夏王朝と二里頭遺跡【神話と発掘調査から見る実在性】

夏王朝

夏王朝とは文献によれば中国最古の王朝で、の前に存在した王朝です。近年の考古学の発見により、長く神話や伝説の世界にあった夏王朝が実在したといわれるようになっています。

夏王朝とは

夏王朝とは、の前に存在したと言われる中国の古代王朝の一つです。かつてはその存在を疑われていましたが、近年の考古学上の発見により中国では実在したとされています。

夏王朝はBC.2070~BC.1600に存在したとされる中国最古の王朝で、神話的存在である禹(う)によって建てられ、BC.1600に殷によって滅ぼされたといわれます。

夏王朝の年表
年表。

禹は神話上の人物でその伝説によれば、中国大陸を覆っていた大洪水を治めた功績により聖王・から後継者として指名され、夏王朝を建ててその初代の王になりました。その父・鯀(こん)は天から「息土」という勝手に増えていく魔法の土を盗んできてこれを海に投げ、原初的な大地を作ったのですが、治水には失敗して処刑されます。その息子である禹は治水に成功し、父が遺した大地を踏み固めて大地を安定させました。

禹
禹。

夏王朝と禹神話

屈原の『楚辞』天問篇に「鲧何所営?禹何所成?」と、禹やその父が行った治水について問いかける言葉が出てきます。

書経』(『尚書』とも)の禹貢篇には、禹が洪水を治めて河を整備し、全国を九州(9つの州)に分け、各地の産物を水路を使って都に納めさせたことが記されています。

詩経』の大雅・文王有声篇には「豊水東注 維禹之績」(豊水が東に流れるのは禹の治水のおかげである)という句があります。豊水とは西安の西南郊外にある川の名前で、禹がこの川を整備してくれたおかげで私たちの今がある、と称えた歌です。

また西周の青銅器銘文にも禹の功績を称える内容が刻まれています。

このように禹は、古代の中原(ちゅうげん)…黄河中下流域の民にとっては、夏の初代王というより、彼らの共通の祖神かつ神話的英雄として知られ崇拝されていました。

夏王朝の2代目は禹の息子とされる啓なのですが、禹の事跡と啓の事跡は重なる伝説が多く、実は啓(「啓」には「開く・始める」という意味がある)が夏王朝の初代であり、その系譜に禹という神話的人物が加えられたのではないかともいわれています。

夏王朝は実在したのか?

司馬遷の『史記』には、夏王朝は初代の禹から最後の桀まで471年間続いた後、殷に滅ぼされたとあります。

中国の古代史研究方法としては「信古」「疑古」「釈古」があり、「信古」は古代からの伝承を記録した文献はすべて事実であると信じ、「疑古」はその史実性を疑い、特に1910年代後半から始まる新文化運動(儒教批判)と連動し、胡適(こ・せき…1891~1962 元北京大学学長 後に台湾に移る)がその代表です。

胡適は「東周の前に史なし」と言い、BC.771周王朝の東遷以前の歴史(夏・殷・西周)についての文献には信ぴょう性がないと考えました。

一方王国維(おう・こくい…1877~1927 清末民初の学者)は信古でも疑古でもない「釈古」を主張しました。後世の学者のうち、出土した文献を中心に扱う中国の学者は自分を釈古であると考える人が多いということです。

さて伝承されてきた文献は信じるに足るのか疑うべきなのか、それとも…と研究姿勢が3派に分かれていた中国の学会ですが、やがて殷墟が発掘、殷王朝が実在することが考古学的に証明され、「東周の前に史なし」説は否定されて殷や西周が実在することがはっきりしました。こうして、それならば夏も実在するのではないかということになりました。

二里頭遺跡の発掘

二里頭遺跡
二里頭遺跡。
二里頭遺跡から発掘された青銅器
二里頭遺跡から発掘された青銅器。

殷が実在する以上夏も実在するはず…中国人がこう考えるのはもっともです。

1949年に中華人民共和国が成立したのち、夏王朝の都探しが始まりました。文献上夏王朝の伝承が残る地域は河南省登封市と山西省翼城県です。1959年に遺跡調査が始まり、河南省洛陽市偃師(えんし)市で「二里頭(にりとう)遺跡」が発掘されました。

二里頭遺跡の地図
二里頭遺跡の地図。

この遺跡は面積4平方キロで、ここからは宮殿跡、青銅器や陶器の製造工房、住居跡、墓などが見つかっています。中でも注目すべきは宮殿跡で、基壇は約100メートル四方の正方形、全体が回廊に囲まれ、南に大きな門、北と東にやや小さい門。基壇の北寄りの場所に正殿があります。この構造は現代の北京に残る故宮(明と清の王宮跡)の構造と基本的に同じです。また出土した青銅器の容器からは儀式や儀礼の存在が感じられるといいます。

全体としてこの遺跡からは整備された政治組織の存在や礼制の芽生えなどが想像できるのです。

これはそれまでに発掘された遺跡からは飛躍した新しい歴史的段階の始まりを意味する遺跡であり、さらに発掘された土器が殷代の土器とは形式が異なることもあって、中国の学会ではこの遺跡は殷の文化に属するものではなく夏王朝の文化に属するものである、すなわちここは夏王朝の都の跡であると結論づけました。

中国政府による1996~2000年までの「夏商周断代工程」(夏商周年代確定プロジェクト)では、二里頭遺跡の発掘調査結果により夏王朝の年代はBC.2070~BC.1600年と確定されています。

二里頭遺跡=夏王朝の実在の証明としていいか?

二里頭遺跡は明らかに一つの王朝的な存在を示すものであると見ておかしくないのですが、それではそれを夏王朝の跡と結論づけていいのかとなると、中国の学会や学者の認識では二里頭遺跡の存在をもって「夏王朝の実在」とされているのですが、日本の学者の中ではまだ意見が2つに分かれています。

というのは「出土した文字資料によって確認できないから」です。文献による情報はあるけれどそれを証明する証拠物件がないのです。

殷の場合、殷墟から出てきた甲骨文字によって情報が事実であると証明されました。

二里頭遺跡の場合それが「夏王朝」のものだという「証拠」はありません。そこで日本の学者の一部は「二里頭遺跡が夏王朝のものだと証明はできない」が「二里頭遺跡が夏王朝のものではないということもできない」という慎重な姿勢を取っています。

一方で別の学者は、特に21世紀以降に入ってから、原初的な王権や宮廷儀礼、身分秩序など礼制が確立されていること、またこの遺跡からは河南中西部を勢力圏にしていた様子が伺えるなどの点から、ここを夏王朝の跡だと見るようになってきています。

夏王朝はあった、と打ち出してくれた方がロマンはありますが、学問的姿勢としては日本の慎重派学者の方が正しいような気がします。

特にこれら古代考古学に対する中国政府の姿勢が、国家としての威信を打ち建てることに注力している傾向が見られるだけに、史実に対する客観性が保てているのか危うい感じもします。

ある学者はこうした状況から「二里頭遺跡」を「夏王朝」の跡地と断言するのではなく、「二里頭王朝」と名付けておくのはどうかと言っています。もう少し地道な発掘作業をして決定的な証拠を見つけてから「夏王朝」の名前をつけても遅くないのではということでしょう。

中国政府は2004年から「中華文明探源工程」国家プロジェクトを立ち上げ、黄帝の時代や堯の都を探っているということです。

夏王朝エピソード1…青銅の鼎

青銅器の鼎
青銅器の鼎。

夏王朝にまつわる面白いエピソードを紹介しましょう。

1つ目は『春秋左氏伝』(しゅんじゅう さしでん…孔子の編纂とされている歴史書『春秋』の注釈書の一つ)に出てくる春秋時代の話です。漢文の教科書で読んだ方もいるかもしれません。

の荘王が周王に、王朝のシンボルである鼎(かなえ)の重さや大きさを尋ねました。荘王は王権の権威である鼎を周から楚に移そう、つまり王権を奪おうと、弱体化した周王朝に対し鼎をくれるなら軍を退けてもよいと、この言葉で相手方の意向を探ったのです。すると周王朝側の使者が「王朝の徳が盛んであるなら鼎は小さくても重いものです。徳を失うとたとえ鼎は大きくても軽くなってしまいます。天は徳を持つ国に幸いを与え、鼎もそこにとどまります」と答えました。この故事は「鼎の軽重(けいちょう)を問う」という成語となって、トップの力量を試すとか、その地位を奪おうとする意味として今も使われています。

ここで言われている「鼎」は夏の初代王・禹が命じて作らせたと伝わる青銅の器で、夏、殷、周と3つの王朝を経ており大きな権威を持っていました。

青銅器の鼎は王権のシンボルで、王に徳があれば天命としてその地にとどまり、徳を失えば同時に天命も失ってその地を離れる、という思想がその背後にありました。

夏王朝エピソード2…大地を踏みしめる

禹が父の仕事を受け継いで原始の大地を安定させる際、大地を足で踏み固めていったと言います。この呪術を「歩」と言いました。

これは後世の道教に受け継がれ、道士は「禹歩」という独特の歩き方で儀式の場を踏み固めました。

日本の大相撲でも力士は四股(しこ)を踏みますが、あの動作は相撲の稽古の方法であると同時に、大地の邪悪な霊を踏み鎮(しず)める意味を持つそうです。四股は道教に由来すると言われており、「禹歩」と「四股を踏む」にはもしかしたら何らかの関連があるのかもしれません。