『早発白帝城』李白

『早発白帝城』李白

早発白帝城』(つとに 白帝城を 発す)とは、盛唐の詩人・李白の代表作の一つ。この詩は長江上流の名勝・白帝城をうたって有名です。漢詩の朗詠によく使われます。千里(中国語の「里」は500メートル。千里は500キロ)を船一日で通り抜けるスピード感あふれる詩で、その中で「白帝」「江陵」など地名が読まれています。

ここでは『早発白帝城』の原文・書き下し文・現代語訳・解説・作者である李白の紹介などをしていきます。

『早発白帝城』の原文

早発白帝城

朝辞白帝彩雲間

千里江陵一日還

両岸猿声啼不住

軽舟已過万重山

『早発白帝城』の書き下し文

つとに白帝城を発す

あしたに辞す 白帝 彩雲さいうんかん

千里の江陵 一日いちにちにして還る

両岸の猿声えんせい 啼いて尽きず

軽舟けいしゅう すでに過ぐ 万重ばんちょうの山

『早発白帝城』の現代語訳

朝早く白帝城を発つ

早朝美しい朝焼けの雲間にある白帝城に別れを告げ

千里のかなたにある江陵にたった一日で戻る

長江の両岸からは猿の声が途切れることなく

船は軽々と幾重にも重なる山を通り抜けた

『早発白帝城』の解説

題名の「早」は「つと」と読ませ「朝早く」という意味で、「早朝白帝城を出発した」という意味です。

「白帝城」は長江の名勝・三峡にある地名で、四川省奉節県の東側の山の上にありました。2006年ここに三峡ダムができ、一帯は水の中に没しましたが白帝城は島として残りました。

白帝城
白帝城。城という漢字が使われていますが、現在は島です。

後漢の初め、公孫述がここに砦を築き「白帝」と名付けたことがこの地名の由来です。また三国時代蜀の劉備が関羽の弔い合戦に敗北して立てこもった場所でもあります。劉備はこの地に永安宮と名付けた建物を建てそこで亡くなりました。唐代にここを基礎とした町ができ、その雅称としてこの町を「白帝城」と呼ぶようになります。「城」は中国語ではいわゆる「お城」ではなく「城壁で囲まれた町」を意味します。

白帝廟
白帝城にある白帝廟。劉備が祭られています。

この詩でうたわれる白帝城は日本人の感覚では東雲(しののめ)から頭を出す美しい城をついイメージしてしまいますが、そうではなくて公孫述の砦や劉備の永安宮がまだ一部残っていたかもしれない「城(まち)」なのです。

さてここからは長江の川下りです。白帝城から千里、つまり500キロも先の江陵までたった一日で一気に向かったことになっています。500キロというと東京から京都近くまで。さすがにそれはないのでは?そのくらいの勢いということでしょうか。

実はこのころ59歳の李白は意図せずして反逆罪に問われ流罪になったのですが、白帝城で恩赦の知らせが入り喜び勇んでUターンする時の詩と言われています。標高の高い白帝城から低い江陵まで一気に戻るそのスピードには喜びの気分が後押ししているのかもしれません。もっとも別の説…この勢いのよい詩はやはり青春を生きる若者のものだろう、故郷を離れて長安をめざす旅の途中のものではないか、という説もあります。そうすると問題はなぜ「還る」という言葉を使ったかとなるのですが、その説では「還る」には「巡る」という意味もある、曲がりくねったところを船で通過していく場合、「巡る」がぴったりだといいます。

いつ、どこで作ったかがわからないものが多い李白の詩は研究者泣かせです。

白帝城

長江の両岸からは猿が啼きかわす声が絶え間なく聞こえ、山々は幾重にも重なり、船はそこを軽々と通過していきます。

軽舟というと人一人乗せた江戸のチョキ船のような形が浮かびますが、実は大勢の客を乗せた大型船だったようです。「軽舟」という表現は船のスピードを感じさせる詩的工夫かもしれません。大型船ではこの詩の軽快感は出てこないでしょうね。

「万重」は日本語では「ばんちょう」と読ませますが、これは「万重」の「重」が「重い」意味ではなく「重なる」意味だからです。現代中国語でもこの「重」はzhongではなくchongと読みます。山が幾重にも重なって長江に迫っているのですね。猿はこの山を住みかにしているのでしょう。日本の山に住む猿の鳴き声は「キーッ」という甲高い声ですが、長江の山に住む猿はどんな声なんでしょうか。1句2句4句は情景描写ですが、3句で猿の声と意表をついた存在とその声、なるほど「起承転結」(きしょうてんけつ…絶句の技法。起句でスタートし、承句で話の流れを受け、転句で変化を起こし、結句で余韻を残して終わる)の「転」をになって単調さを破っています。

『早発白帝城』の形式・技法

『早発白帝城』の形式……七言絶句(7字の句が4行並んでいます)。

『早発白帝城』の技法……「間、還、山」で押韻。

『早発白帝城』が詠まれた時代

唐の時代区分(初唐・盛唐・中唐・晩唐)

唐詩が書かれた時代は、しばしば初唐(618~709)・盛唐(710~765)・中唐(766~835)・晩唐(836~907)に分けて説明します。時代の変化を表わすとともに、詩の持ち味の変化も表します。

『早発白帝城』が詠まれたのは盛唐の頃です。

『早発白帝城』の作者「李白」について

李白
李白。

李白(りはく…701~762)

唐代を代表する詩人、というより中国文学を代表する詩人。「詩仙」とも称されます。

生涯を漂泊の旅に生き、中国文学史に輝く巨星の一つでありながら不遇の一生を送りました。

上で書いた李白59歳の時の「反逆罪」とは以下のような話です。

李白50代の半ば過ぎ、唐王朝では「安史の乱」という反乱が起きます。この乱の中でかの楊貴妃は殺されてしまうのですが、その後玄宗皇帝は蜀に逃亡し、上の息子を北に下の息子を南にやって反乱軍と戦わせます。その過程で上の息子が周りから推されて即位し「粛宗」となり、下の息子・永王は兄から反逆者の嫌疑を受けてしまいます。

事がここに至る前李白は永王に幕僚として招かれており、これが原因で粛宗に対する反逆者としてとらえられた、という話です。流罪の刑を受けた李白は辺境の地・夜郎(やろう)に向かいますが、すでに60近く、体力気力が衰える年齢で流罪とは…大詩人・李白の人生は決して順調で華やかなものではありませんでした。

こうして白帝城あたりまで来て恩赦の知らせを受けるのです。『早に白帝城を発す』の詩がこの時の詩であれば、まさに喜びが船旅のスピードを後押ししているのがよく分かるのですが、当時李白は59歳、62歳で亡くなる3年前です。余命3年にしてはややエネルギッシュすぎる詩かもしれません。

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