衛青の活躍と生涯【姉が皇后となり対匈奴戦で活躍した将軍】

衛青

衛青(えいせい)は武帝のもとで活躍した将軍です。当時漢の強敵・匈奴を相手に活躍しました。

※上の画像は衛青の墓。武帝の茂陵の近く、霍去病(かくきょへい)の墓の隣に建っています。

衛青とは

衛青
衛青。

衛青は中国前漢における武帝の時代(BC.141~BC.87)の将軍です。

衛青の出身地・平陽の地図
衛青の出身地・平陽。

衛青は平陽(山西省臨汾…りんふん…市の西南)の人で、父は鄭季で母は衛媼(えいおう)といいました。「媼」は「おばさん」などの意味なので、姓はわかっていても名前は残っていません。父・鄭季が平陽侯曹寿(そうじゅ)に仕えていた時、屋敷で下働きをしていた下女と考えられています。

衛青は母方の姓・衛を名のっていますが子供の頃は父の家で育ち、正妻の子供たちから奴隷のように扱われていたといいます。

あるとき、甘泉宮(かんせんきゅう…陝西省咸陽の北西・甘泉山にあった始皇帝の離宮。後に武帝によって増築された)の監獄にいた囚人から「あなたには貴相がある。将来諸侯になるでしょう」と言われましたが、「鞭で打たれたり罵られたりすることがなければ私はそれでよい」と答えたといいます。彼の生い立ちがどんなものだったかよくわかるエピソードです。

ところがBC.139年に、衛青の実の姉で、武帝の姉の家の歌妓だった衛子夫(えい しふ…?~BC.91)が宮中に入り、やがて武帝の寵愛を受けるようになりました。

衛子夫が武帝の子をみごもると、武帝の皇后の母が衛青を捕縛させ、その命を奪おうとしました。武帝の皇后である陳皇后には子供がいなかったからです。

皇帝の子供を生めば、その女性の一族は取り立てられます。その最も有名な例が楊貴妃の一族で、楊貴妃が玄宗皇帝の寵愛を独り占めにするようになると、楊一族はたちまち我が世の春を謳歌するようになりました。

逆に皇帝の子供、男の子を生むことができなければ、周囲はおろか本人もまた冷遇されるのです。

子供を生むことのできなかった皇后の一族が、将来を怖れて衛子夫の家族や一族を目の敵にするのは当然のことでした。

こうして衛青は命を奪われそうになったのですが、友人の公孫敖(こうそん ごう)が仲間を連れて衛青を奪い返しました。

この話を聞いた武帝は、衛青を建章宮監(宮殿の事務方の長官)兼侍中(じちゅう…皇帝の側近)に取り立てることにしました。さらには衛青だけでなく、衛青と同母の兄弟姉妹も武帝に目をかけてもらえました。かつて彼をいじめた異腹の兄弟たちは、いずれ復讐されるかもしれないと恐怖におののいていたかもしれません。

衛子夫が宮中に入って10年後に、衛青は車騎将軍(しゃき しょうぐん…軍を率いる将軍の位の一つ)に抜擢され、塞外(さいがい…国境すなわち万里の長城の外)の異民族である匈奴の征伐に向かいました。衛青だけでなく、何人もの将軍が同時に出撃しましたが、彼らがまったく戦果を挙げられなかったのに対して、衛青率いる軍隊のみ匈奴の陣地の奥深くまで入り込み、匈奴数百人を討ち滅ぼしました。他の将軍たちの腰が引けているのに対し、衛青という人物には胆力があったのでしょう。

衛青の墓
衛青の墓。
年表
年表。衛青は前漢時代に活躍しました。

匈奴と漢の関係

さてこの時代にたびたび現れる「匈奴」とは何者なのか?

匈奴の名が初めて中国の歴史に登場するのはBC.318戦国時代のことです。

戦国時代中期の地図
戦国時代中期の地図。匈奴は秦の北西が勢力圏でした。

陝西地方の一小国であった秦が、孝公の時代に東方への進出をめざします。これに対して東の韓・魏・趙・斉・燕の5か国が手を組んでこれを阻もうとして匈奴を仲間に引き入れるのですが、この戦いは連合軍が秦に負け、匈奴は北に逃げ帰りました。

しかしこの後も匈奴は趙、燕、秦の北方に頻繁に出没しました。

匈奴は遊牧民族で、しばしば中国に侵略して漢民族を苦しめました。遊牧では得られない生活の必需品を、農耕民族から略奪していったのです。

戦国時代の秦は昭王の時代に長城を築き、北方の異民族を防ぎました。

趙の武霊王は、臣下の衣服を北方異民族の服に代えて騎射(馬に乗って弓を射る)を習わせ、長城を築き、城塞を作って、雲中・雁門・代の三郡を置きました。

戦国時代の燕・趙・秦の三国は匈奴と国境を接し、そこを趙の将軍・李牧(りぼく)が守備していた時は匈奴は侵略しては来ませんでした。

秦と匈奴の地図
秦と匈奴の地図。匈奴は左上に位置しています。

秦の始皇帝は、蒙恬に10万の兵をつけて北方異民族を征伐させ、河南(陝西地方の北とオルドス地方)をものにし、城塞や県城を築き、囚人たちによる守備兵を連れてきて守備させ、道路を切り開きました。

オルドス
オルドスの地図。

蒙恬将軍が活躍した時代は匈奴は歯が立たず、北方に移動しました。

匈奴に冒頓単于というリーダーが現れると、かつて蒙恬に奪われた土地を再び取り戻します。この時期、匈奴は最も強大になり、前漢と対峙するようになりました。

前漢の高祖・劉邦が平城で匈奴に包囲されるという事件の後、前漢と匈奴は和親関係を結びましたが、力関係においては匈奴が漢の上にありました。

武帝の対匈奴政策と衛青の活躍

武帝時代の最初の数年間、前漢政府による対匈奴政策はそれまでと変わらない低姿勢なものでした。

その後漢側は対匈奴政策として策謀を用いるようになり、それに不信感を抱いた匈奴側が漢の辺境に侵入、略奪行為をするようになりました。これが原因で漢の武帝による対匈奴戦争が始まりました。

このいくさで華々しく登場するのが衛青将軍です。彼は前述したようにBC.129年に車騎将軍として国境の外に出て匈奴を征伐しました。

翌年には、再び車騎将軍として3万騎を率いて出撃し、数千人を斬り、捕虜にしました。

翌年には漢の地に侵攻してきた匈奴を追って出撃し、敵によって陥落させられたオルドスを奪い返しました。

オルドス地方のオルドスとはモンゴル語で、現在、中国の内モンゴル自治区南部にあります。底辺のない四角形の形になって流れる黄河に東・西・北を囲まれ、南側には万里の長城がある場所です。

衛青将軍はさらに甘粛の南東部に攻め入り、この地を支配していた異民族の王を破り、オルドスの地を漢の朔方郡としました。

衛青将軍はこの武功によって3800戸の封邑を与えられて長平侯となりました。囚人の予言は当たったのです。

漢の地図(bc60)
前漢の地図。匈奴は北に追いやられました。

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