李白

李白

李白と言えば杜甫と並んで中国古代の二大詩人です。この二人の詩を知らない人でも名前だけはどこかで聞いたことがあるでしょう。

ここではその二大詩人のひとり李白(り・はく 701~762)の人生とその詩について紹介します。

李白とは

李白と言ったらどんなイメージが浮かぶでしょうか。漢文の授業を受けた人なら「静夜思」が浮かぶかもしれませんね。「床前月光を看る 疑うらくはこれ地上の霜かと…」授業中に何度も暗記させられて、今でも口から最初の二句くらいは出てくるかもしれません。

授業の中の「漢文」という科目は一般にはたぶんつまらない、でも受験のために頑張るしかないというタイプの科目で、したがって李白と言われても「昔の中国のエライ人」くらいしかイメージが浮かばないかもしれません。ゆったりとした長い着物を着てひげを生やし、難しそうな、退屈そうな…

ところがこの詩人の人生について調べてみると「エライ人」どころか「人生の落後者」に近い、生きていたときに栄光や高い地位にあずかることなく、むしろ人から嘲笑や軽蔑を受け、最期は困窮の中で亡くなっているのです。今から見ると中国文学史上の大詩人で、当時としても第一級の詩人だったのに、その詩が彼の人生に富や栄光をもたらすことはほとんどなかった…不思議ですね。

もっとも日本でも、たとえば石川啄木…明治を代表する歌人・詩人で、その歌は現代の日本人でも一つか二つはそらんじることができます。「はたらけど はたらけど なお我が暮らし楽にならざり じっと手を見る」とか「ふるさとのなまりなつかし 停車場の人込みの中に そを聞きにいく」などなど。啄木は明治45年に26歳で亡くなっていますが生きていた時はほとんど無名、彼もまた困窮の中で亡くなりました。

宮沢賢治もそうですね。今では海外でも知られるようになり人気が高まっていますが、彼もまた無名のまま37歳で亡くなっています。

さて話を李白に戻しますと、この偉大な詩人の人となりを一言で言うならとても人間臭い人で、あふれんばかりの才能を持ちながら実人生では挫折の連続、苦しみ、悲しみ、打ちのめされ…、家庭人としては結婚を繰り返し、奥さん子供は顧みず、あっちこっちに置いたままほったらかし、後世の儒教を重んじる批評家からは「酒と美女の歌ばかり」と人格面をけなされています。

中年のころの李白の風貌が彼を実際知る人によって書かれています。それによると「その目はギラギラと光り、口は飢えた狼のよう」(『李翰林集序』)だったとか。こういう風貌の人には…あまり近づきたくありませんね。どう見ても人生に問題を抱えた人です。

当時出世や社交の手段でもあった己れの詩の才能をたのんで、中央政界で栄光をきわめようと思った成り上がりの男(彼は低い身分の出身でした)。がんばってもがんばっても人生はなかなか浮上してくれません。けれども実景とイマジネーションを合体してそれを言葉で紡ぐ才能はたぐいまれなもので、これによって彼がなんとも悲痛な人生を終えた後にはたくさんの(けれども実際に作ったものの一部のみ)詩が残され、後世の人々の心の糧となったのです。

高校の漢文の時間、こういう話を聞きたかったと思いませんか。…もしかして先生は話してくれていたのかも。こちらが聞いていなかっただけで…。

李白
李白。

生まれ・幼少期から故郷を離れるまで

李白は701年、則天武后の時代(690~705…唐の高宗の皇后にして中国史上唯一の女帝)に生まれました。生まれた場所ははっきりわかっていませんが、西域…中央アジアで生まれたらしい。そうするともしかしたら異民族の血を引いているかもしれない…という説もあります。

父親は商人でかなりの資産を持っており、息子があちこち旅をして歩くのに充分な資金を与えたと言われます。また父親が商人だったからこそ、門閥を非常に重んじた唐代、宮廷での職につくには差別を受けた可能性があるというのです。父親の名前は「李客」。客は本名ではなく、「李さんという苗字のよそから来た人」という意味です。やや胡散臭い臭いがする名前で、李白が後にあちこちで「我が家は李という姓を持つ唐の王朝に連なる家系で…」と力説しても相手にしてもらえませんでした。

ただこうした話はいずれも憶測に過ぎず、というのも李白はいつ、どこで、何をしたかという記録をほとんど残していないのです。今李白についていろいろ書かれているのはおおよそ研究者の推測による、と言っても過言ではありません。

さて西域で生まれたとされる李白の一家はその後蜀(四川省)に引っ越し、李白は幼児期から25~6歳になるまでここで暮らしたようです。

この時代の李白についてわかっていることはあまり多くなく、そのうちの一つは侠客的な存在への憧れがあったらしいこと。侠客…今も使いますね、義侠心のある武力集団のことです。なぜそう言えるかと言えば上でも挙げた『李翰林集序』(魏颢という人物による唐代の書)に「(李白は)若いころ侠に任じ…」と書かれているからです。この魏颢という人は李白とつきあいのあった人物、かなり信頼性の高い情報です。まあ若い男の子ならそうしたやや無頼の匂いのする強い男への憧れがあったとしてもおかしくありません。ただ杜甫ならそのような可能性はどうみてもありませんので、こう書かれるのはやはり李白のうちに内在されていたある種の個性を表しているのかもしれません。また後年『侠客行』といった侠客をたたえる詩もたくさん書いていますので、彼らへの憧れは終生持っていたのでしょう。

もう一つは道教への関心です。李白初期の作品と言われるものに『戴天山の道士を訪うに遭わず(たいてんざんの どうしを おとなうに あわず)』というものがあり、道士に会いたくてやってきたのに会えなくて残念だ、ということを歌っています。彼が幼児期から青年期まで暮らした蜀は道教発祥の地、神仙思想の盛んな土地柄でした。彼には終生、山にこもって仙人のように暮らすことへの憧れがあったようです。

栄達への夢を抱いて故郷を離れる

李白は25~6歳のころ故郷・蜀を離れ、長江を下って江南へ向かいます。

彼が故郷を離れた理由としては、官吏になる、つまり立身出世への夢があったからです。

当時官吏になるためには、まず科挙、つまり国家公務員試験の難関を突破する必要がありました。中央官僚になるにはそれだけでなく、有力者の推薦によって官職につくという手もありました。さらには武官になって軍隊に入る、宦官になって後宮に入る、道士になって皇帝に近づくなどの方法もありました。

科挙受験は李白にとってはその家柄がネックになりました。商人の子供には門戸が閉ざされていたのです。そうすると、各地方の有力者の門を叩き、自分の才能を売り込んで宮廷に推薦してもらうというのがベストな方法です。彼が故郷を離れ全国行脚の旅に出たのはそうした理由からでした。この「自分の才能」というのが李白にとっては詩を書くことです。有力者が評価する詩というのは、ただの感性で書く詩ではなく、膨大な古典の知識に基づいて韻律を守って書かれる格調高い詩のことです。この知識こそ当時科挙合格の前提でもありました。李白は将来の栄達を夢見て、幼いころから古典の勉学に励んでいたと見られます。家族や一族もまた幼いころから才能の片りんを見せていた李白に大きな期待をかけ、勉学に励ませていたに違いありません。蜀から江南へと旅立った李白に潤沢な資金が与えられていたと見られていることからも、大きな期待がうかがわれます。

また唐王朝は道教との関わりが深く、道教の盛んな地・蜀出身の李白はこちらの方法でも宮廷に近づけるチャンスがありました。後に李白は夢に見続けた唐王朝の宮廷に官吏として登用されるのですが、それは彼が苦労した有力者推薦コースではなく、この道教コースによるものでした。

『峨眉山月の歌』

さてこうした夢を抱いて20代半ば、李白は親元を離れます。この時の詩が『峨眉山月の歌(がび さんげつの うた)』です。

峨眉山月の歌

『峨眉山月の歌』の原文

峨眉山月半輪秋

影入平羌江水流

夜発清溪向三峡

思君不見下渝州

『峨眉山月の歌』の書き下し文

峨眉山月 半りんの秋

影は 平羌江へいきょうこうの水に入りて流る

夜 清溪せいけいを発して 三峡に向かう

君を思えど見えず 渝州ゆしゅうに下る

『峨眉山月の歌』の現代語訳

峨眉山の上に見える秋の月は半月

月の光が平羌江へいきょうこうの水に映って流れる

清溪せいけいから船出して三峡に向かう

君を思っても君は見えず 船は渝州ゆしゅうに下っていく

峨眉山は蜀の名山。李白は故郷を離れて船で峨眉山に向かい、さらに長江の名勝にして難所・三峡を経て渝州へ、さらには江南へと向かいます。

挫折の日々と結婚

25~6歳で就職活動のために蜀から江南へ向かった李白は、それから十数年後42歳のときに朝廷から迎えられます。李白が残した詩からは、その間金陵(今の南京)・会稽(かいけい…今の紹興)・湖北省安陸・湖北省黄鶴楼・長安・河南省洛陽などを巡っていますが、どういう順序で、いつどこを訪れたのかははっきりはわかりません。

ただこの間32歳のころ、湖北省安陸で最初の結婚をしたであろうと言われています。李白は生涯で4人の奥さんをもらっていますが、その最初の奥さんは土地の名家で唐代初期の宰相の孫娘だということです。名もなく地位もない男にどうしてそんな令嬢がお嫁に来てくれたのか、李白の詩の才能に一家のあるじが感銘したとか、李白は親からたくさんのお金をもらっていたとか…いろいろ言われていますがよくわかりません。

この奥さんとの間に二人の子供が生まれますが、この子供たちがその後どうなったかもよくわかりません。李白は結婚しても朝廷で働くためのツテを求めて旅を続けており、よき夫・父として暮らした気配はありません。

ただこの当時のことを知る手がかりとして『贈内』(妻に)と題した詩が残されています。

『贈内』(内(ない)に贈る)

『贈内』の原文

三百六十日

日日酔如泥

雖為李白婦

何異太常妻

『贈内』の書き下し文

三百六十日

日日酔うてでいの如し

李白のつまりといえど

何ぞ異ならん太常たいじょうの妻に

『贈内』の現代語訳

一年360日(陰暦では360日になる)

毎日泥(デイ…水から出るとフニャフニャになる虫)のように酔っぱらっている

李白の妻と言っても

これではあの太常(奥さんをほったらかしにしていたことで有名な男)の妻と変わらない

『贈内』の解説

李白は当時ほとんど毎日酔っぱらっていたのですね。天性お酒が好きだったのでしょうか。それとも毎日やりきれずにお酒で気を紛らわすしかなかったのでしょうか。

この詩は日本で言うと奈良時代のころのものです。19世紀、民国時代の酔いどれ作家が書いたと言われてもおかしくない近代性を持った自画像で、やや戯唄(ざれうた)めいた詩ですが「泥」「妻」できちんと韻を踏んでいます。

こんな暮らし方では奥さんに愛想をつかされてもおかしくありません。その後生き別れか死に別れか、最初の結婚は終わりやがて二度目の結婚をします。

先の『李翰林集序』には李白の結婚について、「李白は初め許家の娘をめとり、一女一男を得た。その後劉という女と暮らした。劉と別れた後魯(山東省)の一婦人と暮らした。最後に宗家の娘をめとった」とあります。これによると二度目と三度目の結婚は正式なものではなかったのかもしれません。

漢文の教科書に出てくる『静夜思』や『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』など有名な詩はこの最初の十数年の流浪の時期に書かれています。

『静夜思』

静夜思

『静夜思』の原文

床前看月光

疑是地上霜

挙頭望山月

低頭思故郷

『静夜思』の書き下し文

床前しょうぜん月光を看る

疑うらくはれ地上の霜かと

こうべを挙げて山月を望み

首をれて故郷を思う

『静夜思』の現代語訳

寝台の前で月の光を見る

地面に降りた霜のようだ

顔を挙げて山の上の月をながめ

頭を垂れて故郷を思う

『静夜思』の解説

湖北省安陸で書かれたとされる五言絶句です。故郷を思うしみじみとした詩です。

『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』

黄鶴楼

『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』の原文

故人西辞黄鶴楼

煙花三月下揚州

孤帆遠影碧空尽

唯見長江天際流

『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』の書き下し文

故人西のかた黄鶴楼を辞し

煙花三月揚州に下る

孤帆こはんの遠影碧空へきくうに尽き

唯だ見る長江のてんさいに流るるを

『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』の現代語訳

古くからの友人が西にある黄鶴楼に別れを告げ

春霞の美しい三月華やかな揚州に下っていく

はるかかなたにポツンと見える帆影は青緑色の空間に飲み込まれ

長江が天の果てに流れていくのだけが見える

『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』の解説

年長の友であり、『春暁』で有名な詩人・孟浩然を黄鶴楼で見送る詩です。李白らしいダイナミックな映像が印象的です。

宮廷暮らし

李白42歳の年、知り合いの道士の推薦により李白は唐王朝、時の玄宗皇帝から直々に招かれます。職名は翰林供奉(かんりん ぐぶ)、正式な官職ではなくお召しがあれば詩を献上し、そう長いこと宮廷にいることのない短期間の名誉職のようなものでした。もしかしたら大臣にまで上りつめることができるかもしれない、という李白の思い込みとは最初からズレがあったようです。彼はたった2年で朝廷からお払い箱となります。酒癖が悪かったからという説もあります。待ちに待った宮廷暮らしが始まるときの有頂天と、わずか2年で放逐される絶望…まさに天国から地獄だったことでしょう。

二度目の放浪

李白44歳、二度目の放浪は青春時代の漫遊とは異なり先に希望がありません。故郷・蜀にはもう帰るべき家がなかったのでしょうか。最初の旅は親元から潤沢な資金が出ていたようですが、40も半ばになってからの旅にはそうした当てはなく、食客になってなんとか食いつなげる地方の有力者を求めての旅だったようです。

食客…日本語では「居候(いそうろう)」ですが、中国の食客は「居候三杯目はそっと出し(居候はご飯のお代わりもしづらい)」と言われるほど卑屈な存在ではなく、李白ほどの有名な詩人を食客にすれば、地元の名士たちの自慢のタネにもなろうというもの。中国の地方長官はずいぶん潤っていて、食客を何人か養うなどどうということもなかったようです。とは言え、無為徒食の人間をいつまでも暖かく歓待してくれるほどこの世は甘くはないでしょう。冷たくあしらわれることも多々あったに違いありません。

ともあれ李白は栄光のてっぺんから転落した44歳から62歳での死に至るまで、地方の有力者をさがしてはそこに寄食することで生きていったのです。

苦しい人生だったでしょうね。先に書いた「ギラギラした目と飢えた狼のような口」という容貌はこのころの姿でしょう。この苦しい人生の中で李白は数多くの傑作をものにしていったのでした。

安史の乱で賊軍側に

755年、李白54歳の年に「安史の乱」が起きます。そう、楊貴妃が馬嵬で悲しい最期を遂げるきっかけとなった内乱です。この混乱の中で李白は玄宗の下の息子永王の軍に招かれ、いわば従軍作家として詩を書くことが求められます。ところがその後玄宗の上の息子である皇太子が粛王として即位し、永王側は賊軍になってしまいます。李白も罪に問われ、夜郎という僻地に流されることになりました。運命は李白に過酷ですね。あまりにも大きな才能を得た対価なのでしょうか。

夜郎に向かう李白にやがて吉報がもたらされます。夜郎には行かなくてよしという恩赦のお達しです。彼は巫山で長江をUターンしますが、その時に読んだ詩が『早(つと)に白帝城を発す』という李白の代表作の一つです。

『早発白帝城』

早発白帝城

『早発白帝城』の原文

早発白帝城

朝辞白帝彩雲間

千里江陵一日還

両岸猿声啼不住

軽舟已過万重山

『早発白帝城』の書き下し文

つとに白帝城を発す

あしたに辞す 白帝 彩雲さいうんかん

千里の江陵 一日いちにちにして還る

両岸の猿声えんせい 啼いて尽きず

軽舟けいしゅう すでに過ぐ 万重ばんちょうの山

『早発白帝城』の現代語訳

朝早く白帝城を発つ

早朝美しい朝焼けの雲間にある白帝城に別れを告げ

千里のかなたにある江陵にたった一日で戻る

長江の両岸からは猿の声が途切れることなく

船は軽々と幾重にも重なる山を通り抜けた

『早発白帝城』の解説

亡くなる3年前の詩とは思えないスピード感のある詩です。

李白のその後

その後李白は安徽省当塗というところで李陽氷という人物のもとに寄宿し、彼に自分の作品を託して62歳で亡くなりました。

李白の人生について書かれたものを読んでいると、詩人としての自分に満足する生き方はできなかったのだろうか、という疑問がわきます。朝廷で役人になることがあまりにも絶対化されそれに押しつぶされたような人生に見えるからです。その詩からは自由奔放な個性の持ち主に見える李白、出世なんて笑い飛ばすことはできなかったのでしょうか。人は時代のイデオロギーからは自由になれないものなのかもしれません。だからこそ生まれる苦しみや悲しみ、これが李白の詩のエネルギーになったということでしょうか。

李白が活躍した時代

唐の時代区分(初唐・盛唐・中唐・晩唐)

唐詩が書かれた時代は、しばしば初唐(618~709)・盛唐(710~765)・中唐(766~835)・晩唐(836~907)に分けて説明します。時代の変化を表わすとともに、詩の持ち味の変化も表します。

李白が活躍したのは盛唐の頃です。

李白の関連ページ