虞美人(虞姫)【生涯と伝説・項羽が別れの際に読んだ歌など】
目次
- 1. 虞美人(虞姫)とは
- 2. 虞美人の「美人」の意味
- 3. 虞美人と「四面楚歌」
- 4. 虞美人の最期
- 5. 虞美人草
- 6. 京劇『覇王別姫』と映画
虞美人(虞姫)とは
「虞美人」とは、秦末に劉邦(漢の高祖)と覇を争った楚の武将・項羽の愛姫のことで、虞姫とも言います。紀元前202年、楚の項羽は垓下で漢軍に包囲されます。その時周りから聞こえてくる歌が楚の歌だったので、楚の兵士がこんなに大勢漢側に寝返ってしまったのかと自分の敗北を悟り、『垓下の歌』を歌って、愛姫・虞美人に別れを惜しみます。虞美人はその歌に唱和すると自ら命を絶ったのでした。
虞美人の「美人」の意味
虞美人の「美人」とはどういう意味なのでしょうか?中国四大美人と呼ばれる、西施・楊貴妃・王昭君・貂蝉には「美人」という呼称がついていません。
この「美人」という名称は中国の後宮(天子が皇后や側室などとともに暮らす宮殿。日本なら江戸時代の大奥に相当します)における側室の位階の名称である可能性もあります。たとえば後漢の側室の名称には、貴人・美人・宮人・采女(うねめ)などがありました。
また『史記』の「項羽本紀」の「四面楚歌」の場面で虞美人はこう記されています。
「美人あり、名は虞、常に幸せられて従う」
ここからすると「美人」は後宮の側室の位階というより、「美しい人」という意味に取れます。いずれにしろ虞美人は美しい人だったのでしょう。
虞美人と「四面楚歌」
虞美人が歴史に登場するのは以下の「四面楚歌」の一場面だけです。『史記』の「項羽本紀」に出てくるこの場面にはこう書かれています。
「項羽の軍は垓下にたてこもったが、兵力は減り食糧も尽き、漢の軍と諸侯の軍に幾重にも取り囲まれてしまった。夜になると周りの漢軍から楚の調べの歌が澎湃として沸き起こり、項羽はひどく驚いた。『楚の兵士はみな漢に寝返ったのか。やつらの中になぜこんなに楚の人間がいるのだ』
項羽は寝付けないまま帳の中に入って酒を飲む。そこに、ずっと付き従ってきた虞という名の女性も、愛馬の騅もいる。項羽は激しい感情に胸がせまり、その場で歌を作って歌った。
力は山を抜き、気は世を覆う。(力は山を引き抜くほど。気迫は天下を蓋うほど)
時、利あらず、騅ゆかず。(しかし時は私に味方せず、愛馬の騅も動こうとしない)
騅ゆかざるを如何すべき。(騅が動かないのをどうしたらいいのだ)
虞や虞や、なんじを如何せん。(虞よ、お前をいったいどうしたものか)
歌を何回か繰り返し、これに虞美人も唱和した。項羽の頬に涙が伝い、最後まで付き従った部下もみな泣いて顔をあげる者もいない」
ここからわかるのは虞美人という項羽の美しい愛姫は、戦場をずっと彼に付き従い離れなかったこと。項羽が『垓下の歌』で知られる悲嘆の歌を歌うと、取り乱すことも泣き伏すこともなく、ともに歌ったということ。
項羽への愛を貫いた強い女性像が浮かんできます。
以下、年表と歴史地図を紹介します。
虞美人の最期
項羽に「お前をいったいどうしたものか」と歌われ、虞美人は自ら命を絶ちます。項羽の元を離れれば当時の慣習からいって漢王・劉邦の戦利品となり、後にはぜいたくな暮らしもできたかもしれません。
「お前をいったいどうしたものか」にはそういう問いかけが隠れているのでしょう。それに対する虞美人の答えは自ら命を絶つことでした。
虞美人草
虞美人草という花があります。日本では「ひなげし」「ポピー」などと呼ばれていてケシの仲間です。フランス語では「コクリコ」と言います。
中国でこの花を「虞美人草」というのは、この「虞美人」に由来しています。この花の赤い色が虞美人の血の色のようだからと言われています。
京劇『覇王別姫』と映画
京劇の『覇王別姫』は、項羽と虞美人の故事を元にしたもので、京劇の代表的な演目です。
またこの芝居を演じる二人の京劇役者の半世紀にわたる愛憎を描いた映画もあります。『さらばわが愛/覇王別姫』という1993年、香港・中国の合作映画です。チェン・カイコー監督の作品で、覇王役の役者を演じたのがチェン・フォンイー、虞美人役という女形の役者を演じたのが今は亡きレスリー・チャンです。
京劇『覇王別姫』を縦糸に、20世紀前半の戦争や革命という混乱の時代に生きた二人の役者の人生を横糸にして織った織物のような重厚な作品で、中国映画を代表する傑作です。京劇鑑賞の入門として見てもいいかもしれません。