周礼の内容解説【『周礼』が儒教の経典となった理由とは】

周礼

周礼』とは周王朝の行政に関する法規について書かれた書物のことで、儒教の経典となっています。これは周王朝の行政の実態をそのまま記したものではなく、後世、儒家たちが自分たちの理念を制度化したものを記したもので、科挙の試験にも用いられました。

※上の画像は五胡十六国時代の前秦(国名)の教育者・宣文君が周の礼について教えている場面。

周礼とは

周礼』(しゅらい・しゅうらい・しゅうれい)とは、周王朝の官制(行政に関する法規)を書いた書物のことで『周官』ともいい、儒教の経典の一つです。

周礼の「礼」とはいわゆる礼儀のことではなく、行政制度や法規のことを意味します。

周礼の「周」はBC.1046年頃の武王の即位からBC.770年の幽王の死までの王朝を指します。つまり「周礼」とは西周の政治制度を意味するのです。

『周礼』は武帝の弟・周公旦によって書かれたと伝えられてきましたが、最近の研究では早くとも戦国時代の後半、つまり西周の滅亡から500年ほど後に書かれたものと考えられています。

年表
年表。

『周礼』の内容

内容は天・地・春・夏・秋・冬の6篇からなり、政府を天・地・春・夏・秋・冬の6つの官庁に分け、天は宮廷・地は教育・春は祭祀・夏は軍事・秋は裁判・冬は工事をそれぞれ司るものとし、それぞれの役人の数や仕事の内容などを記しています。

儒教のテキスト

『周礼』は西周の行政のしくみをそのまま記録したものではなく、儒教の理念を制度化したものを後世が記した書で、唐代の科挙の試験問題としても使われました。『周礼』の内容すべてが儒教的というわけではありませんが、儒教の経典としての影響力は大きく、西魏(せいぎ…535~556 南北朝時代の北朝の一つ。北魏が分裂した後、函谷関の西側にあった国)で行われた官制改革ではこの『周礼』をもとに制度が作られました。

また北宋(960~1127)の王安石の新法(当時の革新的な諸政策)も『周礼』を理論的根拠にしています。

西周における実際の行政制度

『周礼』に書かれている役人の組織や業務内容は、周代において実在しないものもあり、実在していても業務内容や所属関係は異なっていました。

たとえば『周礼』では「司土」が「司徒」と書かれ、土地・租税・戸籍・教育などを管轄する部署、「司馬」は軍政、「司工」は「司空」と書かれ、国の土木工事などを管轄する部署となっています。ところが発掘された青銅器の金文(きんぶん…青銅器に鋳込まれた文字)では、「司土」が土地、「司馬」が軍事、「司工」が租税や労役に関する行政などになっています。

周代ではこのように官僚制度が整備されていたのですが、このことが弊害をもたらすことにもつながったようです。有力貴族が重要官職につくと、その下の役人が貴族の私的な家臣のような関係になって王と官吏間の直属の関係が壊れ、王を中心とした封建制度の秩序を壊すものになっていったといわれます。

儒家はなぜ『周礼』を尊んだのか

周礼を教える場面

『周礼』は儒教の経典ですが、儒家たちはなぜ周代の行政制度を尊んだのか。その理由として以下3点を挙げる説があります。

その一つは周代の王位継承のやり方が儒家にとって妥当だと感じられたことです。では王位継承法がそれぞれ異なり、では禅譲でしたが、禹によって作られたとする夏王朝は禅譲ではなく世襲となりました。後に儒家は「君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり」として、夏が行った世襲を正しい王位継承法としました。殷ではこの継承が乱れ、弟や子供が帝位を争って王朝は不安定になりました。これに対し周では12代の王のうち一人を除いてみな子が父の帝位を継いだため、儒家はこれを理想としました。

二つ目に周では夏の桀王や殷の紂王のような残虐な暴君がでなかったことです。ただし桀王や紂王、特に紂王が本当に暴虐な帝王だったのかは今では疑問視されています。儒家が周王朝を理想化し、文王や武王を聖人と見なしたために、武王が武力で打ち破った紂王は暴虐でなければならなかった、そこで紂王は暴君であるという話が作られたのではないかというのです。

三つ目が『周礼』に見られる整った政治制度です。『周礼』は周王朝が滅んでから500年も後に書かれた書物ですが、それでもこの書には周代の行政組織についてある程度反映されており、春秋戦国時代という弱肉強食、社会の安定や秩序を欠く時代に生きた儒家たちには優れた制度だと感じられたのでしょう。

今から3000年も昔、現代でも通用するような行政組織を作り上げていたというのは確かに驚くべきことです。