生える細い草が微風に揺れる岸辺。
高いマストの元で一人過ごす夜の船。
見上げれば満天の星が広大な平野に降り注ぐ。
月光は大河の川面を照らし、揺れる波にまるで湧き立つかのように流れていく。
しがない詩文を書くだけでは名を立てられるはずもない。
といって任官して活躍したくても老いて病気持ちときてはその可能性もない。
ふらふらと風に流されるだけの我が身、いったい何に似ているやら。
天と地の間をさまよう一羽のカモメ、それが私なのかもしれない。
『旅夜書懐』の解説
第1句…「細草」は「細い草」。
第2句…「危檣」は「高い帆柱」。
第3句…「星は平野に垂れて」は「満天の星が平野に降りそそぐさま」。「闊く」は「(その平野)はどこまでも広がっている」。
第4句…「大江」は「大きな川」。「月湧」は「月の光が川面で湧くように輝く様子」。
第5句…「名」は「名声や名誉」。「豈」は反語を作る表現。「どうして~という事になり得ようか」。詩作などが名声や名誉に結びつくはずがない、ということ。官職につくことこそが名声、名誉に結びつくのだと言っています。
第6句…「官」は「朝廷の役人」。「応」は「まさに~べし」と読ませ、「きっと~なることだろう」。「老病」は「年老いて病気である」。
第7句…「飄飄」は「風に吹かれてさすらうさま」。「何の似る所ぞ 」は「何に似ているだろうか」。
第8句…「沙鷗」は「カモメ」。「天地の一沙鷗」で「天と地の間をさまよう1羽のカモメ」。カモメは漢詩において「自由な隠者」のイメージを持ちますが、この詩の中ではそうしたポジティブな意味はありません。
満天の星、輝く月、広がる平野を遠くに、葦の草むらを近くに眺める岸辺の船。もやいに繋がれてタプタプと音を立てて揺れているのでしょう。風情ある川辺の景色が後半一転暗鬱なものに変わります。
それもそのはず、この詩が書かれたのは杜甫最晩年。寄る辺を求めて舟に家族を乗せ、白帝城から出発して南下していくその舟の中で、杜甫は59歳で客死しています。
亡くなる少し前は5日間口にするものが何もなかったとも伝わっています。後に偉大な詩人として歴史に名前を残す杜甫ですが、亡くなるまで富にも権勢にも縁がありませんでした。さらには糖尿病、肺結核、マラリア、中風などさまざまな病にも苦しんでいました。体中に痛みを抱え、耳も聞こえづらくなっていたといいます。
こうした状況にもかかわらず、まだ身を立て名を上げ…任官して世のために活躍したいと願っていたのでしょう。後に「詩聖」と呼ばれるようになる優れた詩人でありながら、詩では活躍できないと詩の力を見限っていたのかもしれません。
自分の持つ最大の才能の力を信じることもできず、老いて病弱ということになれば、自分の人生を寂しく笑うしかありません。
私は空と海の間を彷徨う1羽のカモメだと自嘲する姿は悲痛ですが、こんなふうに自分をあざ笑うひとときは誰にもあるものでしょう。この詩がよく読まれるのは、誰にでも訪れる人生のどん底の思いを、自分に代わって詠ってもらうことで慰めを得ることができるからかもしれません。
ちなみに海のカモメがなぜこの詩に登場するのだろうと不思議に思ったら、長江にはカモメがやってくるんですね。杜甫は船からよくカモメを眺めていたのかもしれません。
『旅夜書懐』の形式・技法
五言律詩(5語を1句として全部で8句となる詩型)です。
「押韻」…舟・流・休・鷗
『旅夜書懐』が詠まれた時代
唐詩が書かれた時代は、しばしば初唐(618~709)・盛唐(710~765)・中唐(766~835)・晩唐(836~907)に分けて説明します。時代の変化を表わすとともに、詩の持ち味の変化も表します。
『旅夜書懐』が詠まれたのは盛唐の頃です。
『旅夜書懐』の作者「杜甫」について
杜甫(とほ…712~770)
杜甫は李白とともに唐のみならず中国を代表する詩人です。李白より一回りほど若く、李白と交流もありました。
杜甫は代々の名家に生まれ、任官すべく20代で科挙の試験を受けますが失敗。その後科挙ではなく、権力者とつながりを持つことで任官への道を探ります。その苦労が実った時はすでに44歳になっていました。親族に預けておいた妻子を迎えにいくと、下の息子は餓死していたといいます。その後は安禄山の乱に巻き込まれて軟禁されたり、脱出したり。やがて何とか落ち着いたのもつかの間、天子への諫言をしたことで今度は左遷の憂き目に遭います。
48歳の年には、はっきりとした理由はわからないのですがせっかくの官職を捨て、援助者を求め、家族を連れて放浪の旅に出ます。翌年には有力者の援助を受け、しばらく成都に落ち着いて穏やかな暮らしを楽しみますが、やがてこの有力者が亡くなると再び船で旅立ち、59歳で窮迫の中船中で病死しました。
杜甫は玄宗皇帝が即位した年に生まれ、唐王朝最盛期という華やかな時代に生きましたが、その恩恵にあずかることもなく、やがて安禄山の乱にも巻き込まれ、富や地位には恵まれずに一生を終えました。が、こうした人生の喜怒哀楽を詩に託し、後世に残る優れた作品を残しました。
『旅夜書懐』は亡くなる少し前に自分の人生を振り返った作品です。いくつもの病気を抱えて、あてもなく船で旅するという厳しい日々だったと思いますが、その精神には毅然としたものを感じます。自嘲の響きはありますが、そうした自分を草や星や月と同様に、少し離れたところから眺めている観察者、表現者としてのもう一人の杜甫がいて、辛い人生でもその精神は少しも崩れていないと感じられます。
杜甫の作品は杜甫の息子の息子、つまり孫がまとめたといわれていますが、杜甫が亡くなった時息子は18歳、同じ船の暮らしで父と苦難を共にしていました。彼はおそらく父の作品を大切に保管し、長じて自分の子供を持つと、お前の祖父の作品をまとめたいと子に言い含め続けたのではないでしょうか。杜甫の作品全体に感じる人柄の優しさが、子や孫にも受け継がれたような気がします。