『登岳陽楼』杜甫

『登岳陽楼』杜甫

登岳陽楼』(岳陽楼がくようろうのぼる)は杜甫57歳、最晩年の作品です。杜甫は旅の途中59歳で亡くなりました。

夔州(きしゅう…現在の重慶)に2年間いた杜甫はその後長江を江陵まで下り、そこから都長安に向かおうとしますが、北では反乱が起こり、さらに生活を援助してくれる人が南にしかいなかったこともあって、まずは洞庭湖に更には湖南省の長沙、衡陽に向かいます。

『登岳陽楼』はこの洞庭湖畔、岳州で詠んだ歌です。

ここでは『登岳陽楼』の原文・書き下し文・現代語訳・解説・『登岳陽楼』の作者である杜甫の紹介などをしていきます。

『登岳陽楼』の原文

昔聞洞庭水

今登岳陽楼

呉楚東南坼

乾坤日夜浮

親朋無一字

老病有孤舟

戎馬関山北

憑軒涕泗流

『登岳陽楼』の書き下し文

昔聞く洞庭の水

今登る岳陽楼

呉楚東南に

乾坤けんこん日夜浮ぶ

しんぽう一字無く

老病孤舟こしゅう有り

戎馬じゅうば関山かんざんの北

のきれば涕泗ていし流る

『登岳陽楼』の現代語訳

昔から洞庭湖の眺めを耳にしていた

今その湖畔に建つ岳陽楼に登る

呉と楚、二つの国は洞庭湖で東南に分けられ

太陽と月とを昼と夜代わる代わるに湖面に浮かべる

親族友人からの手紙一通なく

老いて多病の身には舟が一隻あるのみ

関所の山なみの北は今も戦火が絶えない

岳陽楼の軒にもたれて涙を流す

『登岳陽楼』の解説

第1句「昔聞洞庭水」

「洞庭湖」は湖南省北東部にあり、かつて中国一の大きさを誇りましたが、今は土砂が堆積して面積が小さくなり中国第2の湖となっています。

第2句「今登岳陽楼」

「岳陽楼」は洞庭湖の北東の岸辺に建つ三層の楼閣で、高さ20メートル強。三国時代に呉が閲兵台として建てたものと言われています。

第3句「呉楚東南坼」

「呉楚」は呉の国と楚の国。いずれも中国の南方の国です。「東南坼」は洞庭湖が呉の国と楚の国を東と南に分けている、というスケールの大きな描写です。

第4句「乾坤日夜浮」

「乾坤」は「天と地」「男性と女性」「陽と陰」を意味しますが、ここでは「太陽と月」。太陽と月を日夜代わる代わる映す、という意味になっています。

3句とこの4句の対句は洞庭湖の圧倒的な大きさを伝えています。

第5句「親朋無一字」

「親朋」は「親族や友人」。誰からも手紙が来ない、という意味の句です。

第6句「老病有孤舟」

「老病」は「老いて病がち」。「有孤舟」は「一艘の小舟があるだけだ」。

5句6句で一転、スケールの大きな風景から我が身の描写に移っています。

第7句「戎馬関山北」

「戎馬」は「軍馬」のこと、転じて「いくさ」。「関山」は中国大陸の南北を隔てる山々のこと。生涯長安に戻って天子に仕えたいと思っていた杜甫は、最晩年にいたってもまだ都に戻ることをあきらめてはいません。

第8句「憑軒涕泗流」

第8句「憑」は「もたれる・寄りかかる」。「軒」は「手すり」。三層の岳陽楼の写真を見ると2階には手すりのような柵があります。杜甫はここに立ったのでしょうか。それとも3階の窓から?もっとも今の岳陽楼は清朝時代の1867年に建てられました。

「涕泗」の「涕」は「涙」、「泗」は「鼻水」です。杜甫はここで声を放って泣いたのでしょうか。望郷の涙でもあり、夢かなわないまま老いを迎えた我が身を悲しむ涙でもあるのでしょう。敗残の人生をそのままさらし手放しで泣く。人生に悔いのない人などいるのでしょうか。後世の人々の生の哀しみを救ってくれる率直さです。

『登岳陽楼』の形式・技法

『登岳陽楼』の形式……五言律詩(5字の句が8行並んでいます)。

『登岳陽楼』の押韻……「楼、浮、舟、流」で韻を踏んでいます。

1聯(1句と2句)、2聯(3句と4句)、3聯(5句と6句)がそれぞれ対句となっています。

『登岳陽楼』が詠まれた時代

唐の時代区分(初唐・盛唐・中唐・晩唐)

唐詩が書かれた時代は、しばしば初唐(618~709)・盛唐(710~765)・中唐(766~835)・晩唐(836~907)に分けて説明します。時代の変化を表わすとともに、詩の持ち味の変化も表します。

『登岳陽楼』が詠まれたのは盛唐の頃です。

『登岳陽楼』の作者「杜甫」について

杜甫(とほ…712~770)

李白とともに唐代を代表する詩人。「詩聖」とも称されます。役人の家系に生まれ官職につくべく努力をするのですが、なんとか低い地位の官職につけたのが44歳。その後戦乱に巻き込まれ安禄山の軍隊につかまって長安に幽閉されてしまいます。やがて唐朝はなんとか平穏を戻し、杜甫も官職に復帰します。ところが数年にしてこの官職を辞してしまうのです。その理由はわかっていません。その後は家族を連れて食べていくための放浪を続け、困窮の中で亡くなります。この詩はそうした人生の最晩年に書かれた詩です。

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