『送元二使安西』王維

『送元二使安西』王維

送元二使安西』(げんじの あんせいに つかいするを おくる)は、盛唐の詩人・王維(おう・い…669~761)によって詠まれた詩で、古来送別の詩を代表するものとして歌われてきました。

ここでは『送元二使安西』の原文・書き下し文・現代語訳・解説・作者である王維の紹介などをしていきます。

『送元二使安西』の原文

渭城朝雨浥軽塵

客舎青青柳色新

勧君更尽一杯酒

西出陽関無故人

『送元二使安西』の書き下し文

渭城いじょう朝雨ちょうう軽塵けいじんうるほす

客舎青青柳色新たなり

君に勧む更に尽くせ一杯の酒

西のかた陽関をづれば故人無からん

『送元二使安西』の現代語訳

送別の地この渭城で朝雨が降り、通りの土ぼこりを洗ってくれた

旅籠の周囲に植えられた柳は朝の雨に洗われて緑色が美しい

さあ君よもう一杯杯を傾けてくれ

西の果て陽関を出れば知る人もいなくなるのだから

『送元二使安西』の解説

題名『送元二使安西』

「元二」は「元」が姓で、「二」は名ではなく兄弟の順番を示すもの。この人が誰を指すのかはわかっていません。

「安西」は「安西都護府」、西域を統轄するために置かれた役所。今の新疆ウイグル自治区のクチャ(庫車)付近にありました。

第1句「渭城朝雨浥軽塵」

第1句…「渭城」は「咸陽」のこと。長安と渭水をはさんで北側にあります。西域に行く人を見送る場合ここで別れるのが常でした。西域に通じる道は車馬が埃を立てて行き交っています。ところが今朝雨が降って土埃の道を潤してくれました。別れの日の雨は日本なら気分が沈みますが、乾燥の地では汚れをきれいに流してくれるすがすがしい雨です。

第2句「客舎青青柳色新」

第2句…「客舎」は「旅籠(はたご)」。旅籠の前の通りに植えられている柳の木は雨に洗われて緑色が生き生きとしています。柳の枝は別れのシンボル。かつてはこの枝を輪にして旅人に送り無事を祈りました。王維もまたこの雨に現れた柳の一枝を友人に渡したのかもしれません。

第3句「勧君更尽一杯酒」

第3句…なんども別れの杯を傾けあったのでしょう。それでも名残は尽きず、「さあもう一杯」と声をかける、その言葉がそのまま3句になっています。

第4句「西出陽関無故人」

第4句…「陽関」は今の甘粛省にあって西域に通じる関所でした。陽関の向こうは荒野です。「故人」は「古くからの友人」。

有名な送別の詩で、後に曲もつけられ唐代にはおおいに流行しました。中国では古くから友人との別れといえばかならずこの詩が朗詠されてきたそうです。

別れの詩のわりには悲しみよりもすがすがしさがあります。1句2句の「朝雨」「青青」「柳色新」などがそのイメージを作っています。

当時唐の王朝は絶頂期、西域との交流も非常に盛んでした。西域に行くことにうらぶれた感じはなく、「壮挙」としてとらえられていました。この気分が詩の前半に反映されているのでしょう。それでも一度別れたらいつまた会えるかわからない時代です。別れは少しでも先に延ばしたい、その名残惜しさ、別れの辛さが後半で表現されています。

『送元二使安西』の形式・技法

『送元二使安西』の形式……七言絶句(7語を1句として全部で4句となる詩型)です。

『送元二使安西』の押韻……塵・新・人。

『送元二使安西』が詠まれた時代

唐の時代区分(初唐・盛唐・中唐・晩唐)

唐詩が書かれた時代は、しばしば初唐(618~709)・盛唐(710~765)・中唐(766~835)・晩唐(836~907)に分けて説明します。時代の変化を表わすとともに、詩の持ち味の変化も表します。

『竹里館』が詠まれたのは初唐・盛唐の頃です。

『送元二使安西』の作者「王維」について

王維(おう・い…669~761)は李白や杜甫と同時代の人ですが、この二人とは違って若くして科挙に合格し、役人としてまずまず順調な日々を送ります。また絵や書、音楽にも高い才能を発揮し、宮廷詩人として活躍しました。

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