蘇秦【合従策によって超大国・秦に対抗しようとした弁舌家】
蘇秦(そしん)は、張儀とともに諸子百家の縦横家という弁論グループを代表する人物です。
縦横家の主張する合従連衡策のうち、張儀が連衡策を唱えたのに対し、蘇秦は合従策を唱え、これにより戦国七雄のうち6国が連合して秦に対抗するようになりました。
※上の画像は蘇秦が長く仕えた燕の首都・薊(現在の北京)。
目次
- 1. 蘇秦とは
- 2. 縦横家とは
- 3. 合従策と連衡策
- 4. 蘇秦の事跡
- 5. 合従の解体と蘇秦の最期
蘇秦とは
蘇秦(そしん…?~BC317)とは、中国戦国時代(BC.475~BC.221)の策略家・弁舌家です。張儀(ちょうぎ)とともに、諸子百家の一つ・縦横家(じゅうおうか・しょうおうか)の代表的な人物です。
当時の中国は戦国七雄と呼ばれる秦・斉・韓・魏・趙・燕・楚の七か国が競い合い、その中で秦が抜きん出た力を持つようになっていました。蘇秦は秦以外の六か国の王に、六か国が縦に連合して秦に対抗するようにという「合従説」を訴え、これがうまくいって六か国は連合の約束を交わし、この約定を秦に伝えると、秦は15年他国に兵を出しませんでした。けれども最終的に秦は各国に離間工作を仕掛け、六か国の合従は瓦解して次々と秦に滅ぼされていきました。
縦横家とは
縦横家とは儒家のように特定の思想集団を意味するものではなく、戦国七雄の秦・韓・魏・趙・燕・楚・斉の国々を渡り歩いて自分の外交政策を訴え売り込んだ人々のことです。
縦横家を代表する人物が蘇秦と張儀です。
合従策と連衡策
合従策とは、超大国にのし上がった秦に対して、韓・魏・趙・燕・楚・斉の6国が縦に連合して秦に対抗する策のこと。
連衡策とは、6国がそれぞれ秦と同盟を結んで生き残りを図る策のことです。
蘇秦の事跡
家族・親族からバカにされる
蘇秦は東周・洛陽の人で、東の斉に行って鬼谷(きこく…縦横家の祖ともいうべき人物で、諸国を遊説する方法を説いたといわれる)に学びました。その後放浪して数年後に故郷に帰るとその困窮ぶりに家族も親族も嘲笑いました。
「田畑を耕したり、商人、職人になって働いて金を稼ぐのがまっとうな人の道なのに、口先だけ達者になってどうするのか」と。
縦横家とは策略を相手に売り込むのが商売、うまくいって諸国の王から重用されれば大したものですが、そうでなければ一文にもなりません。馬鹿にされるのも無理はありませんでした。
そこで蘇秦は再び家に閉じこもって読書に没頭、人の心理を読んで己の策を採り入れさせる術を会得します。
こうしてまずは周王を説得しに向かいますが、周では蘇秦がよく知られておりバカにされていたため相手にされませんでした。
次に秦に向かいますが当時の秦は商鞅が誅されたばかり、弁舌の徒が嫌われていたのでやはり蘇秦は相手にされませんでした。
そこで蘇秦は趙に向かいました。趙も蘇秦を歓迎しません。
次に燕に行き、1年後やっと文公のお目通りがかないました。
合従を献策して成果を上げる
燕の文公に会った蘇秦は、超大国・秦に対抗するには、燕・韓・魏・趙・楚・斉が同盟を組むべきだと説得しました。
文公はそれを聞いて蘇秦に資金を与え趙に行かせました。
趙王もこの説に従う約束をして蘇秦に資金を与えました。
韓王、魏王、斉王、楚王すべて蘇秦の説得を受け、6国が南北に合従して協力し合うことになりました。蘇秦は合従同盟の長になると同時にそれぞれの国の宰相を兼任することになりました。
趙の粛公は蘇秦に封邑を与えて武安君とし、6国が合従した約定を秦に伝えました。
これにより秦は6国に兵を出さないこと15年の長きに及び、蘇秦はその弁論術で大きな成果を上げたのです。
鶏口となるも牛後となるなかれ
諸国に合従策を説いて回った時、蘇秦は韓王に「鶏口となるも牛後となるなかれ」ということわざを使って説得しています。これは「大きな組織の下っ端になるよりは小さな組織のトップになった方がよい」という意味です。この言葉を聞いた韓王はがぜん秦への敵対心を燃やし、蘇秦の言葉に従いました。
故郷に錦を飾る
6国が合従同盟を組んだことを趙王に復命するため、蘇秦は洛陽を通過して趙に向かうのですが、その時の行列は王侯の行列のようで、周王でさえこれをねぎらい、かつて蘇秦を馬鹿にした親族は恐れ入って顔を見ることさえできませんでした。
蘇秦はこの様子に、同じ人間であるのに貧乏な時は馬鹿にされ、金持ちとなれば恐れるのか…とため息をつきました。
蘇秦は大金を一族や友人に与え、恩ある人みなに報いました。
合従の解体と蘇秦の最期
蘇秦が力を尽くし15年にわたって平和をもたらした合従は、秦による離間工作などにより瓦解してしまいました。
その後蘇秦は斉に行って客卿として遇されますが、やがて周囲のねたみを招き命を奪われました。蘇秦は息を引き取る前に、「私の遺体を車裂きの刑に処し、蘇秦は燕のために斉を裏切ったと説明してください。そうすれば必ず下手人が顔を出すでしょう」と言い残しました。果たして下手人が自首してきたため斉王はこれを処刑したということです。