『登高』杜甫
『登高』は766年、杜甫55歳、夔州(現在の重慶)で詠まれた詩です。
「登高」は「高いところに登る」という意味ですが、ここでは旧暦の9月9日「重陽の節句」の日の行事を意味していると思われます。
古来、七言律詩の傑作として名高い詩です。
ここでは『登高』の原文・書き下し文・現代語訳・解説・作者である杜甫の紹介などをしていきます。
『登高』の原文
風急天高猿嘯哀
渚清沙白鳥飛廻
無辺落木蕭蕭下
不盡長江滾滾来
万里悲秋常作客
百年多病独登台
艱難苦恨繁霜鬢
潦倒新停濁酒杯
『登高』の書き下し文
風急に天高くして猿嘯哀し
渚清く沙白くして鳥飛び廻る
無辺の落木蕭蕭として下り
不盡の長江滾滾として来る
万里悲秋常に客と作り
百年多病独り台に登る
艱難苦だ恨む繁霜の鬢
潦倒新たに停む濁酒の杯
『登高』の現代語訳
風は強く天は抜けるように青く、猿の鳴き声が哀しげに聞こえてくる
川辺の水は清らかで砂は白く水鳥が飛び交っている
どこまでも続く木々は蕭々と葉を落とし
尽きることのない長江はこんこんと流れてくる
故郷から万里のかなた秋を悲しむ私は常に旅人だった
生涯多病であった私はひとり高台に登る
苦労が多くてすっかり白髪頭になったのが恨めしい
老いぼれて濁り酒も飲めなくなってしまった
『登高』の解説
「登高」の意味
秋の詩に「登高」が出てくれば重陽の節句の行事です。髪に須臾(しゅゆ…グミの赤い実)を挿して家族や友人と高台に登り、菊の花を浮かべた酒を飲んで厄払いをします。
この日杜甫は一人で高台に登り、長江の雄大な景色を眺めるとともにおのれの人生を振り返ったのでしょう。
第1句「猿嘯哀」
第1句「猿嘯哀」ですが、古来漢詩の中では旅愁をかき立てる景物として詠まれています。長江の渓谷部を旅した人の話では長江両岸を住みかとする猿は鳴き声が独特で美しく哀愁を帯びているそうです。日本の屋久島も猿の多いところですが、山間部でよく聞いた猿の声は哀愁とは程遠く仲間内でけんかをしているように聞こえました。日本の猿の声では漢詩の景物になり得なかったかもしれません。
1句と2句は対句
この1句と2句は対句になっています。
第3句「蕭蕭」
第3句「蕭蕭」は風が吹いたり木の葉が落ちる擬音語です。日本人ですと風の音と落ち葉の音は全然違う、と思うかもしれませんが、中国語のオノマトペは日本語ほど種別化されていません。
第4句「滾滾」
第4句「滾滾」も流れを表す擬態語ですが、うねりをともなう動きを感じさせます。
3句と4句も対句
3句と4句も対句です。
第5句「万里」
第5句「万里」は1万里。中国語で「里」は500メートル、1万里は5000キロです。ここでは故郷から遠く離れていることを意味しています。
第5句「悲秋」
「悲秋」は杜甫が愛したことばで詩の中でよく使われています。本質的にメランコリックな個性の人だったのかもしれません。
第6句「百年」
第6句「百年」は生涯を意味しています。杜甫は若いころから肺が弱く、この詩を書いた50代半ばにはそれに加えて神経痛や糖尿病さらには難聴にもなっていたようで、まさに満身創痍です。
5句と6句も対句
この5句と6句も対句になっています。
第7句「苦」
第7句「苦」は「はなはだ」と読ませます。「非常に」という意味になります。
第8句「潦倒」
第8句「潦倒」は「老いぼれる・落ちぶれる」。「新停」は「最近やめた」という意味です。糖尿病ではお酒は飲めないでしょう。もともとあれこれ思い悩む個性をお酒で発散してかろうじて心のバランスを取っていたのに、そのお酒も飲めないとなると一層深い物思いに沈んでいたことでしょう。
7句と8句も対句
7句と8句も対句になっています。
『登高』の形式・技法
『登高』の形式……七言律詩(7字の句が8行並んでいます)。
『登高』の押韻……「哀、廻、飛、来、台、杯」。
律詩のルールでは2聯3聯で対句にすることになっていますが、この詩は全聯すべて、つまり1句と2句、3句と4句、5句と6句、7句と8句すべてが対句になっています。
全聯が対句でできた美しいシンメトリーの構造物から憂愁の想いが古典音楽のように流れてくる、形と意味の高度な調和が感じられる詩です。
『登高』が詠まれた時代
唐詩が書かれた時代は、しばしば初唐(618~709)・盛唐(710~765)・中唐(766~835)・晩唐(836~907)に分けて説明します。時代の変化を表わすとともに、詩の持ち味の変化も表します。
『登高』が詠まれたのは盛唐の頃です。
『登高』の作者「杜甫」について
杜甫(とほ…712~770)
李白とともに唐代を代表する詩人。「詩聖」とも称されます。役人の家系に生まれ官職につくべく努力をするのですが、なんとか低い地位の官職につけたのが44歳。その後戦乱に巻き込まれ安禄山の軍隊につかまって長安に幽閉されてしまいます。やがて唐朝はなんとか平穏を戻し、杜甫も官職に復帰します。ところが数年にしてこの官職を辞してしまうのです。その理由はわかっていません。その後は家族を連れて食べていくための放浪を続け、困窮の中で亡くなります。この詩はそうした晩年に書かれた詩です。