『春暁』孟浩然

『春暁』孟浩然

春暁しゅんぎょう』とはもう浩然こうねんという唐の時代の詩人による五言絶句(5文字1句で全部で4句になる形式の詩)で、日本では中学校の国語の時間などに学び、よく知られています。春先の寝坊のいいわけに使う人もいるかもしれません。

ここでは『春暁』の原文・書き下し文・現代語訳・解説・作者である孟浩然の紹介などをしていきます。

『春暁』の原文

春眠不覚暁

処処聞啼鳥

夜来風雨声

花落知多少

『春暁』の書き下し文

春眠しゅんみんあかつきを覚えず

処処しょしょ啼鳥ていちょうを聞く

夜来やらい風雨の声

花落つること知る多少ぞ

『春暁』の現代語訳

春の明け方ぬくぬくと気持ちよく眠っている

あちこちから鳥のさえずりが聞こえてくる

そういえば夕べは風雨の音がひどかった

花はどれほど散ってしまっただろうか。

『春暁』の解説

第1句、第2句

春の朝、ふとんの中でまったりしているのはなんとも心地よい。

夢の中で小鳥たちの朝のさえずりがあちこちから聞こえてくる。

「処々」は「あちらこちら」。「啼」は「鳴く」。

この2句の気分はとても良くわかります。少し目が覚めかかったころ、もうちょっとと体温でぬくもった布団の中で惰眠をむさぼる心地よさ。

仕事のある人はこんなことは言っていられません。自分に叱咤激励してなんとか体を起こし、「ああまた仕事だ…」と立ち上がります。

孟浩然という人は科挙に受からず官職に就けずに不遇の人生を送った人です。もし当時の王朝で役人になっていたとしたら、出勤はまだ夜が明けないうちだそうです。朝寝坊など絶対に不可能でした。

第3句

第3句になると、前2句と雰囲気が一転します。漢詩のテクニック、「起承転結」は「始まり」「それを受け」「場面が転換し」「結びとなる」ものですが、ここはまさに場面の転換となっています。

「夜来」は「昨夜」あるいは「夕べから」。前の晩はちょっとした嵐だったのでしょう。夜通し風雨の音が聞こえていたのかもしれません。今朝の気持ちのよい朝は嵐が去った後もたらされたものです。ぼんやりした頭が少し覚めてきて「そういえば夕べはひどかったなあ…」と思い出します。

第4句

第4句「多少」は「どれほどか」。ここを「ずいぶんと散ってしまったことだろう」とする解釈もあります。1句2句のほのぼの感とはやや違った味わいで詩の最後を結んでいます。官職につけず放浪している自分の身を思っての感慨かもしれません。

『春暁』の形式・技法

『春暁』の形式……五言絶句

『春暁』の押韻……「暁、鳥、少」で韻を踏んでいます。

この詩は自然の中での生活を詠んでいますが、このタイプの詩は一つの詩派を作っています。同時代の王維にもこうした詩が多く、王維と孟浩然は「王孟」と並び称されています。二人は実生活でも仲が良かったと言われています。

『春暁』が詠まれた時代

唐の時代区分(初唐・盛唐・中唐・晩唐)

唐詩が書かれた時代は、しばしば初唐(618~709)・盛唐(710~765)・中唐(766~835)・晩唐(836~907)に分けて説明します。時代の変化を表わすとともに、詩の持ち味の変化も表します。

『春暁』が詠まれたのは盛唐の頃です。

『春暁』の作者「孟浩然」について

孟浩然(もう・こうねん もう・こうぜん…689~740)

名は浩で、浩然はあざなです。ですから場合によっては「孟浩」と記載されます。

李白より一回りくらい上の詩人で、李白や杜甫などとともに盛唐を代表する詩人です。

ちなみにこの「盛唐」という言い方ですが、唐代300年を4つに区切り、最初の90年ほどを「初唐」、次の55年間・玄宗皇帝の時代を「盛唐」と言います。唐の王朝は空前の繁栄を迎え、漢詩も最盛期です。次の70年を「中唐」、最後の70余年を「晩唐」と言います。

この時代、詩文を学んだ人は9割9分仕官しかん(官職について役人になること)の道を選ぶのですが、これはそう簡単なことではありません。人材登用試験である「科挙かきょ」(隋から清朝まで約1300年続いた官僚登用試験)の合格率はきわめて低く、50歳代で合格しても「まだまだ若い」と言われていました。孟浩然はこの科挙に合格することができず、生涯を漂泊の旅に生きました。この点李白に似ていますが、二人は仲が良く、李白に孟浩然を見送る詩…『黄鶴楼こうかくろうにて孟浩然もうこうねん広陵こうりょうくを送る』があります。

官職に就けず放浪に生きるとなると、生活は常に逼迫していたでしょうし、高名な詩人とはいえ時に屈辱を受けることもあったでしょう。こうした背景を思うと『春暁』という明るくほのぼのとした詩ではありますが、人生の影を…特にこの詩の後半に…感じずにはいられません。