陸游
陸游(りく・ゆう…1125~1209)は南宋の詩人で、自然を詠み、天下国家を論じる詩を詠みました。号を放翁といいます。
ここでは陸游の生涯と漢詩について紹介します。
陸游とは
陸游は北宋が滅びるころ生まれ、赤ん坊のころ親に連れられて南に逃げ、浙江省の紹興に育ちます。85歳で亡くなるまで生涯に1万首もの詩を作りました。
金によって占領された中国北部の回復を願った詩を詠い続け「愛国詩人」「憂国詩人」と呼ばれました。
30歳で科挙を受験しますが、トップを争うような成績だったのに「金」と徹底抗戦を主張する派だったため、「金」との和睦を主張する「秦檜(しん・かい)」によって落第させられます。38歳で官職に就きますが官界では不遇で何度も免職処分を受け、故郷・紹興で隠遁生活を余儀なくされました。
ちなみにこの秦檜は金との抗戦を主張する岳飛(がく・ひ)を獄死させ、中国の代表的な売国奴として今も忌み嫌われています。
長く隠遁生活を送った故郷で国を憂う詩を書くと同時に、農村の行事や風俗を詠んだ詩もたくさん残しています。
『遊山西村』
それでは陸游が農村暮らしを詠った七言律詩を下に挙げましょう。陸游43歳の時、免職処分を受けて故郷で隠遁生活を送っている時の作品です。
『遊山西村』(山西の村に遊ぶ)
『遊山西村』の原文
莫笑農家臘酒渾
豊年留客足鶏豚
山重水複疑無路
柳暗花明又一村
簫鼓追随春社近
衣冠簡朴古風存
従今若許閑乗月
拄杖無時夜叩門
『遊山西村』の書き下し文
笑う莫れ農家の臘酒の渾れるを
豊年客を留めて鶏豚足る
山重なり水複なりて路無きかと疑ふ
柳暗く花明らかに又一村
簫鼓追随して春社近し
衣冠簡朴にして古風存す
今従り若し閑かに月に乗ずることを許さば
杖を拄いて時と無く夜門を叩かん
『遊山西村』の現代語訳
師走に仕込んだ田舎のどぶろくだとお笑いなさるな
豊作の年で客をもてなす鶏や豚の肉もたんとある
山重なり川めぐり道はここまでと思いきや
柳の茂みの先に花が明るく咲いてまた村がひとつ
笛や太鼓の音が響いてきて春祭りが近いらしい
村人の服装は純朴で古風
月をたよりにまた来てもよいと言うなら
杖をついて時を定めず夜門を叩きますぞ
1句2句は農家のあるじの言葉。3句4句は農家のあるこの村の風景。「水かさなる」は川が複雑に連なっているさまで、江南の水郷の様子を読んでいます。この句、特に4句の「柳暗花明」は成語になっていて、「美しい春景色」や「苦境のあと希望が見えてくる」ことを意味します。
陶淵明の『桃花源の記』を彷彿(ほうふつ)とさせる詩です。