白起【秦を大国に押し上げた大将軍の戦歴と生涯・歴史地図】

白起

白起は、昭襄王に仕えた大将軍です。伊闕の戦い、華陽の戦い、長平の戦いなど幾多の戦場で勝利をものにした名将でしたが、のちに昭襄王から自害を命じられて悲劇の最期を遂げました。

白起とは

白起(はくき…?~BC.257)とは、中国の戦国時代(BC.475~BC.221)のの名将です。別の名を公孫起ともいい今の陝西省眉県常興鎮白家村に生まれました。

白起は秦の将軍として30年余り昭襄王(始皇帝の曽祖父)に仕え、攻め落とした城は70余り、百万近い敵軍をせん滅しました。一度たりとも敗北したことはなく、武安君に封じられました。秦の中国統一の基礎を作った武将ですが、最後は昭襄王によって自害を命じられ無念の最期を遂げました。

白起が戦ったいくさには、伊闕(いけつ)の戦い・鄢郢(えんえい)の戦い・華陽の戦い・陘城(けいじょう)の戦い・長平の戦いなどがあり、白起はそれらの戦いを無敗で勝ち抜き、『千字文』(子供または書道用テキスト。異なる漢字千字を使って書かれた長文の詩)では、白起将軍を王翦(おうせん…秦の将軍)・廉頗(れんぱ…の将軍)・李牧(りぼく…趙の将軍)と並べて戦国四名将としています。

戦国時代中期の地図
戦国時代中期の地図。秦は地図左に位置しています。
年表
年表。白起は戦国時代の秦の将軍です。

白起の戦績

伊闕の戦い

紀元前3世紀というと、BC.300~BC.201の百年を意味します。その初頭、つまりBC.290年代、秦はすでに漢中(現陝西省南西部)・蜀(三国時代の蜀ではなく古代の蜀・古蜀のこと。東は巴、西は峨眉山、南は、北は秦に接し、もと華陽と呼んだ国)を手に入れ、戦国七雄の中で独走態勢に入っていました。

これを抑えようと、戦国四君(せんごく しくん…戦国時代に活躍した4人の有力政治家。孟嘗君平原君信陵君春申君を指す)の一人・斉の孟嘗君が行く手を阻みます。

孟嘗君はその賢人ぶりが認められ、秦の28代王の昭襄王が招きますが、家臣の讒言によって命の危険を感じ秦から逃げ出すのですが、この扱いへの報復としてBC.298に孟嘗君は斉・・魏・趙・宋・中山の連合軍を作って兵を出し、函谷関で秦を破ります。その後昭襄王は宰相の魏冄(ぎぜん)の推挙によって白起将軍を得ました。

白起はBC.294に左庶長(さしちょう…秦の官職名)に任命されます。

BC.293韓が魏と連合して秦に出兵しますが、秦は白起を将軍として伊闕でこの連合軍25万と戦います。秦軍の勢力はその半分以下でしたが戦意は高く、連合軍24万の首級を獲り、さらには5つの城を落としました。

ちなみに中国がいう「城」とはいわゆる日本語の「城」ではなく、大きな町を意味します。(→参考「邑・城郭都市」)

華陽の戦い

BC.273韓・魏・趙は秦に抵抗していましたが、韓が秦の勢いに怖れをなし秦への服属を決めます。これに怒った魏王は趙とともに韓に出兵、韓の華陽を襲撃しました。

韓王が秦に救援を頼んできたため、秦は白起と胡傷二人の将軍を華陽に送ります。この時の白起の活躍はめざましく魏と趙の兵士13万の首を獲ったほか、趙の兵士2万を黄河に沈めました。

長平の戦い

BC.262秦は韓を攻め、野王という地を奪いました。これにより都との連絡を絶たれた上党郡は趙に服属するようになり、そこで秦は上党郡を平定します。すると上党郡の民衆は趙の長平に逃げ、秦軍はこれを追い、趙との戦いが始まりました。

趙王は、年老いた廉頗将軍に長平城の守備を命じ、廉頗は秦軍の攻めに対してひたすら守りに徹して出撃はしませんでした。

こうして3年が経ち、秦は趙にスパイを送って「秦は若い趙括が将軍になるのを恐れている」という流言を流します。終わらない戦争にいらだっていた趙王はこの噂を真に受けて廉頗を罷免、趙括を将軍にしました。

老いたりとはいえ有能な廉頗将軍が罷免されたとの情報を得ると、秦は白起将軍を送ります。

若い趙括は白起の挑発に乗り、秦を追い詰めたつもりで深追いし孤立します。白起は孤立した趙括軍を兵糧攻めにし、趙軍内部では人が人を食う飢餓地獄が繰り広げられました。この状況から抜け出そうと趙括は精鋭とともに攻めに出るのですがあっけなく放たれた弓に斃れ、残された趙軍40万人は戦意を失って投降しました。

白起は捕虜の命を助ければ後々の禍になると、240人の少年兵のみ故郷に帰し、残りは全員生き埋めにしました。

白起はさらに趙の都・邯鄲に兵を進めようとしたのですが、趙と韓が秦に送った使者から、「白起将軍がこの勢いで邯鄲まで落とせば、あなたの地位は危ういでしょう」と耳打ちされた秦の宰相・范雎(はんしょ)は、昭襄王に「兵は疲れ果てています」と言って撤退を勧めました。

こうして秦はそれ以上進軍することなく、趙・韓と講和を結んで長平の戦いは終わりました。

長平の戦いでの秦の勝利は戦国時代の帰趨を決め、これがやがて昭襄王の曽孫・始皇帝による秦の統一につながっていきました。

白起の功績は偉大でしたが、邯鄲戦を放棄させられたことで白起は范雎に不信感を抱き、これが後の悲劇を招きました。

ところで40万の生き埋めとは信じられない話ですが、近年この長平の戦いの跡からは膨大な数の人骨が出土しており、長平の戦いの結末がまさに事実であったことが裏付けられました。

悲劇的な最期

BC.258秦は王陵を将軍として再び趙に出兵します。

ところがこれに苦戦し、白起に再度登場を求めますが、白起はこれを「このいくさはやめた方がよい」と言って断りました。

趙は楚と魏に援軍を求め、楚は戦国四君の一人・春申君に出兵させます。

魏は秦から、趙を助けたら次は魏に攻め込むと脅され、趙を助けると約束したものの途中で軍を止めてしまいます。

そこで魏の公子・信陵君は魏王の割符を盗んで自ら兵を率いて邯鄲に向かいました。

趙の公子・平原君も自分の財産を使って決死隊を募り、集まった三千の決死隊が邯鄲で大活躍します。

そこに春申君・信陵君の軍隊もやってきて秦軍を襲い、秦は退却を余儀なくされました。

この間白起は何度も出征を求められましたが頑としてこれを固辞し続けました。

しかも「やめた方がよいと言ったではないか」と言い、この言葉が耳に入った昭襄王は激怒し、白起を一兵卒におとして陰密という場所に移住するよう命じました。

白起がその地に向かう途中、昭襄王の使者が追いつき、自決のための剣を白起に渡しました。

白起はこの時「自分に何の罪があるのだろう」と自問したものの、「そうだ、わしは長平の地で40万の捕虜を生き埋めにした。これは確かに天がわしを滅ぼすに値する大罪だ」と納得して自ら首を刎ねました。

白起が亡くなった後、秦の民衆は村々に廟を建てて、数々の軍功を立てながら死に追いやられたこの偉大な将軍の死を悼んだということです。

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