信陵君の生涯~盗んだ軍で趙を救った名士~【歴史地図】

信陵君

信陵君戦国四君の一人で、王の一族です。白起の侵攻を受け、邯鄲を包囲された平原君の救援要請を受け、独断で兵を出して秦軍を撃退しました。

※上の写真は魏の首都大梁のあった開封。

信陵君とは

信陵君(生年不詳~B.C.244)はいわゆる「戦国四君」の一人です。戦国四君とは戦国末期に国をまたいで活躍した王の一族、あるいは宰相のことで、信陵君以外には孟嘗君平原君春申君がいます。

信陵君は魏王の一族で、謙虚で優しい人柄でおおぜいの人から慕われていました。食客の数3千人といわれています。趙が秦の白起将軍に攻め込まれ、長平の戦いでは多くが命を失い、邯鄲の都を包囲されました。趙の平原君の救援の呼びかけに、信陵君は救援に兵を出さない魏王から密かに軍を奪って救援にかけつけ、秦を撤退させます。この時命をかけて信陵君をに送り届けたのが食客の人たちでした。趙にいること10年、秦の侵攻を受ける母国・魏を救うため帰国して上将軍となり、各国を束ねて秦を撃退します。信陵君の威勢を恐れた秦は魏王に讒言を吹き込み、これを信じた魏王によって信陵君は失脚。信陵君が失意の中で亡くなると秦の侵攻が再び始まり、魏は衰退していきました。

信陵君の生まれと2人の食客

信陵君は魏の昭王の末っ子で、父王が亡くなると異母兄の安釐(あんき)王が即位しました。

信陵君は謙虚で優しい人柄でした。誰に対しても謙虚で、自分の身分を鼻にかけるところもありません。こうした人柄を慕って、彼の周りには人が集まり、食客は3千人もいました。

その食客に侯嬴(こうえい)という老いた隠者がいました。年は70でみやこ大梁の東門の門番をしていました。この人物の噂を聞き、信陵君は彼を食客に招こうと自ら贈り物を持って訪ねていくと、侯嬴は「これまで身を修め、行いを清くして暮らしてきました。貧しいからといって公子の財物を受け取るわけにはいきません」と言います。そこで信陵君は宴席を設け、自ら侯嬴を車で迎えにいきました。車に乗った侯嬴は、車を市場に回してくれないか、会いたい友人がいる」というと、信陵君はそれに従いました。侯嬴は市場で朱亥(しゅがい)という者に会い、長々と立ち話をしながら、信陵君の様子を伺っていましたが、彼は終始にこやかに車の中で待っていました。町の人はその様子を見て、信陵君の人柄のすばらしさを称え、侯嬴を罵りました。

やっと宴席につくと信陵君は侯嬴を上席に招きました。

侯嬴は市場で会った朱亥について「彼は一介の屠夫ですが、実は賢者です。誰もそれを知らず、屠夫仲間の中に隠れているのです」といったので、信陵君は朱亥に会いに行きました。しかし朱亥は挨拶もしませんでした。

邯鄲の危機

B.C.260秦軍が趙の長平で趙軍を打ち負かし、みやこ邯鄲を包囲しました。趙王の弟・平原君の妻は信陵君の姉で、しばしば信陵君と魏王に救援を請う手紙を送りました。

魏王が10万の兵を趙への救援に向かわせると、秦王が「趙を助けるなら魏を滅ぼす」と脅しました。これに恐れをなした魏王は兵を撤退させました。

このありさまに信陵君は趙の平原君からたびたび責められましたが、信陵君が魏王に何度救援を願っても臆病風に吹かれた魏王はうんと言いません。

兵符を盗ませ、軍を奪う

そこで信陵君は自分の食客のみを率いて、わずかに車馬100余乗を用意して救援に向かうことにしました。出発前に侯嬴老に意見を求めると、「軍を委任する割符の片割れは、魏王の寝室にあり、寵姫ならそれを盗み出すことができます。寵姫はあなた様が以前その父の仇を討ってあげたとか。それならあなた様の頼みを聞いてくれるでしょう。この兵符を手に入れ軍を奪えば、趙から秦軍を追い払うことができるでしょう」と言いました。

寵姫(如姫)が兵符を盗み出して信陵君に渡す場面
寵姫(如姫)が兵符を盗み出して信陵君に渡す場面。

信陵君がこのアドバイスに従うと、魏王の寵姫は兵符を盗み出してくれ、次は軍を魏の将軍から奪うことになりました。すると侯嬴は「屠夫の朱亥を同道なさるといい。将軍が軍を渡さなければ、彼がその命を奪うでしょう」と言いました。

信陵君が朱亥に同道を頼むと「私のような身分の者にあなた様は何度も声をかけてくださいました。返事をしなかったのは儀礼など無用だと思ったからです。今あなた様は危急の場にいらっしゃる。今こそ私が命を捧げる時でしょう」と喜んで承諾してくれました。

こうしてまずは魏の将軍の元に兵符を見せにいくと、将軍は案の定これを疑い、軍を渡そうとはしませんでした。するとそばにいた朱亥が袖の下に隠しておいた重い鉄槌で将軍に殴りかかりその命を奪いました。

その頃この案を出してくれた侯嬴は北に向かって自刎し果てていました。侯嬴は自分の命を捨てる覚悟で信陵君を趙救援に行かせたのでした。

信陵君はこうして魏の軍を手に入れ、魏兵の精鋭8万を率いて秦軍を討ち、秦軍は邯鄲の包囲を解いて退却し、趙は救われました。後になってこの経緯を知った魏王は激怒し、信陵君は全軍を魏に帰すと自分はわずかな食客とともに趙に残りました。

信陵君と趙の隠士

信陵君は趙にいること10年、秦は魏に信陵君がいないのでたびたび魏に侵攻しました。

魏王はこうした状況に、信陵君の帰国を請いましたが、信陵君はそれでも帰ろうとしません。信陵君はその間、博徒の毛公や味噌屋の薛公など、賢人と見込んだ卑賤な者と交流していました。趙の平原君はこうした交流を「信陵君はただのたわけか」と嫌悪しました。これを聞いた信陵君は「平原君を立派な人と見込んだから魏王にそむいてまで助けに来たのに、ただ表面を飾りたいだけのつまらぬ人物だ。卑賤な身分でも有能であるなら教えを請うべきで、それを恥じとするなら、平原君との付き合いはこちらからお断りだ」と言って魏に帰ろうとしました。これに対して平原君は冠を脱いでわび、引き留めました。この話を聞いた平原君の食客の半分は平原君の元を去り、信陵君の元に向かいました。

魏に戻って秦を討つ

魏が危険にさらされているのに帰国しようとしない信陵君に、博徒と味噌屋の2人の隠士が「あなたが趙で重んじられ、諸侯の間で名声があるのはバックに魏がいるからです。秦が魏を滅ぼし、魏の宗廟を荒らしたなら、あなたはどんな顔をして世の中に立つことができるのですか」と問い詰めると、信陵君の顔色がさっと変わり、すぐさま出発の準備をして魏に帰りました。

信陵君が魏に戻り魏王と面会すると、2人はともに泣き、魏王は信陵君を上将軍に任命しました。信陵君が上将軍になったと聞くや、諸侯は兵を率いて魏の救援に駆け付けました。

こうして信陵君は5か国の軍隊を指揮し、秦軍を討ち、秦の将軍・蒙驁(もうごう…蒙恬の祖父)を退却させました。連合軍がこれを追撃し函谷関まで押し寄せると、以後秦軍は函谷関から出ようとはしなくなりました。

信陵君の死と魏の没落

信陵君の名声が高まると、秦王は魏で銀をばらまき「信陵君はいずれ魏王になろうという魂胆だ」という噂を魏王の耳に入れました。魏王はこれに心がぐらつき、やがて信陵君を将軍職からはずしました。

信陵君はこれを知ると、自堕落な生活を始め、やがて酒で身体を壊して亡くなりました。同じ年に魏王も亡くなり、この情報に秦は蒙驁将軍を送って魏を攻め、20城を落としました。その後18年の月日をかけて魏王を捕虜とし、みやこ大梁を陥落させました。