平原君の逸話と故事成語【歴史地図付き】
平原君(へいげんくん)は、戦国四君と呼ばれる、古代中国・戦国末期に活躍した政治家の一人です。趙の王族出身で、趙の宰相を務めました。趙の都・邯鄲が秦に包囲されると、楚に行って趙と同盟を結んで秦に対抗するよう説得し、これに成功。また自身決死隊を作って秦軍を撃退しました。
目次
- 1. 平原君とは
- 2. 平原君の有名なエピソード
平原君とは
平原君とは、戦国末期に活躍した趙の政治家で、戦国四君(せんごくしくん)の一人。戦国四君には他に斉の孟嘗君・楚の春申君・魏の信陵君がいます。いずれも優れた政治家で、当時の超大国・秦に対抗しました。
平原君は趙の王族出身で、趙の宰相を何度も務めました。趙の都・邯鄲が秦に包囲されると楚に出向き、楚を説得して趙と対秦同盟を結ぶことに成功します。降伏寸前の邯鄲には楚の春申君、魏の信陵君が軍を率いて助けに来てくれました。この時平原君自身も決死隊を作って秦を撃退しました。
平原君は数千人に及ぶ食客がいたことでも有名で、いくつかのエピソードから作られた「嚢中の錐」「毛遂自薦」などの成語は今も残っています。
平原君の有名なエピソード
平原君は趙の王家の一族で、趙の恵文王や孝成王の宰相を務めました。3回辞職し3回就任したといいますから能力や声望の高い政治家だったのでしょう。彼はまた数千人の食客がいたことでも有名です。この人には食客にまつわる面白いエピソードがいくつもあります。
エピソード1…足の不自由な人と妾
平原君の家の隣に足が不自由な人が住んでいました。その人が足を引きずりながら水を汲みに出る様子を、平原君の妾が二階から眺めて大笑いしました。するとその翌日、足の悪い隣人が平原君の家を訪れこう言いました。「私はあなたが士を好むと聞きました。士もまたあなたの元におおぜいやってきています。それはあなたが士を大切にし、妾などは卑しむと考えているからです。私はこの通り不自由な体をしていますが、あなたの妾はこの体を笑いものにしました。ぜひともその妾の首を頂戴したいものです」
平原君は「わかりました」と言ってその隣人を帰しましたが、あとで「笑われたからとわしの妾の命を取れとは…」と一笑に付しました。
ところがそれから1年ほど経ちますと、食客たちが一人去り二人去り、やがて過半の人々が平原君の元を去っていきました。
平原君が首をかしげ「なぜ皆わしの所から去っていくのだろう」と残った食客たちに聞くと、中の一人が「あなた様が足を引きずる人を見て笑った妾の命を奪わなかったからです。女を大事にして士を軽んじる人なのだと思われたのでしょう」と答えました。
それを聞いた平原君はただちに妾の首を斬り、これを隣人に差し出して詫びたということです。この話を聞いた元食客たちはまただんだん平原君の家に集まってきました。
エピソード2…成語「毛遂自薦」の由来
BC.259秦が趙の都・邯鄲を包囲した時、趙は平原君を楚に送って趙と合従(がっしょう…連合して秦と対決する)させようとしました。
平原君は食客のうち優秀な者を20人連れていくことにしました。その時毛遂(もうすい)という者が自分を連れていくよう自ら売り込みました。平原君は毛遂が平原君の所に3年いると聞いて、「あなたが優れているなら私の耳に入っているはず。3年も私の耳に入ってこなかったということはあなたに能力がない証拠」と言って断るのですが、毛遂は自分はきわめて優秀だが、早めに目立つ行動を取れば袋が破れてしまう。だから目立たないようにしていたのだと言って連れていくよう粘ります。
これが成語「嚢中の錐」(のうちゅうのきり…才能ある者はいずれ頭角を現す」の由来です。
こうして平原君は彼を楚に連れていくことにしました。
楚に着くと平原君は楚王に趙との合従を説得するのですがラチがあきません。そこで毛遂が王の面前に乗り込み、彼の度胸と弁舌によって合従への説得に成功するのです。
平原君は自分に人を見る目がなかったことを悟り、帰国後は毛遂を上客として遇したということです。
この故事も成語「毛遂自薦」(自分を売り込む)の由来となっています。
エピソード3…邯鄲の戦い
平原君が趙に戻ると、楚は春申君が、魏は信陵君がそれぞれ趙を助けるために軍を率いてやってきてくれましたが、その到着前、趙の都・邯鄲は秦の包囲によって降伏寸前でした。この時趙の役人の子・李談がこう平原君に言いました。
「邯鄲の民は満足な衣服もなく、糟(かす)や糠(ぬか)まで食べています。人骨を薪代わりにし子を喰らう者さえ出ております。それなのにあなたの後宮には妾が数百人もいて綺羅を競い、食料も有り余るほどとか。もしあなたの家の女たちを作業に出し、家の貯蔵物で士をねぎらうなら彼らがどれほど喜ぶことか」
平原君は李談の忠告に従い、ねぎらった士によって三千の決死隊を組織し秦に立ち向かってこれを撃退しました。忠告をした李談はこの戦いで戦死したので、その父を李侯として土地を与え取り立てました。
平原君が亡くなると子孫が後を継ぎましたが、趙の滅亡とともに彼の一族も滅びました。