廉頗【幾度となく趙を守った名将の生涯・地図・年表】
廉頗(れんぱ)は戦国末期の趙の名将です。「刎頸の交わり」の故事で知られる藺相如とともに趙を支え続けました。晩年秦の攻撃を受け、籠城作戦の指揮を執りますが、秦のデマを信じた趙王によって失脚。その後燕の侵略を受けると再度出陣、趙を守り抜きました。
※上の画像は趙の首都・邯鄲。
廉頗とは
廉頗は戦国末期の趙の将軍で、同じ趙の将軍・藺相如との友情はのちに成語「刎頸の交わり」として知られています。二人は当時の恐ろしい敵・秦の脅威を前に心を一つにして趙を守ろうとしたのでした。二人の晩年、秦は趙への侵攻を始めます。廉頗は秦軍の勢いを見て籠城作戦を採りますが、趙王が秦のデマを信じて廉頗を更迭します。新しい将軍は若く未経験で、「長平の戦い」で秦の計略にかかり、趙は40万という膨大な死者を出しました。趙の大敗を見た燕は趙に侵攻、老将・廉頗は再び出陣して燕を撃破しました。この後趙王が代替わりすると廉頗は失脚して魏に亡命、後には更に楚に行きますが、活躍することはありませんでした。
刎頸の交わり
廉頗は趙の恵文王の15年(BC.283)、将軍として秦を討ち、その翌年には斉を討ち、その功によって上卿に任じられました。高い地位と名誉を得ていた人でした。
ところがその後、趙の大臣の家の食客にすぎなかった藺相如(りん しょうじょ)が趙の国宝を秦に取られるか、秦に攻め込まれるかという国家の危機存亡の際の活躍で、一躍国のトップの座を仕留めます。
これが面白くない廉頗はことあるごとに「わしは戦場で功を立て今の地位を得た。口先三寸で出世した男などにどれほどの価値があろうか。必ず辱めを喰らわせてやる」と言い放っていました。
このうわさを聞いた藺相如はその後廉頗とは顔を合わせないようにし、鉢合わせの可能性のある時は朝廷への参上さえ仮病を使って休むほどでした。
ある日食客を連れて外出すると向こうの通りに廉頗の姿が見えます。すると藺相如は一行に引き返すように命じました。
この様子に付き従っていた食客たちが「あなた様は一国の宰相ではありませんか。同じ地位の廉頗将軍をこのようにびくびくと恐れるなど、あまりにも恥ずかしい姿。これではあなた様に仕える気持ちはなくなります」と諫言します。
すると藺相如は「お前たちは廉頗将軍と秦王とどちらが恐ろしいと思うか」と尋ねました。
「それは秦王です」と食客たち。そこで藺相如は「私は以前、国宝『和氏の璧』をめぐって秦王を面罵してきた。どうして廉頗将軍が怖かろう。ただ思うに、あの秦が趙を攻めにやってこないのは、この国に廉頗将軍とこの藺相如二人がいるからである。われら二人が相闘えば両者共倒れになるだろう。私がこうして身を隠そうとするのはそれを恐れるからである。私情より国家の危機を第一に考えるからなのだ」と言ってきかせました。
この話は廉頗にも伝わりました。
すると彼は服を脱いで裸になり、鞭を背負って藺相如の屋敷に向かいました。
そして自分の至らなさを藺相如に深く詫び、彼と互いに刎頸の友・首を刎ねられても悔いがないという深い友情を結んだのです。
廉頗は自分の過ちと藺相如の大きな器を知ると、鞭打たれる覚悟で赦しを乞いに出かけました。名将と人々から仰ぎ見られている将軍が上半身裸になった上、鞭まで背負って謝罪に来る…藺相如は一瞬でこの人物にほれ込んだことでしょう。
この男のためなら首を刎ねられてもよい、と互いに思ったのでした。
廉頗と藺相如が刎頸の交わりを結んだ年、廉頗は斉を攻めてこれを打ち破り、その2年後魏の畿という場所を討ち、その3年後には魏の安陽を落とします。藺相如はそれから4年後斉を打ち破りました。
こうして廉頗と藺相如はしっかりと趙を守り続けました。
晩年の活躍と失脚
長平の戦い
趙の恵文王が死去して即位した孝成王の7年、秦が趙に向けて出兵します。
この頃藺相如は病に倒れ、廉頗も老境に入っていました。
廉頗は秦を追い払うべく戦場に出ますが、秦の勢いを目の当たりにして交戦を避け、守りを固めて籠城作戦を採ります。
秦がどんなに挑発してもこれに乗らず、業を煮やした秦はスパイを放って流言を飛ばしました。「秦が恐れているのは年を取った廉頗将軍ではない。秀才の誉れ高い趙括だ」と。
趙括は趙の名将・趙奢の息子で、趙奢が亡くなった後その秀才ぶりでもてはやされていました。
戦線の膠着にうんざりしていた孝成王はこの噂を信じ込みます。「老いぼれの廉頗ではどうにもならぬ。若い趙括ならなんとかしてくれるだろう」
この抜擢に病床の藺相如は不安にかられ、病をおして趙王に会いにいきました。
「趙括は机上では優秀ですが実戦の経験がありません。戦いに必要なのは書物の知識ではなく、現場での臨機応変さなのです」
けれども王はこの忠告に耳を貸しませんでした。
さて戦場に出た趙括は案の定血気にはやり、秦が差し向けた白起将軍のわなにはまって自滅。
糧道を断たれた兵士は飢えに苦しみました。
このありさまに趙括は精鋭とともに討ってでますがたちまち矢に当たって戦死。大将を失って捕虜となった趙兵40万は生き埋めにされました。
この戦いを「長平の戦い」といい、近年この戦跡からはおびただしい人骨が発掘されています。
再び趙の守護神に
さてこうして若い兵士を大量に失った趙を見て、燕がチャンスとばかり出兵します。
これに対して趙は廉頗を将軍として迎え撃ち、これを破ります。
燕の都まで包囲する勢いで、燕は5城を差し出し和睦を請いました。廉頗はまた趙の守護神となったのです。
長平の戦いで廉頗が将軍職をはずされた時食客たちはみな去っていったのですが、廉頗が再び将軍となって勢いを戻すと、食客たちがまた戻ってきました。
廉頗が彼らを追い出そうとするとその中の一人が「人間とは商売同様、勢いがあればそれに従い、勢いを失えばそこから去るもので、これが道理というものです。恨むことなどないでしょう」と言いました。
失脚後壮健ぶりをアピールするも…
孝成王が亡くなり悼襄王(とうじょうおう)が即位すると、廉頗は再び将軍職を追われました。
これを恨んで後継の楽乗将軍を攻めた廉頗は魏に亡命するのですが、魏では信頼を得られませんでした。
その後趙王が再び廉頗を招こうと使者を送りました。廉頗がまだ将軍職をこなせるか様子を見によこしたのです。廉頗は高齢でしたので趙王としてはそこが心配だったのでしょう。
廉頗は使者に自分の壮健さを見せようと、1食分として1斗(約18リットル)の米と10斤(6キロ)の肉を平らげ鎧をつけて馬にまたがりました。ところが彼を好まぬ勢力に金をつかまされた使者は趙に帰ると王にこう讒言しました。「廉頗将軍は相変わらず健啖家でしたが、私と対談する間に3回も便をもらしました」
それを聞いた趙王は廉頗も老いた、将軍職は務まるまいと判断し、迎えをよこすことはありませんでした。
その後廉頗は楚に行ってそこの将軍になるのですが、功を立てる機会はないまま亡くなりました。