冒頓単于の生涯と北アジア統一の歴史

冒頓単于

冒頓単于(ぼくとつぜんう)とは、中国の北、モンゴル高原にいた騎馬遊牧民族・匈奴の王です。末の頃、父親をクーデターで倒し政権を奪いました。その後東胡を滅ぼし、劉邦を攻め、月氏を征伐して匈奴黄金時代を作りました。

冒頓単于とは

冒頓単于(ぼくとつ ぜんう…BC.234~BC.174)は、中国大陸の北にあった匈奴という騎馬遊牧民族国家の単于(王という意味)で、匈奴の黄金時代を作りました。始皇帝時代に蒙恬(もうてん)によってオルドス地方を追われた匈奴の王・頭曼単于の長男です。彼は父親から嫌われ、匈奴の西・月氏国の人質に送られますが、月氏の馬を奪って脱走。匈奴の将軍になると父・頭曼単于を暗殺して単于となります。内輪もめのゴタゴタのスキを狙って東胡が攻めてくるとこれを滅ぼし、漢王朝成立直後には漢北方の辺境に侵入し、劉邦を包囲しました。危うく難を逃れた劉邦は匈奴と交渉しに不利な条約を結び、武力的に劣勢の漢は武帝の時代までこの不利な条約に甘んじました。冒頓単于は更にたびたび月氏を征伐し、北アジア全域を統一しました。

前漢初期の地図
前漢初期の地図。匈奴は地図左上の一帯を支配していました。
年表
年表。冒頓単于はB.C.200年頃に活躍し、漢王朝に戦争で勝利しました。

匈奴とは

冒頓単于は中国古代史に出てくる匈奴の君主です。匈奴(きょうど)…名前からして何やら恐ろし気なこの国、もちろんこの名前は「匈奴語」から中国語へ音訳したものですから、元々の名前にこの漢字の意味が入っていたわけではありません。むしろこうした漢字を当てたことで、当時中国大陸の中原にいた人々の嫌悪や恐怖が感じられます。

匈奴とはいったいどんな国なのか。古代中国の春秋戦国時代にはなど中国大陸に住む民族(必ずしもすべてが純粋な漢民族とは限らない)の国々とは違って、匈奴は北方にあったモンゴル高原の民族です。

中国大陸は農耕民族の国、匈奴は騎馬遊牧民族で、文化形態がまったく異なります。

古代中国ではかなり古くから匈奴という存在は意識され、殷墟で発掘された甲骨文字の情報にもそれが残されています。

ただし文献に現れるのは代からはかなり下ったBC.318で、中国は戦国時代に入っていました。

中国の歴史に現れる匈奴は、その最初から強力な軍事政権で、戦国七雄の中の超大国・秦に対抗するために連合を組んだ・斉・の5か国に助っ人として呼ばれ、参入するのです。

頭曼単于の時代

さてこうして中国史に現れた騎馬遊牧民族の匈奴ですが、始皇帝が中国を統一した頃は頭曼(とうまん…?~BC.209)と呼ばれる単于が治めていました。

彼は北方アジアの諸部族を統一し、秦に対抗して黄河流域のオルドス地方に進出しました。

始皇帝は将軍・蒙恬(もうてん)に命じて匈奴を討たせます。蒙恬の活躍で秦はオルドスを匈奴から奪い、蒙恬はさらに黄河に沿って44の県城を築いてここに屯田兵を置き、以前からあった燕・趙・秦の長城を修復しました。これが万里の長城です。

万里の長城に登ったことがありますが、平均10メートルに満たないあの高さがいったい何を防ぐのだろうと、つまり乗り越えようと思えば誰でも乗り越えられるだろうに…と不思議だったのですが、あれは馬が乗り越えられない高さなのでした。

つまり万里の長城は匈奴をはじめとする北方異民族、騎馬遊牧民族の侵入を防ぐためのものでした。騎馬遊牧民族は馬を離れてはいくさができません。戦士と馬は一体です。

さて頭曼単于の時代、秦の蒙恬に北方に追いやられた匈奴はいったんは引っ込み、BC.210に始皇帝が亡くなって秦が弱体化すると、そのスキを狙って頭曼はオルドスを奪還しました。

冒頓単于の時代

頭曼単于には冒頓(ぼくとつ…BC.234~BC.174)という長男がいて皇太子となっていましたが、頭曼は寵愛していた妃が生んだ別の子供を後継ぎにしたいと思い、長男の廃嫡をもくろみます。

月氏の人質

その当時匈奴の東には東胡(とうこ…ツングース系の民族)、西には月氏(げっし…イラン系の民族)という有力部族がおり、頭曼は月氏と和平条約を結び、同時に冒頓を人質として送り込みました。

後で月氏を攻撃すれば、月氏はきっと冒頓の命を奪うだろうと考えたのです。何とも血も涙もない父親です。

こうして息子を月氏国に送り込むや頭曼は月氏を攻撃しました。

しかしこのとき冒頓は月氏の良馬を盗んで匈奴に無事逃げ帰ってきました。敵の良馬を盗むことは匈奴において最高の誉れでしたので、人々は冒頓を英雄として迎えました。

頭曼はこうした声を無視できず、冒頓に万騎を与えこれを将軍としました。

父へのクーデター

万騎を得た冒頓は兵士たちを鏑矢(かぶらや…矢の先端に鏑をつけヒューンと音が鳴るようにした矢)で訓練し、「わしが射る方向に矢を射よ」と命令し、「もしわしと同じ方向に射らなければ斬る」と言って徹底的に訓練しました。

最初は鳥や獣を標的とし、その後自分の良馬を標的にしました。

騎馬遊牧民族にとって良馬は宝物です。命令に躊躇する兵士がいると、冒頓はただちにその兵士を斬り捨てました。

良馬の次は自分の妃の一人を標的にしました。この時も躊躇した兵士はたちまち斬られてしまいました。

このあと冒頓は父・頭曼単于の良馬を標的にしました。冒頓がこれに鏑矢を放つと兵士たちはすぐさま一斉に矢を放ちました。

ある日冒頓は父・頭曼に随行して狩猟に出かけました。冒頓はタイミングを見計らって頭曼に向けて鏑矢を放つと、部下たちは一斉に同じ方向に矢を放ち、こうして冒頓は父の命を奪い、その政権を乗っ取りました。クーデターの成功です。秦の始皇帝が亡くなった翌年・BC.209のことでした。

東胡征伐

父親に対するクーデターが周辺諸部族に伝わると、彼らは匈奴の内乱に乗じてこれを征服しようと企みました。

特に匈奴の隣国で強大な力を持っていた東胡は、匈奴に使者を送って「頭曼単于の千里馬をいただきたい」と言ってきました。冒頓単于が臣下に相談すると臣下は「千里馬は匈奴の宝です。与えてはいけません」と答えました。

すると冒頓は「隣国がほしいと言っているのだ。馬一頭くらいいいだろう」と言って千里馬を与えました。

しばらくすると東胡王は、匈奴が自分たちを怖がっていると思い「妃の一人がほしい」と言ってきました。冒頓が再び家臣に相談すると、周りの者は激怒し「何という失礼な。奴らを攻撃しましょう」と言いました。冒頓は「隣人に側室の一人くらい与えてもいいだろう」と言って寵愛している妃を一人与えました。

東胡王はいっそう図に乗って匈奴の東国境付近に侵入し、「欧脱地(おうだっち)と呼ばれる共通の地所を譲ってもらいたい」と言ってきました。冒頓がまた家臣に相談すると「欧脱地は捨て地です。やってもやらなくてもどちらでもいいでしょう」と言いました。

これを聞いた冒頓は「土地は国の基本だ!これをやってたまるか」と言うや、やってもかまわないと言った臣下をみな斬り捨て、馬に飛び乗ると臣下を従え東にまっしぐら向かいました。そして油断しきっていた東胡を急襲し、東胡王の命を奪い、東胡の民を奴隷として拉致しました。

強力だった東胡はこうして滅び、人々は離散しました。

ちなみに後漢時代の鮮卑(せんぴ)は東胡の末裔です。

白登山の戦い

平城の地図
平城の地図。

劉邦が漢を建てたBC.201、北方防衛の要衝の地である馬邑(ばゆう)に匈奴の大軍が押し寄せてきました。冒頓率いる匈奴軍です。

馬邑を治めていた韓王信は、匈奴軍の恐ろしさを知っていたのでこれと和平を結びました。このことが高祖・劉邦の疑念を呼び、自分の立場の危うさを知った韓王信は匈奴の軍門に下りました。

冒頓はこれをチャンスと40万の大軍を率いて平城(へいじょう…山西省大同の東)に南下し、これに対して劉邦軍32万が迎え打ちました。

冒頓は敗走を装って劉邦を白登山におびき寄せ、7日間これを包囲しました。

漢の主力軍が到着する前のことでした。

劉邦は側近・陳平の策を採って、冒頓の閼氏(あつし…皇后のこと)に贈り物をしてうまく脱出することができました。

これは漢帝国にとって大きな屈辱で「平城の恥」と呼ばれ、以後漢の皇帝が自ら将軍として軍を率いることはありませんでした。

漢との和平条約

白登山の戦いの後、漢の高祖・劉邦は家臣を冒頓のもとにやり、和平条約を結びました。

条約は以下3項目ありました。

1.漢帝室の公主(皇帝の娘)を単于の閼氏として差し出し、匈奴と漢は姻戚関係を結ぶ。

2.毎年漢は匈奴に綿、絹、酒、米などを献上する。

3.匈奴単于と漢皇帝の間に兄弟の盟約を結ぶ。

いずれも匈奴に有利な条約です。

以後漢は武帝の時代になるまで、この不平等な関係に甘んじ、匈奴は、漢とは対等以上の力関係となりました。

月氏討伐と北アジア統一

東胡を征服し、漢とも有利な立場に立った冒頓は、月氏制圧に向かいました。

冒頓による月氏征伐は2回あり、1回目はBC.206のころで、その次は30年後のBC.177、漢は第5代文帝の時代です。

こうして冒頓単于率いる匈奴は北アジア全域を統一したのでした。歴史上初めて成立した遊牧民族による多民族帝国の誕生といわれています。

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