王維

王維

王維おうい(669~761)は李白杜甫という中国詩の二大巨人とともに盛唐(唐代は初唐・盛唐・中唐・晩唐の4つの時期に分けますが、そのうちの盛唐・712年からの約50年間はほぼ玄宗皇帝の時代、この時期は中国詩の黄金時代でした)を代表する詩人の一人です。自然を描いた詩が多く、絵にも才能があって「文人画」の祖とされています。

それではその人生と詩を以下で紹介しましょう。

王維の人生

王維は李白や杜甫とほぼ同時代の人ですが、この二人とは違って21歳という若さで科挙試験に合格し、華やかな人生のスタートを切りました。名門の出で、詩以外に文・絵・書・音楽と多方面に才能を発揮し、とりわけ絵では文人が描く絵・文人画の祖とされています。ただその絵はあまり残ってはいません。

若くして官職に就いたもののまもなく左遷、地方官僚となってなかなか都に戻れません。40歳を過ぎて都に戻ってからは安定し、宮廷詩人として活躍しました。そのころ長安郊外に別荘を建て、そこで書かれた詩は別荘のあった地名にちなんで『輞川(もうせん)集』と名付けられています。

その後安禄山の乱が起きると玄宗皇帝は多くの役人を長安に置いたまま蜀に逃亡、残された王維は有名だったがために安禄山に仕えざるを得ないことになります。その後この乱が収まると王維は罪に問われてしまいますが、なんとか死刑は免れます。

王維は、李白の「詩仙」、杜甫の「詩聖」に対して「詩仏」と呼ばれます。王維の名前そのものが仏教の有名な在家ざいけ信者しんじゃ(仏教に帰依していながら出家せず普通の暮らしをしながら修行をする人)の名前を取っていて、そのあざなは「摩詰」、名「維」と字「摩詰」を一緒に読むと「維摩詰」(ゆいまきつ)となり、これはヴィマラキールティというインドの在家信者の名前になります。ちなみにこの人にまつわる物語を書いたものが『維摩経』(ゆいまきょう)という仏典。王維のお母さんがつけた名だそうです。

王維自身晩年になると仏教色が感じられる詩を書くようになります。

王維の代表作

それでは日本の漢文の教科書にもよく出てくる詩を一つ紹介しましょう。遠方に行く友人を見送る送別詩として非常に有名です。

『送元二使安西』

『送元二使安西』の原文

渭城朝雨浥軽塵

客舎青青柳色新

勧君更尽一杯酒

西出陽関無故人

『送元二使安西』の書き下し文

渭城いじょう朝雨ちょうう軽塵けいじんうるほす

客舎青青柳色新たなり

君に勧む更に尽くせ一杯の酒

西のかた陽関をづれば故人無からん

『送元二使安西』の現代語訳

送別の地この渭城で朝雨が降り、通りの土ぼこりを洗ってくれた

旅籠の周囲に植えられた柳は朝の雨に洗われて緑色が美しい

さあ君よもう一杯杯を傾けてくれ

西の果て陽関を出れば知る人もいなくなるのだから

西域に向かう友人を見送る詩です。清々しい情景と名残惜しさを伝える詩の調べが魅力的で、中国では昔から送別の宴でよく朗詠されたということです。

王維が活躍した時代

唐の時代区分(初唐・盛唐・中唐・晩唐)

唐詩が書かれた時代は、しばしば初唐(618~709)・盛唐(710~765)・中唐(766~835)・晩唐(836~907)に分けて説明します。時代の変化を表わすとともに、詩の持ち味の変化も表します。

王維が活躍したのは初唐~盛唐の頃です。

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