有名な漢詩・名作集

有名な漢詩・名作集

ここでは漢詩の歴史や形式、有名な漢詩や詩人などを紹介していきます。

漢詩とは

「漢詩」とは「中国の伝統的な詩」のことを指す日本語で、現代中国では「旧体詩」とか「旧詩」と言い、「五言絶句」「七言絶句」「五言律詩」「七言律詩」など型の決まった詩を指します。これに対して型のない自由な詩を「新詩」と言います。

ちなみに中国で「漢詩」というと「漢代の詩」という意味になります。

漢詩の歴史

古代中国人がいつ頃から詩を作っていたのかはわかりませんが、最初に生まれた詩集は3000年ほど前に作られた『詩経』(しきょう)です。孔子が編纂したとされ儒教における経典ですが、素朴でおおらかな民謡のような詩がたくさん入っています。この詩の形は4文字の句を4句集めて1首とする形になっているものが基本形で、これを「四言詩(よんごんし・しごんし)」と言います。またこの4文字1句の中身は2文字+2文字の形になっており、22・22…とリズムが流れていきます。

中国で二番目に古い詩は『楚辞(そじ)』で、『詩経』が中国大陸の北の詩ならば、こちらは中国大陸の南の詩です。『詩経』は詠み人知らず・作者不詳ですが、『楚辞』の作者は戦国時代・楚の国の大臣「屈原(くつげん)」だと言われています。

『楚辞』の詩のリズムは「3文字+3文字+兮+3文字+3文字」と『詩経』に比べるとぐっと複雑になります。真ん中の「兮」は日本語では読みませんが、中国語では「シー」と読んでちょっと一休みする感じです。民謡の合いの手のようなものでしょうか。またこの3の中身は1+2または2+1になります。

やがて北方の2音のリズムが、南方の3音のリズムと合体して5音、つまり五言の詩が生まれ、さらにそこから発展し七言の詩も生まれます。この五言もその中は2と3に分かれ、七言は4と3に分かれます。

漢詩の基本的なリズムができあがった後、唐代になって漢詩の形式や規則が定まり宋代以降はこれを踏襲していくことになります。こうした形式や規則にのっとった詩を「近体詩(きんたいし)」と呼び、それ以前のきまりのない詩を「古体詩(こたいし)」と呼びます。

近体詩のきまりには、五(七)言絶句・五(七)言律詩・五言排律・平仄(ひょうそく)・押韻(おういん)などがあります。このうち絶句と律詩については以下のとおりです。

「絶句」とは4つの句(句…詩の中のひとまとまり)でできていて、このうち五言絶句(5語×4句で20語)と七言絶句(7語×4句で28語)の2種類があります。

「律詩」とは8つの句からできていて、このうち五言律詩(5語×8句で40語)と七言律詩(7語×8句で56語)の2種類があります。

漢詩のきまりのうち、「韻」は音の響きのことで、「韻を踏むこと」を「押韻(おういん)」と言います。この韻は詩形によってきまりが異なります。

これら漢詩の詳しいルールは本サイト「漢詩のルール」をご覧ください。

最初の詩集『詩経』

詩経(しきょう)とは中国最古の詩集です。BC12世紀~BC6世紀、約600年間の詩が305編集められています。孔子(こうし…BC551~BC479)が整理してまとめたと言われ、風(ふう)・雅(が)・頌(しょう)の三つに分かれています。

「風」というのは黄河流域の15の国々の民謡を集めたものです。詩経全体の半分以上、160編あります。「雅」は「朝廷の音楽」という意味です。小雅と大雅があり、朝廷の宴の歌、軍の歌、農事の祝宴の歌など、全部で105編あります。「頌」は「先祖をたたえる歌」という意味です。周の先祖をたたえる「周頌」、魯の先祖をたたえる「魯頌」、殷の先祖をたたえる「商頌」の三つがあり、全40編です。

それでは『詩経』の中の代表的な作品を紹介しましょう。

「風」に属する詩で詠み人知らず、結婚を寿ぐ歌です。

『桃夭』

『桃夭』の原文

桃之夭夭

灼灼其華

之子于帰

宜其室家

桃之夭夭

有蕡其実

之子于帰

宜其家室

桃之夭夭

其葉蓁蓁

之子于帰

宜其家人

『桃夭』の書き下し文

もも夭夭ようようたる

灼灼しゃくしゃくたり其の華

の子とつ

其の室家しっかよろ

桃の夭夭たる

ふんたる有り其の実

之の子于き帰ぐ

其の家室に宜し

桃の夭夭たる

其の葉蓁蓁しんしんたり

之の子于き帰ぐ

其の家人によろ

『桃夭』の現代語訳

みずみずしい桃よ

花はなやかに

娘さんはお嫁に行く

きっと嫁ぎ先の良いお嫁さんになるだろう

みずみずしい桃よ

実はずっしりと

娘さんはお嫁に行く

きっと嫁ぎ先の良いお嫁さんになるだろう

みずみずしい桃よ

葉はふさふさと

娘さんはお嫁にいく

きっと嫁ぎ先の良いお嫁さんになるだろう

実に明るく愛らしい寿(ことほ)ぎの歌です。声に出して読んでいるだけで幸せのオーラに包まれます。孔子が詩経を儒教の経典に入れたのもわかる気がします。日本で言う「言霊(ことだま)」的な効果が詩経の詩を読むことでもたらされる…と孔子は考えたのかもしれません。

二つ目の詩集『楚辞』

『楚辞』(そじ)とは、戦国時代後期に楚(長江の中流地域)で詠われた韻文を集めた書です。またこの歌謡の様式を指すこともあります。

詩経は民謡風で結婚や農作業など古代人の暮らしぶりを詠ったものが多いのですが、楚辞は屈原など個人による歌が楚辞のメロディで詠われました。また神話的、幻想的であることも楚辞の特徴です。

リズムとしては詩経が1句4語であるのに対し、楚辞は3語や6語。間に兮(けい・シー)という語調を整える助字が入るのも楚辞の特徴です。

また詩経は短い詩形のものが多いのですが、楚辞は1篇1篇がとても長く、楚辞の代表作『離騒』は全部で2500字もあります。

『楚辞』の代表作 『離騒』屈原

楚辞の代表的な作品は屈原による『離騒』です。

屈原は楚の貴族の出身で、楚の国の大臣を務めた政治家です。外交政策をめぐって中傷を受け、朝廷から追放されます。その後漢水・洞庭湖・湘水…などをさすらい、最後に汨羅江(べきらこう)という湖南省北部、長江支流の川に身を投げて亡くなります。

屈原の作品はこうした流浪の日々に作られたと言われます。『離騒』も湘水のほとりで自分の身の上を嘆いて詠ったもので、神話的、幻想的と言われる楚辞の特徴がよくわかる作品です。

主人公は王族の生まれながらこの世に受け入れられず、天上への旅を企てます。ではその部分のみ下に紹介しましょう。

『離騒(抄)』の原文

前望舒役先駆兮

後飛廉役奔属

鸞凰為余先戒兮

雷師告余以未具

吾令鳳鳥飛黱兮

継之以日夜

瓢風屯其相離兮

師雲霓而来御

紛総総其離合兮

斑陸離其上下

吾令帝閽開関兮

倚閶闔而望予

『離騒(抄)』の書き下し文

望舒ぼうじょを前に先駆せしめ

れんを後にしてほんぞくせしむ

らんこう余が為に先づいまし

雷師らいしわれに告ぐるに未だそなはらざるを以てす

われ鳳鳥ほうちょうをして飛黱ひとうせしめ

これに継ぐに日夜を以てせしむ

ひょうふうあつまつて其れ相離れ

雲霓うんげいひきゐて来りむか

ふんとして総総として其れ離合し

はんとして陸離として其れしょう

われ帝閽ていこんをして関を開かしむるに

閶闔しょうこうつてわれを望む

『離騒(抄)』の現代語訳

月の車の御者である望舒を先頭に馬車を走らせよう

風神である飛廉を後ろにつけて走らせよう

鸞と鳳凰は私を守ろうと警戒しつつ飛んでいく

雷神はまだ準備ができていないと教えてくれる

まず鳳凰を飛ばしてそのあとについて

昼に夜を継いで急ぐと

風神が集まってきてはまた離れ

雲や虹を引き連れて迎えてくれる

入り乱れたり離れたり合わさったり

混じっては分散し上がってはまた下がり

天帝の宮殿の門を開けてもらおうとするも

門番は門に寄りかかったまま私をながめるのみ

「離騒」は嘆きの詩ですが、そうかと思うと一転こうした神話的な世界が詠われます。壮大なファンタジーの世界です。

月は馬車に乗って空を駆け巡る…素敵なイメージですね。その御者の名前は「望舒」さん。

6句目の「継之以日夜」は今も中国語の中でよく使われています。日本語でも「昼に夜を継いで」といいますね。この詩から来ているのかもしれません。

外国人には難しい詩ですが、こうして読み砕いていくとすばらしい幻想の世界が現れます。

難解ですが、魅力的な漢字が織りなす神話の世界、呪術的で幻想的です。

唐詩以前の有名な詩

曹植『七歩詩』

三国時代の雄・曹操の息子・曹植(そう・しょく…192~232)は武将であると同時に詩人として優れた才能を持ち、後に杜甫が現れるまで「詩聖」と呼ばれるほどでした。まだ新体詩が確立する前の時代、曹植は「五言」の詩型を作り上げる上で大きな役割を果たしたと言われます。

『七歩の詩』(ななほ の うた)は、彼がその兄・曹丕(そう・ひ…魏の文王)に武や文の才能を妬まれ、「七歩歩くうちに詩を作れ、さもなくば処刑だ!」と言われて作った詩、とのちの有名人エピソード集『世説新語』にあります。ただ現在では本当に曹植の詩かどうか疑問視されています。

『七歩詩』の原文

煮豆持作羹

漉鼓以為汁

萁在釜下燃

豆在釜中泣

本是同根生

相煎何太急

『七歩詩』の書き下し文

豆を煮て持てあつもの

して以て汁と為す

まめがら釜下ふかに在りて燃え

豆は釜中ふちゅうに在りて泣く

もと同根どうこんより生ずるに

あひること何ぞはなはだ急なると

『七歩詩』の現代語訳

豆を煮て濃いスープを作る

豆で作った調味料をして味を調える

豆がらは釜の下で燃え

豆は釜の中で泣く

豆も豆がらも同じ根から育ったものなのに

豆がらは豆を煮るのにどうしてそんなに激しく煮るのか

中身は何ということのない詩ですが、「七歩歩く間に作れ!」という命のかかった命令がポイントです。

陶淵明『飲酒』

『飲酒』(いんしゅ)は、陶淵明(とう・えんめい…365~427)の五言古詩(ごごんこし)の連作で、ここで挙げているのはそのうち「其の五」とされている部分です。

陶淵明は名を潜(せん)と言い、淵明は字(あざな)で、晋末・宋初の詩人です。一時官職に就きますがまもなくやめ、自然を友に詩や酒を愛して生涯を終えました。

『飲酒』の原文

結盧在人境

而無車馬喧

問君何能爾

心遠地自偏

采菊東籬下

悠然見南山

山気日夕佳

飛鳥相与還

此中有真意

欲弁已忘言

『飲酒』の書き下し文

いほりを結んで人境じんきょう

しかも車馬のかしましき無し

君に問ふ何ぞ能くしかると

心遠くして地おのずかへんなればなり

菊を東籬とうりもと

悠然として南山を見る

山気さんき日夕にっせきなり

飛鳥相ひちょうあともかへ

此のうちに真意有り

弁ぜんと欲すれば已にごんを忘る

『飲酒』の現代語訳

我が粗末な廬(いおり)は人里にある

それでいて車馬がうるさく訪れることもない

なぜそうなのかと問われれば

心が俗に遠いのでどこに住もうと辺鄙な場所になってしまうのだ

家の東側の竹垣の下で菊の花を摘む

体を起こしてはるかに南山を眺める

山のたたずまいは夕日に映え

飛ぶ鳥がともにねぐらに帰っていく

この中に人生の本当の姿がある

説明しようにもその言葉を忘れてしまった

陶淵明は田園詩人や隠者のイメージで日本人に愛されました。この詩の5句6句「菊を東籬とうりもと 悠然として南山を見る」がよく知られています。

唐詩の巨匠・李白と杜甫

詩仙・李白(りはく…701~762)と詩聖・杜甫(とほ…712~770)は盛唐の詩人、同じ時代を生きました。ともに放浪に生き、栄華に程遠い人生を生きましたが、広い中国でたった一度出会い意気投合し旅をし酒を酌み交わします。

気の合った二人ですがその詩風はだいぶ異なり、李白は即興的でときに幻想的、詩仙の名にふさわしい詩を書き、特に絶句にすぐれていました。

杜甫はそれまで儀式用とされていた律詩の型を使って人生のさまざまな側面を描き、詩に高く深い境地をもたらし詩聖の名にふさわしい詩を残しました。

李白の詩からは『廬山の瀑布を望む』を、杜甫の詩からは七言律詩の傑作と言われる『登高』を紹介します。

李白『廬山の瀑布を望む』 二首 その二

『望廬山瀑布』の原文

日照香炉生紫煙

遥看瀑布掛長川

飛流直下三千尺

疑是銀河落九天

『望廬山瀑布』の書き下し文

日は香炉を照らして紫煙を生ず

遥かに看る瀑布の長川ちょうせんを掛くるを

飛流直下三千尺

疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと

『望廬山瀑布』の現代語訳

太陽は香炉峰を照らし、赤紫色の霧が立ち上っている。

離れたところから見ると、滝が長い川を立てかけたかのように流れ落ちている

滝の水は飛ぶかの如く三千尺を真っ逆さまに落ちていく

もしかしたらこれは銀河の真上から落ちてきているのではあるまいか

豪快で幻想的、いかにも李白の詩です。

杜甫『登高』

『登高』の原文

風急天高猿嘯哀

渚清沙白鳥飛廻

無辺落木蕭蕭下

不盡長江滾滾来

万里悲秋常作客

百年多病独登台

艱難苦恨繁霜鬢

潦倒新停濁酒杯

『登高』の書き下し文

風急に天高くして猿嘯えんしょう哀し

渚清くすな白くして鳥飛びめぐ

無辺むへん落木らくぼく蕭蕭しょうしょうとしてくだ

不盡ふじん長江滾滾こんこんとしてきた

万里悲秋常にかく

百年多病独り台に登る

艱難かんなんはなはだ恨むはんそうびん

潦倒ろうとう新たにとどだくしゅはい

『登高』の現代語訳

風は強く天は抜けるように青く、猿の鳴き声が哀しげに聞こえてくる

川辺の水は清らかで砂は白く水鳥が飛び交っている

どこまでも続く木々は蕭々と葉を落とし

尽きることのない長江はこんこんと流れてくる

故郷から万里のかなた秋を悲しむ私は常に旅人だった

生涯多病であった私はひとり高台に登る

苦労が多くてすっかり白髪頭になったのが恨めしい

老いぼれて濁り酒も飲めなくなってしまった

胸に迫ってくる人生の悲秋を詠った名作です。

日本に大きな影響を与えた詩人・白居易(白楽天)

中唐の詩人・白居易(白楽天)(772~846)の詩は同時代から日本に伝わり、日本文学に大きな影響を与えました。特に玄宗と楊貴妃の悲恋を詠った『長恨歌』は紫式部の『源氏物語』にも影響を与えたと言われます。

『長恨歌』は120句もある七言古詩ですが、このうちの一部…楊貴妃が馬嵬(ばかい…陝西省)で混乱の中亡くなるさまを詠っています。

『長恨歌』(抄)の原文

九重城闕煙塵生

千乗万騎西南行

翠華揺揺行復止

西出都門百余里

六軍不発無奈何

宛転蛾眉馬前死

花鈿委地無人収

翠翹金雀玉搔頭

君王掩面救不得

迴看血涙相和流

『長恨歌』(抄)の書き下し文

九重きゅうちょう城闕じょうけつ煙塵生じ

千乗せんじょうばん西南に行く

翠華すいか揺揺として行きてとどまり

西のかた都門ともんづること百余里

りくぐん発せず奈何いかんともする無く

宛転えんてんたる蛾眉馬前に死す

花鈿かでんは地にてられて人の収むる無し

翠翹金雀玉搔頭すいぎょうきんじゃくぎょくそうとう

君王おもておおうて救ひ得ず

かいり看れば血涙けつるい相和して流る

『長恨歌』(抄)の現代語訳

九重の城門から土煙をあげて

千乗万騎が西南に向かう

天子の御旗をひるがえし行っては止まり止まっては行き

都の門を西に十数里

兵士は動かず万事休して

傾国の美女馬嵬に死す

金の飾りが地に落ちても拾う者なく

美しい髪飾りやら玉のかんざしやら

天子は救うことができずに顔を覆うばかり

血と涙ともに流れる

魅力的な詩の数々

漢詩の世界の巨匠たち・李白、杜甫、白楽天…などの作品以外にも魅力的な漢詩はたくさんあります。そのいくつかを紹介しましょう。

杜牧『清明』

『清明』の原文

清明時節雨紛紛

路上行人欲断魂

借問酒家何処有

牧童遙指杏花村

『清明』の書き下し文

清明の時節 雨紛紛ふんふん

路上の行人こうじん こんを断たんと欲す

借問しゃもんす 酒家しゅかいずれのところにか有る

牧童 遙かに指す きょうの村

『清明』の現代語訳

清明節のころ雨がしとしとと降ってくる

道を行く旅人はなんとも気が滅入る思い

お尋ね申す 居酒屋の場所を教えてくれぬか

牛飼いの少年がはるか遠く杏の花咲く村を指さす

まだ肌寒い清明の頃の春雨、灰色の雨雲の下を歩く旅人の心が晴れやかであるはずもありません。どこかで一杯飲んでいくか…向こうから牛飼いの少年が牛の背に乗ってやってきます。このあたりに一杯やれるところはあるかね。少年が指さす先には杏の村がぼうっとかすんで見えます。

まさに一幅の絵の世界です。

王翰『涼州詞』

『涼州詞』の原文

葡萄美酒夜光杯

欲飲琵琶馬上催

酔臥沙場君莫笑

古来征戦幾人回

『涼州詞』の書き下し文

葡萄の美酒夜光やこうはい

飲まんと欲すれば琵琶馬上にもよほ

うて沙場さじょうす君笑ふことなか

古来征戦せいせん幾人かかへ

『涼州詞』の現代語訳

葡萄の美酒を夜光杯にそそぐ

飲もうとすると馬上からは琵琶の音色が

酔って砂漠に倒れこんだりしても笑ってくれるな

古来いくさから生きて戻った者などほとんどいないのだから

この詩は辺塞詩(へんさいし 辺境の地のとりでを詠った詩)の一つ、「涼州詞」というメロディにのせて歌われました。昔から大変よく知られた詩ですが、異国情緒あり、戦争に駆り出される男たちの悲哀あり、大ヒットソングだったに違いありません。命のつかの間の華やぎを求めるこの詩の舞台装置は、古いアメリカ映画・『カサブランカ』の酒場を思い出させます。

張継『楓橋夜泊』

『楓橋夜泊』の原文

月落烏啼霜満天

江楓漁火対愁眠

姑蘇城外寒山寺

夜半鐘声到客船

『楓橋夜泊』の書き下し文

月落ちからす啼いて霜天に満つ

江楓漁火愁眠こうふうぎょかしゅうみんに対す

姑蘇こそ城外の寒山寺

夜半やはん鐘声しょうせい客船かくせんに到る

『楓橋夜泊』の現代語訳

月は沈んであたりは闇、カラスが鳴いて一面霜が降りそうな寒い夜

旅の寂しさに眠れないでいる私の目に、川岸のカエデの葉といさり火が赤々と

蘇州の町の郊外にある寒山寺からは

真夜中の鐘の音がこの船にまで響き渡ってくる

高校で漢文を取った人にはおなじみの詩です。蘇州、寒山寺という固有名詞が旅心を誘います。実際の蘇州寒山寺にはこの詩の碑がありますが、このお寺、なんとも現世の欲にまみれている感じで私はがっかりしました。時空のかなたの寒山寺に思いを馳せている方が幸せかもしれません。

陸游『遊山西村』

『遊山西村』の原文

莫笑農家臘酒渾

豊年留客足鶏豚

山重水複疑無路

柳暗花明又一村

簫鼓追随春社近

衣冠簡朴古風存

従今若許閑乗月

拄杖無時夜叩門

『遊山西村』の書き下し文

笑うなかれ農家のろうしゅにごれるを

豊年かくとどめてけいとん足る

山重なり水かさなりて路無きかと疑ふ

柳暗く花明らかに又一村いっそん

しょう追随ついずいしてしゅんしゃ近し

衣冠簡朴にして古風そん

しずかに月に乗ずることを許さば

杖をいて時と無く夜門を叩かん

『遊山西村』の現代語訳

師走に仕込んだ田舎のどぶろくだとお笑いなさるな

豊作の年で客をもてなす鶏や豚の肉もたんとある

山重なり川めぐり道はここまでと思いきや

柳の茂みの先に花が明るく咲いてまた村がひとつ

笛や太鼓の音が響いてきて春祭りが近いらしい

村人の服装は純朴で古風

月をたよりにまた来てもよいと言うなら

杖をついて時を定めず夜門を叩きますぞ

南宋の詩人・陸游の詩。いかにもザ・漢詩の世界です。陶淵明の『桃花源の記』の世界に似てこんな村に迷い込んでみたいという思いにかられます。

王維『送元二使安西』

『送元二使安西』の原文

渭城朝雨浥軽塵

客舎青青柳色新

勧君更尽一杯酒

西出陽関無故人

『送元二使安西』の書き下し文

渭城いじょう朝雨ちょうう軽塵けいじんうるほす

客舎青青柳色新たなり

君に勧む更に尽くせ一杯の酒

西のかた陽関をづれば故人無からん

『送元二使安西』の現代語訳

送別の地この渭城で朝雨が降り、通りの土ぼこりを洗ってくれた

旅籠の周囲に植えられた柳は朝の雨に洗われて緑色が美しい

さあ君よもう一杯杯を傾けてくれ

西の果て陽関を出れば知る人もいなくなるのだから

古来有名な送別の歌です。日本語でも中国語でも暗唱したくなります。特に3句4句の語りかけが魅力的です。漢詩は歌だったことを実感します。