楽毅の生涯【前王への忠義の手紙が有名な名将】
楽毅とは古代中国・戦国時代に燕に仕えた将軍です。燕の内乱に乗じて侵攻してきた斉に対し、燕の昭王はこれに復讐しようと楽毅を将軍にします。楽毅は連合軍を組織してこれを撃ち破り、連合軍退却後も大活躍して斉を滅亡寸前まで追い詰めました。
目次
- 1. 楽毅とは
- 2. 楽毅が燕王に仕えるまで
- 3. 昭王の死
- 4. 『燕の恵王に報ずるの書』
楽毅とは
楽毅は燕王に仕えた将軍で、大国の斉を滅亡寸前に追いやったことで有名です。楽毅は中山国出身で、初め趙に行き後に魏に行きました。当時燕は斉に侵攻され、これを恨んだ燕王は広く人材を求め、楽毅はこれに応じて燕に行き大臣に取り立てられました。
対斉対策として楽毅は趙・楚・韓・魏との連合を進言。楽毅率いる連合軍は斉の済西で斉軍を打ち破りました。連合軍が撤退した後も楽毅は斉軍を追撃して多くの都市を陥落させ、斉は滅亡の淵に立たされました。ここで燕王が亡くなり次の王が立つと、この王は敵の流したデマを信じて楽毅を召喚。身の危険を感じた楽毅は趙に亡命し、楽毅のいなくなった戦場で斉は奪われた都市を全て取り戻してしまいました。
楽毅が燕王に仕えるまで
楽毅は中山国の出身です。中山国というのは北方の燕と晋の間にあった小国で、BC.406に魏によって滅ぼされました。楽毅の先祖はこの戦いで功を立てたことでこの地に封じられ、子孫は代々この地に住んでいました。
楽毅はまず趙で用いられ、その後内乱が起きたため魏に行きました。
この頃燕は昭王の代でしたが、燕の内乱に乗じて斉が侵攻したことで昭王は斉を恨み、これに復讐せんと心に誓っていました。ところが燕は小国、斉は大国です。そこで昭王は世に広く人材を求めました。
このことを耳にした楽毅はまず魏の使者として燕を訪れます。燕の昭王は彼を賓客としてもてなしますが、楽毅は客扱いを断ってみつぎ物を差し出し昭王の家臣になることを求めました。これに対して昭王は彼を上卿に次ぐ亜卿…つまり大臣として遇しました。
当時は斉の勢いが強く、楚や三晋(元は晋。戦国以降は魏・趙・韓に分かれこれを「三晋」と呼ぶ)を討伐し、次に三晋とともに秦を討つなどして国土を拡大し勢いを増していました。
斉の湣(びん)王はこれに驕り高ぶり、彼に煙たがられた斉の名政治家・孟嘗君は命の危険を感じて魏に逃亡しました。
こうした状況の中、燕の昭王が楽毅に斉をどう攻略すべきか問いました。
すると楽毅は「斉を燕1国が攻めるのは大変です。どうしても討つのであれば、趙や楚、魏と組むべきです」と進言しました。
そこで王は楽毅を趙にやり、楽毅は趙に燕と組むことを約束させました。
その後燕は楚や魏とも連合することになりました。さらに秦を仲間に入れようと趙に説得させました。
斉の湣王はその横暴さでこれまで諸国に嫌われていたので、こうしてたちまち燕・趙・楚・魏の対斉連合軍ができ、斉討伐の態勢が整いました。
燕の昭王は楽毅を上将軍にし、趙の恵文王も宰相の印綬を楽毅に渡しました。
BC.284楽毅は燕・趙・楚・韓・魏の連合軍を率いて斉に向かい、斉の済西(せいせい)で斉軍を打ち破りました。
燕以外の連合軍はここで引き揚げましたが、楽毅はなおも斉軍を追撃し、斉の都・臨淄(りんし)に迫ります。湣王は都から逃げ出し莒(きょ)に立てこもりました。
楽毅は都にある斉の宝物をすべて奪って燕に送りました。復讐を果たした燕王は大喜びで戦地に足を運び、楽毅を昌国君に封じました。
楽毅はなおも戦いの手をゆるめず、その後も斉に残って5年の間に70余りの斉城を落とし、それらの地域をすべて燕に帰属させました。
この間にあの傲岸不遜な斉の湣王は楚軍の手にかかって命を落としていました。
こうして莒と即墨以外の全地域が楽毅軍の手に落ち、大国斉は滅亡の崖っぷちに立たされました。この危機の中、莒では湣王の子が即位、即墨では斉の家臣・田単が籠城して抵抗を続けていました。
昭王の死
BC.279に楽毅が仕えた昭王が亡くなり恵王が即位します。恵王は楽毅をよく思っていませんでした。
即墨でこの話を伝え聞いた田単は燕にスパイを送り込み、「楽毅が莒と即墨をまだ攻めないのは、恵王と仲が悪いため戦いを長引かせて、いずれ斉の王になる野心があるからだ」というデマを流します。
これを信じた恵王は斉の戦場に別の将軍を送って楽毅を召喚するのですが、帰れば命はないと思った楽毅は趙に亡命しました。
趙は楽毅を丁重に迎い入れ、楽毅の威光をもって燕と斉を牽制しました。
即墨の田単は楽毅がいなくなった燕軍を討ち破り、さらにこれを追撃して、楽毅によって奪われた城すべてを奪い返しました。
『燕の恵王に報ずるの書』
燕の恵王は事ここに至って後悔し、楽毅が趙に逃げていったことを恨みました。
「趙はあの有能な楽毅を使って燕を攻めたりしないだろうか…」
そこで楽毅の元に人を送り、彼を責めると同時に詫びました。「将軍のこれまでの功は誰もが知るところである。私があなたを召喚したのは少し休養してほしかったからだ。それをあなたは誤解し趙に逃げていった。この態度はあなたを重んじた先王の恩義に反してはいないだろうか…」
楽毅もまた王に手紙を送りました。これが『燕の恵王に報ずるの書』と呼ばれるもので、諸葛孔明の『出師の表』と並んで「読みて泣かざる者は忠臣にあらず」といわれる文章です。
この手紙の中で楽毅は、自分を重用してくれた先王への深い尊崇の念と忠義の心を述べ、趙に投じたのもこのまま辱めを受けては先王の名誉を汚すことになるからだと訴えています。
恵王はこの手紙を読んだ後、楽毅の息子を昌国君に封じ、楽毅も燕と趙の間を往来して燕王との交流を取り戻しました。
楽毅は趙でも燕でも客卿という待遇を受け、後に趙で亡くなりました。