項羽の生涯【秦を滅ぼし劉邦に敗れるまでの歴史地図】
項羽は、秦王朝末期に秦を倒そうと立ち上がった旧楚出身の武将です。秦朝を滅ぼした後は共に戦ってきた劉邦とたもとを分かち、覇を競って戦いました。なかなか勝負がつきませんでしたが、やがて劉邦軍が優勢となり、項羽は垓下で包囲され、最期は自刎して果てました。
目次
- 1. 項羽とは
- 2. 項羽の生い立ち
- 3. 挙兵後
- 4. 項梁の死と項羽の活躍
- 5. 鴻門の会
- 6. 秦滅亡
- 7. 楚漢の戦い
- 8. 四面楚歌…項羽の最期
項羽とは
項羽は秦に滅ぼされた楚の出身。秦朝末期、項羽は叔父・項梁とともに始皇帝亡き後の秦を滅ぼそうと決起し、破竹の勢いで反乱軍のトップにのし上がります。後に漢を興す劉邦も最初は項羽の配下にありました。後に劉邦軍が一番乗りで函谷関を突破し秦の都・咸陽を押さえたことで、項羽が激怒し一触即発になりそうなところで「鴻門の会」が開かれて両者は和解。その後秦を滅ぼすと項羽と劉邦の間で楚漢戦争が起こります。項羽軍は圧倒的に強かったのですが、やがて勢いは徐々に劉邦側に。そこで天下を山分けすることになりましたが、項羽軍の飢えと疲れを見てとった劉邦軍はこれを垓下に包囲、項羽は天運に見放されたことを悟って自刎し、天下は劉邦のものとなりました。
項羽の生い立ち
項羽(BC.232~BC.202)は姓が項で、羽は字(あざな)、名は籍。項籍とも呼ばれます。項一族は楚の国で代々将軍職を務めてきた名家で、いわば貴族の一族です。楚の名将・項燕は祖父にあたり、項梁はその息子です。項羽の両親については『史記』などの歴史書に記載がなく、項羽は叔父の項梁に育てられました。
項羽には目に瞳が二つありました。これは「重瞳」(ちょうどう)という症状ですが、中国では貴人に多い現象だとされています。項羽以外にも伝説の聖王・舜もそうですし、孔子の高弟・顔回も重瞳だったといわれています。
彼は大柄で背の高さが8尺(秦代の1尺は23.1センチ。約1.84メートル)あり、力持ちで才気もありました。
叔父が文字を教えようとすると「文字は名前が書ければいい」と言って嫌がり、剣を教えようとすると「剣は1対1だから、将軍になるわしには役に立たん」と言って嫌がりました。
項羽は子供の頃から自分の未来に、将軍としておおぜいの兵士を指揮する姿しか思い描いていなかったのでしょう。
兵法についても叔父から教わりました。
後に劉邦が黥布(げい ふ…?~BC.196 英布とも。初めは項羽に仕え、後に劉邦に仕えた武将)と戦った際、黥布の布陣が項羽とまったく同じだったため劉邦はこれを恐れたといいます。
項羽の叔父である項梁もなかなかの暴れ者でした。
故郷で人をあやめ、このため項羽を連れて故郷を離れ呉中(今の蘇州)に逃れます。
この地で二人は巡幸中の始皇帝の姿を見ました。
始皇帝の姿に項羽は「わしがこいつに取って代わってやろう」と呟き、項梁はあわてて項羽の口をふさぎます。「バカめ、人に聞かれたら滅族だぞ」
滅族とは三族(父方の親族、母方の親族、妻の親族)すべてを処刑することです。
秦の刑罰の酷さは中国全土でよく知られていました。
しかし絶大な権力を振るう天下の皇帝に「取って代わってやろう」とは…コイツは見どころがある、と項梁は思ったといいます。
挙兵後
始皇帝の死後である秦の二世元年(BC.209)、陳勝・呉広の乱という下級兵士たちの反乱が起きました。
反秦の狼煙が上がったのです。
項梁はこの動きに呼応します。項羽とともに会稽郡の役所に向かい、項羽にここの長官の命を奪うよう命じ、項梁は死んだ長官から印綬を奪いました。
印綬とは印鑑・判子のことです。
秦は郡県制度という中央集権制度を採っていましたので、中央官庁と地方の役所との間は文書を用いて命令の授受が行われていました。
印鑑はその際に不可欠で、いわば地方役人の権限を象徴しています。
項梁たちは郡の長官の命と印綬を奪って郡を乗っ取ったのです。
役所にいた役人たちも項羽によっておおぜい命を奪われ、なすすべもありませんでした。
時に項羽24歳、項梁50代です。
項梁は呉の人々に秦に反旗を翻すことの道理を訴え、この地で精兵となるべき若者8000人を手に入れました。秦への反感が民間に満ち満ちていたのでしょう。
こうして項梁は会稽の長官に、項羽は副将となりました。
呉の土地の「豪傑」たちもそれぞれ役職につきました。「豪傑」とは土地の有力者を指すようです。
項梁の知り合いの豪傑の中でも項梁に用いられる者と用いられない者がいました。
項梁は呉に流れてきたのち、地元の人の葬儀などの仕切り役などで食べていたようです。
中国の葬儀は今も農村では土地の人がおおぜい参列し、鳴り物入りの大がかりなものです。古代の富裕層の葬儀も同様に大規模なものだったことでしょう。
その仕切り役となると指揮能力も必要です。項梁にはそうした能力があったのでしょうし、人をあやめたお尋ね者ですからコワモテで押しもきいたことでしょう。
項梁はそうした作業に兵法を採り入れ、客や若者を組織してその能力を見ていました。
さすが楚の名将・項燕の息子です。その結果の選別でした。能力のある者だけ項梁軍の小指揮官にしたのです。
項梁と項羽はこの精鋭八千人を率いて長江を渡り、西に向かいました。
項羽は後に「四面楚歌」となって落ちていった先、烏江(うこう…長江支流)の亭長から再起を促されましたが「江東の子弟八千人と長江を渡って西に行き、今帰るものは一人もいない。これでは父兄たちに合わせる顔がない」と言って自刎しますが、これがこのときの八千人です。
項梁の呼びかけに応じた最初の八千人は、一人もふるさとに戻ることはなく戦死したのでした。
長江を越えたのち東陽県の陳嬰(ちん えい)が率いる2万人の部隊と合流、これを配下に置きました。
東陽県(安徽省)でも決起する若者が2万人いたのです。この地の役人だった陳嬰は人望があり、若者からリーダーになるよう頼まれたのですが、自分では力不足、「名家」に頼れば秦を滅ぼすことができるとして、項梁たちを頼りました。
項梁軍が淮水(わいすい…黄河と長江の間を流れる大河)を渡ると、群盗の親玉・黥布(げい ふ)らも、獄にいた受刑者や百越(ひゃくえつ…南方にいた異民族)を従えて項梁の配下に入ったため、兵力はおよそ6~7万となりました。
淮陰(わいいん…江蘇省淮安市)に至ると、ここにいた韓信(?~BC.196)も加わりましたが、のちに劉邦配下の武将として名をなす韓信も当時はまったくの無名、大勢の兵士の一人に過ぎませんでした。
かくして項梁軍は、反秦の旗を翻して進軍するうちにどんどん打倒秦の志士たちが集まって大軍になっていったのでした。
BC.208項梁軍は北に向かい、秦の軍隊と戦って勝利しました。
この頃項梁は「陳勝・呉広の乱」を起こした陳勝の死を知ります。
薛(せつ…山東省)ではのちのライバル・劉邦(BC.256~BC.195)率いる軍隊を吸収し兵力は10万を超えました。
このあたりで項梁軍は旧楚の東部と江南の地を勢力下に置き、項梁は陳勝のように王となるべきかどうかの判断を迫られました。
項梁は、配下にいた范増(はん ぞう…BC.277~BC.204 項羽から亜父…父に次ぐ人…と呼ばれ敬愛された)という老人の進言を入れて、当時羊飼いをしていた旧楚の懐王の孫・心(しん)を立てて懐王とし、楚を復活させるという形を取ることにしました。
范増の進言とは、楚の人間はかつて懐王が秦によってひどい目に遭わされたことを恨み、今も懐王を慕っている、その懐王の子孫を王として立てれば秦打倒に勢いがついて我が軍に有利だ、というものでした。
項梁の死と項羽の活躍
項梁軍は各地で秦を破りましたが、連戦連勝のおごりがたたったのか項梁自身は、その後態勢を整えた秦の章邯(しょう かん…?~BC.205 秦の将軍)に敗れて戦死しました。
項梁によって王の身分に取り立てられた懐王心は、項梁の敗北を予言した旧楚の宰相・宋義を上将軍、項羽を次将として、自軍が趙の鉅鹿(きょろく)城に包囲されているところに救援に向かわせました。
ところが途中まで行くと宋義はそれ以上進もうとしません。そこで項羽は宋義の命を奪い、自分が上将軍となって全軍を率いて河を渡り、乗ってきた船を沈め、3日間の食糧だけ持って鍋釜は壊し、勝利しなければ生還することはないという覚悟を兵士たちに示しました。
鉅鹿では、楚の兵士1人で章邯率いる秦軍10人に当たる勢いで、その雄たけびは天をも震わせました。
秦軍に勝利した後、楚以外から参加した諸侯の軍は項羽軍を怖れるようになり、将軍たちは膝を地につけ這いつくばって頭を下げたきり、項羽の顔をまともに見る者はありませんでした。
こうして項羽は諸侯の上に立ち、諸侯はみな項羽に従うようになりました。
秦の将軍・章邯は殷墟(河南省)で項羽と会い、このとき項羽側に寝返りました。
項羽は降伏した秦兵が自分に心から服していないことを見てとり、自軍の糧食が乏しいこともあって秦兵20余万人を生き埋めにしてしまいました。
鴻門の会
その後秦の地を次々と平定しながら函谷関(かんこくかん…秦の関所。ここより西を「関中」という)に着くと、劉邦軍が先に到着しており、関所を封鎖していて項羽軍を中に入れようとしません。
さらに劉邦はすでに秦の都・咸陽を攻め落としたと聞いて項羽は激怒し、劉邦軍を討とうとしました。
この時項羽軍は40万、鴻門(こうもん 陝西省の北東)に陣取り、劉邦軍は10万、覇上(はじょう 陝西省西安市東白鹿原の北)に陣取っていました。
劉邦の家臣の曹無傷(そう むしょう)が人を項羽のところに送り「劉邦は関中の王となる下心があり、子嬰(しえい 秦の三世皇帝)を宰相とし、秦の宝物をみな奪いました」と言わせました。
実は項梁が立てた懐王がかつて諸侯たちに、最初に関中に入った者を関中の王とすると約束していたのです。
これを聞いた項羽は激怒し、明日兵士にゆっくり食事を取らせたら、その後劉邦軍を打ち破ろう」と言いました。
これを聞いて項羽の軍師の范増が「劉邦は金や女性にだらしないことで有名ですが、函谷関に入ると財宝にも美女にも目もくれなかったと聞きます。これはただごとではありません。人をやって劉邦から立ち上る精気を観察させると、五色の竜の形をしていたそうです。これは天子になる精気ですから早く討伐しなければなりません」と進言しました。
項羽の叔父・項伯はかつて人をあやめたことがあり、そのとき今劉邦配下にいる張良(?~BC.186 劉邦に仕えた軍師)に助けてもらった恩義がありました。
項伯はこの事態を受けて、夜中に馬を飛ばして劉邦の軍営に行き、密かに張良に項羽の企てを伝えたあと一緒に逃げようと張良を誘いました。
すると張良は「今危険だからといって逃げるのは不義です」と断り、状況を劉邦に伝えました。
劉邦はそれを聞いて驚き「今項羽軍が攻めてきたら勝ち目はない。どうしたらよかろう」と張良に相談しました。
張良は「では項伯に、沛公(はいこう…劉邦のこと)は項王(項羽のこと)に背くことはありませんと伝えましょう」と返事をしました。
劉邦は項伯が張良より年上だと聞き、兄者として迎えたいので呼んでもらえないかと張良に頼みました。
こうして項伯は劉邦に会いました。
劉邦は杯を掲げて項伯の長寿を祝すと「私は函谷関に入って以来、秦の財物には触れず、蔵を封鎖して項羽将軍をお待ちしていたのです。関所を守って人を入れなかったのは、盗賊などに備えるためです。昼も夜も将軍のことをお待ちしていたのにどうして私が背くなどということがありましょう」と言って、項伯に取りなしを頼みました。
それを聞いた項伯は「それでは明日早く将軍にお目にかかり、お詫びを申し上げるといいでしょう」と言いました。
項伯は項羽の陣中に戻り劉邦の言葉を伝えました。
「劉邦がまず函谷関を破らなければ我々も中には入れませんでした。功を立てた者を撃つのは不義です。ここは厚遇してやった方がよいと思います」と項羽に進言すると、項羽もこれを聞き入れました。
劉邦は翌朝百余騎を従えて項羽のもとを訪れ、項羽と鴻門で会いました。
「私たちはともに反秦の旗を掲げ手を携えて戦ってきました。将軍は河北で、私は河南で戦い、私の方が先に函谷関に入って秦を撃ちました。つまらぬ人間が中傷して、将軍と私を仲たがいさせておりますが…」と詫びると、項羽は「これは君の家臣の曹無傷が伝えてきたことだ。それがなければどうして君を疑おう」
こう言って二人は酒を飲み交わすことにしました。
項羽と項伯は東面(とうめん…東に向かって)して上座に座り、范増は南面して二の座に座りました。劉邦は北面して三の座につき、張良は西面して下座に座りました。
范増は何度も目配せをし体につけている玉を挙げて「劉邦をやってしまいなさい!」と促すのですが、項羽はこれに応じようとはしませんでした。
そこで范増は表に出て項羽の従弟である項荘(こう そう)を呼び「項羽将軍は情にもろい。お前が中に入って長寿を祝い、祝い酒が終わったら剣舞を舞い、そのはずみを装って劉邦を斬れ!」と命じました。
項荘は中に入り、言われたとおりにして「それでは何の余興もないので、私が一つ剣舞を舞いましょう」と言って舞い始めると、項伯も剣を抜いて舞い劉邦をかばうので、項荘は劉邦を斬るチャンスがありませんでした。
張良が席を立ち、外で樊噲(はん かい…BC.242~BC.189 劉邦の家臣)に会って「危ない。沛公がやられそうだ」と言うと、樊噲は「私が中に入ります」と言って剣を佩び、盾を持ち中に入りました。
入口で衛士が押しとどめるので、盾で衛士を突き倒してとばりの中に入り、西に向かって立つと項羽をにらみつけました。髪の毛は逆立ち、まなじりは裂けんばかりでした。
項羽は剣の束(つか)に手をかけて座り直し「こいつは何者だ」と言うと、張良が「沛公の家来で樊噲と言います」と答えました。項羽は「壮士である。一献与えよ」と命じました。
1斗入りの杯に酒を注ぐと樊噲はこれを立ったまま飲み干し、項羽がさらに「豚の肩肉を与えよ」と命じ、これを与えると盾を裏返しにしてそこに肉をのせ、剣を抜いて肉の塊を切るとその場で喰らい始めました。
項羽が「壮士よ、まだ飲むか」と聞くと樊噲は「私は死ぬことなど惧れていない。ましてやたかが1斗の酒など。秦の始皇帝は虎狼の心で天下を治め人を罰し、かくして天下は秦にそむくようになりました。楚の懐王は『一番早く秦の守りを破って咸陽に入った者を王としよう』と約束をしました。沛公は最初に秦を破り咸陽に入ったのに、財物に手をつけず将軍のいらっしゃるのをお待ちしていたのです。それなのにつまらない人間の讒言に耳を貸し功ある沛公の命を奪おうとは。これでは始皇帝の暴虐と変わりありません」
項羽は「座れ」とだけ言い、樊噲は張良のそばに座りました。
その後劉邦が厠(かわや)に立ちました。劉邦は外に出てきた張良に、玉一対と玉製の酒器を項羽と范増へのみやげとして渡しよろしく伝えてくれと言うや樊噲と二人項羽の軍営から立ち去りました。
劉邦の命を奪い損ねた范増は、劉邦からのみやげの酒器を剣で突いて叩き壊し「まったく情けない若造どもだ。項羽の天下を奪う者は沛公に違いない」と吐き捨てました。
秦滅亡
数日後、項羽は兵士を率いて西の咸陽に向かい、すでに降伏していた秦の三世皇帝・子嬰の命を奪い、秦の王宮・阿房宮を焼き払いました。火は3か月消えなかったといいます。
BC.206こうして秦は項羽の手によって滅ぼされました。
楚漢の戦い
秦を滅ぼしその王宮を焼き尽くした項羽はこの地の支配者になることなく、東にある故郷に帰りました。
「富貴の身の上になったのに故郷に帰らないのは、錦を着ているのに夜歩くようなものだ。誰にも自分の出世を知ってもらえない」と言いました。
項羽は楚の懐王を義帝としますが、戦功のあった諸将を王や侯の身分にとりたてて土地を封じたのは、皇帝ではなく項羽でした。事実上項羽こそが中国の覇者となったのです。BC.206、項羽27歳の時です。
項羽は「最初に関中(秦の領土)に入った者を王とする」とする懐王・義帝との約束に背くと、諸侯も自分に背くようになるのではないかと怖れ、「巴(は…重慶)や蜀(しょく…成都付近)も関中である」と詭弁を使い、劉邦を巴・蜀・漢中(かんちゅう…陝西省漢中市)の王とし、南鄭(陝西省漢中市)をその都としました。これが後に劉邦が打ち建てた「漢王朝」という名称の由来です。漢民族・漢字・漢文…みなここに由来しています。
最初に関中に入ったのは劉邦でしたが、項羽は関中の地すべてを劉邦に与えようとはしませんでした。といって自分も関中の王とはならず、ここを三分して自分の系列の功臣に与え、項羽は故郷…梁・楚9郡の王となって「西楚の覇王」と号し、彭城(ほうじょう…江蘇省徐州)に都を置きました。
その後義帝を別の土地に移動させようとすると、この命令に背こうとする気配があったのでその命を奪いました。
項羽のえこひいき人事は諸将たちの不満を招き、斉や趙出身の諸将はたちまち項羽に反旗を翻しました。項羽はこれを片っ端から討伐し、降伏した敵兵は生き埋めにしていきました。項羽はいくさに滅法強く連戦連勝なのですが、叩いても叩いても彼に刃向かう敵が現れてきました。
このころ漢中に押し込められたはずの劉邦も東に進軍するようになり、項羽側に寝返り関中の地を与えられていた旧秦の将軍たちを討伐して自分のものとしました。こうして項羽と劉邦の間で、世にいう「楚漢戦争」が始まりました。
楚漢による彭城(ほうじょう)の戦いでは、項羽が3万の軍勢で56万の劉邦軍を圧倒し、その戦死者で睢水(すいすい)の川はせき止められてしまったといいます。
劉邦は三重に包囲されましたが、折からの嵐に乗じて数十騎とともに脱出できました。
沛に行って家族を連れ出そうとすると、家族はみな逃げていて会うことができませんでした。
逃げる途中道端で孝恵(劉邦の息子。のちの孝恵帝)と魯元(劉邦の娘。魯元公主)を見つけ、自分の車に乗せました。
その車を楚軍が追い、足手まといになると劉邦は我が子二人を車から蹴落とし、御者の夏侯嬰(かこう えい…漢の武将)がその都度拾い上げて無事逃げおおせました。
劉邦が我が子を蹴落とすこと3度だったと『史記』には書いてあります。
夏侯嬰は「いくら危急の時とはいえ、どうして我が子を捨てることができるのだろう」と言ったといいます。
この時見つけることができなかった劉邦の父・太公と妻・呂后(りょこう)は楚軍に捕まり人質となりました。
その翌年、項羽は滎陽(けいよう…河南省鄭州市の西)で劉邦軍を包囲しました。
食糧が尽きてきた劉邦軍は講和を申し出ました。項羽は承諾しましたが、軍師の范増が反対しました。
劉邦は陳平が進言した項羽と范増の離間策を採用し、これに引っかかった項羽は范増を疑うようになりました。
漢と手を結んでいると項羽に疑われた范増は怒り「天下はこれであらかた定まった。この後は項羽将軍がおひとりでお考えになることだ。私は一兵卒になります」と言って項羽の元を離れ、彭城に行く途中病気のため亡くなりました。
包囲されていた劉邦は、配下に自分の影武者をさせ、楚軍の注意をひきつけておいたスキに脱出しました。
それから1年して項羽と劉邦は広武山(河南省)で戦いますが勝負はつかず、長引く戦線に兵士たちは苦しみ始めました。
そこで項羽が人を劉邦の元に送って「我ら二人、一対一で決着をつけようではないか」と言わせると、劉邦は笑って「知恵比べならいいが、腕力はごめんだ」と返事をしました。
その後項羽は、韓信が対楚攻撃に向かっていると聞き、竜且(りゅうしょ)を韓信軍に差し向けましたが敗北。
劉邦配下の他の武将もたびたびゲリラ戦で楚を苦しめるようになりました。
やがて楚は、糧道(りょうしょく…食料)の地を劉邦側に奪われ糧食が乏しくなりました。一方漢は蕭何(しょうか)という優秀な人材があれこれ手配をして糧食は十分でした。
BC.203の8月、項羽と劉邦は鴻溝(こうこう…古運河)を境に東を楚、西を漢と決めて和睦し、劉邦の父や妻(のちの呂后)も解放されました。
項羽は軍を率いて東に向かいました。
劉邦も西に向かおうとしましたが、配下の張良と陳平が「楚は兵は疲れ食も尽き果てています。これは天が楚を滅ぼそうとしているのです。漢王(劉邦)は楚軍の飢えに乗じて天下を取るべきです」と主張し、劉邦はこの進言を受け入れました。
翌BC.202の12月、劉邦軍は項羽軍を追撃し、韓信、彭越、黥布など諸侯の軍とともに、項羽軍を垓下(がいか…安徽省霊宝県の南東)で包囲しました。
四面楚歌…項羽の最期
垓下で包囲された時、項羽の軍隊は兵士は減り、食糧も尽きようとしてました。
漢軍と韓信や彭越、黥布の兵は項羽軍を幾重にも囲みました。
夜になると四方から聞こえてくる楚の歌声に、項羽は「漢はもう楚の土地をみんな奪ったのか。敵陣にいる楚人のなんと多いことだろう」と言い、夜中に起き上がってとばりの中で酒を飲みました。
ずっと項羽に付き従っていた虞美人と愛馬・騅(すい)が項羽のそばにいました。
そこで項羽はこみあげる思いを歌にしました。
力は山を抜き 気は世を覆う
時に利あらず 騅ゆかず
騅のゆかざるは 如何すべき
虞や虞や なんじを如何せん
これを歌うこと数回、虞美人もこれに唱和し、項羽の頬には涙がしたたり落ちました。
周囲の者もみな泣き、顔を上げるものはいませんでした。
その後項羽は馬に乗り、壮士800人を従え、包囲網を突破して南に向かいました。
夜明けになって漢軍がこれに気づき、騎将の灌嬰(かん えい)に5000騎をつけ、これを追わせました。
項羽が淮水を渡った時、項羽に従った兵士は百余人になっていました。
項羽が陰陵(いんりょう…安徽省)で道に迷った時、一人の農民に「左に行くとよい」と言われ、これに従うと沢にはまってしまい、漢軍に追いつかれました。
そこで東に向かい東城(安徽省)に行きました。この時の兵士は28騎。これを追う漢軍は数千人いました。
この状況の中で項羽は周囲の者にこう言いました。
「決起して8年、わしは70余戦を戦い、いまだかって敗れたことがない。天下をわが物としたが今や事ここに至った。これは天がわしを滅ぼすのだ。いくさの罪ではない。
最後にわしは、お前たちのために囲みを突破し、敵将を斬り敵旗を倒し、いくさの罪ではないことをお前たちに見せてやろう」
こうして最後に残った騎馬兵を4隊に分け、円陣を組んでそれぞれ四方に飛び出していきました。
項羽が「わしはあの将軍を討ち取るぞ!」と言って雄たけびをあげ駆け下ると、漢軍の将兵は皆ひれ伏し、その中の一人を斬り捨てました。
この時騎将の楊喜(よう き)が項羽を追いました。
項羽が怒鳴りつけると楊喜は馬とともに驚き、後ずさりすること数里。
漢軍は項羽を見失います。
漢軍は軍を3隊に分けて再び項羽を包囲し、項羽はそれも突破して漢の都尉を手始めにおおぜいを斬り倒しました。
ここで再度付き従ってきた騎馬兵を集めるとわずかに2騎失っただけでした。項羽はみなに「どうだ」と言うと、兵士たちは「大王のおっしゃるとおりでした」と言いました。
ここから項羽は東に向かい、烏江(うこう)で長江を渡ろうとしました。
ここの亭長(役場の長)が船を用意し「江東の地は小さい所ですが、王として立つには十分な土地です。どうかこの船で長江を渡ってください。ここに船はこれ1隻あるのみ。漢軍が追いかけてきても渡ることはできません」と言いました。
江東の地こそ項梁と項羽が8年前に決起した場所です。
項羽は笑って「天がわしを滅ぼそうとするのだ。わしは江東の子弟8000人とともに西に向かったが今や一人も残っていない。江東の父兄がわしを憐れんで王にしてくれたとしても、わしには彼らに合わせる顔がない」と言いました。
「君は長者である。わしはこの馬に乗って5年。向かうところ敵なく、1日に千里を走った。どうかこの馬をもらってくれ」
こう言った後ここまで項羽について生き延びてきた兵士たちに馬から下りるよう命じ、項羽も兵士もそれぞれが短剣を振り上げて敵と戦いました。
項羽一人で倒した漢軍兵士は数百人、自らも10余りの傷を負いました。
漢の騎司馬の呂馬童(りょ ばどう)の顔を見ると「おい、お前はわしの幼馴染じゃないか」と言いました。
呂馬童は王翳(おう えい)の方を振り返ると「項王がいたぞ!」と叫びました。
項羽は「漢軍ではわしの首に千金と万戸の邑を懸けているそうだな。お前にくれてやろう」と言うなり自刎して果てました。30歳でした。
王翳がその首を取り、他の兵士たちはその屍を手に入れようと争って数十人の死傷者が出たといいます。
王翳のほか楊喜、呂馬童、呂勝、楊武が項羽の体を一部分ずつ手に入れ、その功をもってそれぞれ諸侯に封じられました。
項羽の死後、楚の地はみな漢に降伏しましたが、魯だけは降伏せず、主君であった項羽のために節義を守って死のうとしました。
項羽はかつて楚の懐王から魯の地を封じられ、魯公となっていたのです。
魯の人々は劉邦から項羽の頭を見せられ、そこではじめて降伏しました。
漢王・劉邦は項羽を魯公として手厚く葬り、その葬式では涙を流しました。彼は宿敵・項羽の一族を滅することはありませんでした。