『子夜呉歌』李白
『子夜呉歌』は「楽府」と呼ばれる民謡のメロディにのせて作られた詩です。しみじみとした秋の情景と兵役につく夫への思いが詠われています。
ここでは『子夜呉歌』の原文・書き下し文・現代語訳・解説・作者である李白の紹介をしていきます。
『子夜呉歌』の原文
子夜呉歌 四首 其三
長安一片月
万戸擣衣声
秋風吹不尽
総是玉関情
何日平胡虜
良人罷遠征
『子夜呉歌』の書き下し文
子夜呉歌 四首 其の三
長安 一片の月
万戸(ばんこ) 衣を擣(う)つの声
秋風(しゅうふう) 吹きて尽きず
総(すべ)て是(こ)れ玉関(ぎょくかん)の情
何(いず)れの日にか 胡虜(こりょ)を平らげて
良人(りょうじん) 遠征を罷(や)めん
『子夜呉歌』の現代語訳
長安の都には月の光がふりそそぎ
どこの家からも砧(きぬた)を打つ音が聞こえてくる。
秋の風はやむことなく吹き
すべてが玉門関で兵役に就く夫をしのばせる。
いつ西域の異民族を討伐し終えて
夫は遠征から帰ってくるのだろうか。
『子夜呉歌』の解説
第1句…「一片月」は「あたり一面照り渡る月の光」。「一片月」を「ひとつの月」とする解釈もあるようですが、「片」は個数を数える量詞ではなく、広がりを意味する量詞です。「月」もここでは「月光」のこと。
第2句…「擣衣」は「衣にするための布を叩く」。当時の布をそのまま衣服にすると硬くて着づらいために、布を砧(きぬた…布地を打つ石や木の台)にのせてそれを木槌で叩き柔らかくしたのだそうです。第3句にもあるように、この詩の季節は秋。まもなくやってくる冬に備えて、暖かい冬着を作ろうとしています。「声」は「音」。
最後まで読むと、この冬着は西域で兵役に就いている夫に送る冬着であることがわかります。
第3句…「吹不尽」(吹きて尽きず)は「吹きやまない」。
第4句…「玉関」は「玉門関」のこと。漢代に甘粛省敦煌の北西に置かれた関所です。シルクロードの入り口で、ここを通して古来多くの西域国家と関わりを持ちました。
第5句…「胡虜」の「胡」は「西域の異民族」。「虜」はここでは「敵」を意味します。
第6句…「良人」は「夫」。日本語でも戦前の小説などで「夫」の意味で使われています。
この詩の大事な部分は最後の2行にあり、この詩は要するに「反戦歌」「厭戦歌」です。
当時李白はやっと悲願の官職にありついたところで、かの玄宗皇帝の側で、宮廷詩人としてのお役目をこなしていました。故郷を出て十数年、やっと才能が認められ高い地位に就けたというのに、朝廷に刃向かう反戦歌など作っていいのでしょうか。
宮廷詩人の役目は1つはもちろん皇帝を称えること、もう1つはやんわりと諫言をして皇帝による政治に役立ててもらうことでした。
古代中国において「詩」は、花鳥風月のような風流や情緒に耽溺(たんでき)するだけのものではありませんでした。皇帝の政治を諫める役目も持っていたのです。
そこで詩の最後の2行で、民は西域でのいくさに苦しんでいますよ、と詠ったわけです。
前半4句のしみじみとした情景、秋風がやまない夜…まだ風が身に沁みる季節ではないのでしょう。重労働をするには心地よい風だったのかもしれません。
月が皓皓(こうこう)と照り、砧に布をのせ木槌を振り上げては叩く女性の姿を月影がくっきりと浮かび上がらせています。
コンコンという布を打つ音があちらからもこちらからも遠く近く聞こえてきます。どこの家も冬着の支度に余念がないのでしょう。
秋の夜に響き渡る砧を打つ音は、夫を戦地に送った妻の心を揺さぶります。
その妻の心のうちが最後の2句です。
『子夜呉歌』の形式・技法
五言古詩。古詩は「古いスタイルの詩」という意味で、唐代以前からあった詩の形です。句の数や字数が決まっていないので、唐代の初めに型が定まった近体詩に比べるとわりに自由に作れる詩です。五言古詩は1句が5字です。
「声・情・征」で韻を踏んでいます。
またこの「子夜呉歌」は「楽府」(がふ)と呼ばれる民謡のメロディを使って作られています。「楽府」はもともと民情の調査をするために民間のはやり歌を収集する役所のことでしたが、やがて集められた歌そのものを指すようになり、さらには詩の形式を指すようにもなりました。
「子夜呉歌」というタイトルは「子夜という名前の娘による呉の歌」という意味で、もの悲しいメロディだったそうです。このタイトルのメロディに、李白があらたに詩をつけたのがこの「子夜呉歌」で、春・夏・秋・冬の4部作になっています。
ここで取り上げたものは、そのうちの「秋」の部分です。
『子夜呉歌』が詠まれた時代
唐詩が書かれた時代は、しばしば初唐(618~709)・盛唐(710~765)・中唐(766~835)・晩唐(836~907)に分けて説明します。時代の変化を表わすとともに、詩の持ち味の変化も表します。
『子夜呉歌』が詠まれたのは盛唐の頃です。
『子夜呉歌』の作者「李白」について
李白(りはく…701~762)
李白は蜀(今の四川省)出身で父親は豪商だったといわれています。子供の頃から優秀だった李白は唐の朝廷で官僚となるべく、一族の期待を背負って20代半ばに旅立ちます。けれども就職活動はなかなか実を結ばず、40を過ぎてやっと朝廷に入り玄宗皇帝のもとで宮廷詩人として活躍を始めました。
この詩はその頃の作品で、皇帝の政治をやんわりと批判するという宮廷詩人としての役目を果たすべく書かれたものといわれています。
玄宗皇帝の覚えめでたかった李白でしたが、やがて周囲の嫉妬を買ったとも、酒癖が悪かったからともいわれますが、わずか2年で宮廷を追われてしまいました。その後は再び当てのない放浪の生活に戻り、その中で優れた作品を残しました。
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